野人女直
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野人女直︵やじんじょちょく︶は、女直︵jušen、女真︶の集団のうち、南西の建州女直、北西の海西女直を除く東北方に居住していた集団。明末清初にはウェジ部︵wejei (weji[1]) aiman[2]/weji aiman、渥集部︶、ワルカ部︵warkai aiman[2]、瓦爾喀部︶、クルカ部︵kūrkai aiman[3]、庫爾喀部︶の3部が存在し、マンジュ政権からは東海三部と総称されていた[4]。1596年から1625年にかけて、ヌルハチが軍を送っている。
概要[編集]
本来、明初から中期にかけて女直の分類は﹁建州﹂﹁海西﹂の2つであり、﹁野人女直﹂という分類が史料に出現するのは万暦年間以後である。この頃は女直内部でフルン四部が隆盛しつつあった時期であり、それまで﹁海西女直﹂という語がアムール川中流域の女直をも含む汎称であったのが、海西=フルン四部と指す対象が狭められるようになっていた。これに対応して、フルン四部を除く旧海西衛分の女直を指す語として﹁野人女直﹂が形成されたと考えられる[5]。 また、李氏朝鮮では建州女直以外の女直を兀良哈︵ワルカ︶[6]・兀狄哈︵udige[要出典]、ウディゲ︶の2つに分け、さらにウディゲをフルン=ウディゲ︵hulun udige[要出典]、明における海西女直、後のフルン四部に相当︶・クルカ=ウディゲ︵後のクルカ部に相当︶・諸姓ウディゲ︵後のウェジ部に相当︶に分類していた。このうち、ワルカ・クルカ=ウディゲ・諸姓ウディゲが明で言う所の﹁野人女直﹂に相当すると見られ、17世紀の満洲語史料が記す東海三部︵ワルカ・クルカ・ウェジ︶とも対応する。 明朝がアムール川下流域における統治の拠点としたヌルカン(奴児干)には、漢文とモンゴル語、女真語の3つの言語で記された碑文が残されており、この碑文において﹁野人﹂という漢字に対応するモンゴル語/女真語はUdigan/Udigenと記されている[7]。これはツングース語で﹁森の人﹂を意味するweji-kaiがなまったものであり、明において﹁野人女直﹂と呼ばれた集団は遼代より存在する﹁生女真﹂の後裔であると考えられている。分類[編集]
ワルカ[編集]
(ᠸᠠᡵᡴᠠ, warka, 瓦爾喀)‥ ゴルミン・シャンギャン・アリン (長白山) 以東のトゥメン・ウラ (図們江) 流域に居住。[8]朝鮮側の呼称はオランカイ (兀良哈)[6]。永楽初頭に設置された毛憐衛の構成部族。[8] ●アンチュラク[9][10]‥ワルカ部の西域 (大小図拉庫水一帯) に位置する建州部の属領。ウラが頭目を捕らえてイェヘに差し出した。[8] ●フョ[11][12]‥琿春荘 (現吉林省延辺朝鮮族自治州琿春市) 一帯に居住。[8]万暦35年 (1607) 旧暦正月、ウラの侵攻を受けて500戸がヌルハチに帰順。[13] ●スイフン[14][15]‥崇禎10 (1637) 年旧暦7月、清朝の喀凱、塔克らが討滅。[13] ●ヤラン[16][17]‥崇禎10 (1637) 年旧暦7月、清朝の喀凱、塔克らが討滅。[13] ●フイェ[18][19]‥ウスリー・ウラ (烏蘇里江) 上流一帯に居住。崇禎10 (1637) 年旧暦7月、清朝の喀凱、塔克らが討滅。[13] ●ナムドゥル[20][15]‥綏芬河流域の速平江一帯に居住。