野沢清人
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野沢 清人︵旧字体‥野澤 淸人、のざわ きよんど、1907年︵明治40年︶4月7日[1][注 1] – 1959年︵昭和34年︶10月18日[2][3]︶は、昭和期の薬剤師、実業家、政治家。衆議院議員。
経歴[編集]
栃木県[2][3]河内郡本郷村︵現上三川町[4]︶で生まれる[4]。1930年︵昭和5年︶東京薬学専門学校︵現東京薬科大学︶を卒業した[2][3]。 薬科関係の経歴を歩み、1941年︵昭和16年︶薬剤官として応召し、終戦を薬剤大尉として迎え、3年間シベリア抑留となった[4]。 復員後、第一化学工業所を設立し、のちに関東化学と改称して社長に就任[2][3][4]。その他、社会保障制度審議会委員、日本薬剤師協会︵現日本薬剤師会︶副会長、同常任顧問、東京薬科大学理事長、試薬協会理事長などを務めた[2][3][4]。 1952年︵昭和27年︶10月の第25回衆議院議員総選挙に栃木県第1区から自由党公認で出馬して初当選した[3][4][4][5]。第26回総選挙では次点で落選[6]。1955年︵昭和30年︶2月の第27回総選挙で再選され[6]、第28回総選挙でも当選し[6]、衆議院議員に通算3期在任した[2][3][4]。この間、自由民主党総務局庶務部長、同政調会社会部長などを務めた[2][3]。1959年10月、議員在任中に死去した。著作[編集]
- 『ソ連の乳房:捕虜から国賓へ』産業経済新聞社、1955年。
脚註[編集]
注釈[編集]
- ^ 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』474頁では「7月」。