[8] ●ニマチャ[15][21]‥ ●ウルグチェン[22][23]‥萬曆39 (1611) 年、清朝の阿巴泰、蜚英東、順科落らが討滅。[13] ●ムレン[23][24]‥ウルグチェンと併せて攻略された。 ●阿庫里尼満‥崇禎8 (1635) 年、清朝のウバハイ (呉巴海) が討滅。[13] ●兀爾格陳 (呉爾格臣)[25]‥崇禎10 (1637) 年旧暦7月、清朝の喀凱、塔克らが討滅。[13] ●兀爾機‥崇禎10 (1637) 年旧暦7月、清朝の喀凱、塔克らが討滅。[13] ●尼黒庫倫‥崇禎10 (1637) 年旧暦7月、清朝の喀凱、塔克らが討滅。[13] ●諾落河湾‥崇禎10 (1637) 年旧暦7月、清朝の喀凱、塔克らが討滅。[13]フルハ/クルカ[編集]
(ᡥᡡᡵᡥᠠ, hūrha, 虎爾哈/ᡴᡡᡵᡴᠠ, kūrka, 庫爾哈, 庫爾喀)‥ スンガリ・ウラ (松花江) とムダン・ウラ (牡丹江) の流域に居住。元代の呼里改路 (現黒龍江省ハルビン市依蘭県) の所在地。[13]
●兀扎喇‥崇禎6 (1633) 年、兀扎喇地方の首領・綽奇が清に入朝し、貂狐皮を貢納。同8 (1635) 年旧暦5月、ウバハイ (呉巴海) らが征討。同年旧暦10月、兀扎喇部主の弟・塞痕卜克沙らが清朝に帰順し、ニングタ地方に移住。同14 (1641) 年旧暦2月、ニングタ・ジャンギン・鍾果兌らが残党勢力の集落を征服。[13]
●綽庫禅‥崇禎16 (1643) 年旧暦5月、清朝の阿爾津らが討滅。[13]
●能吉爾‥崇禎16 (1643) 年旧暦5月、清朝の阿爾津らが討滅。[13]
●喇里闡‥崇禎12 (1639) 年旧暦8月、清朝の薩木什らが討滅。[13]
●鐸陳‥崇禎12 (1639) 年旧暦8月、清朝の薩木什らが討滅。[13]
●阿撒津‥崇禎12 (1639) 年旧暦8月、清朝の薩木什らが討滅。[13]
●多金‥崇禎12 (1639) 年旧暦8月、清朝の薩木什らが討滅。[13]
●兀庫爾城‥崇禎12 (1639) 年旧暦8月、清朝の薩木什らが討滅。[13]
●掛喇爾‥崇禎12 (1639) 年旧暦8月、清朝の薩木什らが討滅。[13]
●額蘇里‥崇禎12 (1639) 年旧暦8月、清朝の薩木什らが討滅。[13]
●額爾兔‥崇禎12 (1639) 年旧暦8月、清朝の薩木什らが討滅。[13]
●格先里‥崇禎元年旧暦正月、頭目四人が清朝に入貢。[13]
●シラヒン[26]‥撓力河支流の七里河流域に居住。万暦44年 (1616)、順科落らが説伏。46年 (1618)、一族で帰順。[13]
●那堪泰‥崇禎3年 (1630) 旧暦11月、領袖・虎爾噶が妻子を率いてニングタに投降。命馬爾拖朝大清。求駐牧地。[13]
●託科落羅 (脫科落)‥崇禎10年 (1637) 旧暦4月、旧暦12月、15年 (1642) 旧暦12月、清朝に貂狐皮を貢納。[13]
●努牙喇 (耨野勒)‥崇禎11年 (1638) 旧暦4月、清朝に帰順。[13]
●黙爾車勒‥崇禎11年 (1638) 旧暦12月、清朝に帰順。[13]
●黒葉‥崇禎11年 (1638) 旧暦12月、清朝に帰順。[13]
●馬爾遮頼‥崇禎15年 (1642) 旧暦12月、清朝に帰順。[13]
●科爾仏科爾‥崇禎15年 (1642) 旧暦12月、清朝に帰順。[13]
●庫薩喀里‥崇禎15年 (1642) 旧暦12月、清朝に帰順。[13]