鈴木久次郎
鈴木 久次郎︵すずき きゅうじろう、1866年9月4日︵慶応2年7月26日[1][2][3]︶- 1931年︵昭和6年︶11月29日[2][注釈 1]︶は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員︵7期︶。
経歴[編集]
上総国望陀郡岩出村[2]︵千葉県[4]望陀郡小櫃村、君津郡小櫃村[5][6]、君津町を経て現君津市[2]岩出︶で、農業・醤油醸造業・製糸業[2]、鈴木市太郎[注釈 2]の長男として生まれた[2][3]。小学校卒業後、平島亮胤から漢学を学び、南総英語学校を卒業[2]。1887年︵明治20年︶専修学校︵現専修大学︶で英語、経済学を学んだ[2][4]。 帰郷して家業に従事[2]。文房具、ペン先製造業を開始し[2][5]、南総銀行取締役、久留里銀行取締役も務めた[2][5][6]。その後、東京に拠点を移し、日本緬羊社長、日本衛生肥料取締役、日本炭礦社長、日東炭坑取締役、光行電線取締役、南部製鉄取締役、三重セメント取締役、富士鉱業監査役、満鮮塩業監査役などを務めた[2][3][4][5][6]。 1897年︵明治30年︶10月、進歩党所属で千葉県会議員に選出され1899年︵明治32年︶9月まで在任した[2][4][6]。1902年︵明治35年︶8月、第7回衆議院議員総選挙︵千葉県郡部、憲政本党︶で初当選[2][7]。以後、第14回総選挙まで6回再選され、革新倶楽部などに所属して衆議院議員に通算7期在任した[2][4][6]。この間、第10回総選挙で当選後、1909年10月23日に禁錮刑を受けて議員を退職している[8]。これにより勲四等を褫奪された[9]。また、第13回総選挙で落選したが[10]、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、1917年︵大正6年︶12月8日、千葉県知事により当選証書が取消され[11]、同月に実施された再選挙に出馬して当選した[4][12]。 地元の振興のため、軽便鉄道久留里線の敷設に尽力し、1903年︵明治36年︶鉄道敷設の発起人に加わり、久留里駅まで開通後は上総亀山駅までの延長運動に尽力した[2]。国政選挙歴[編集]
- 第7回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1902年8月、憲政本党)当選[7]
- 第8回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1903年3月、憲政本党)当選[7]
- 第9回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1904年3月、憲政本党)当選[7]
- 第10回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1908年5月、憲政本党)当選[13]
- 第12回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1915年3月、立憲同志会)当選[13]
- 第13回衆議院議員総選挙(千葉県郡部、1917年4月、憲政会)次点落選[10]
- 第13回衆議院議員総選挙再選挙(千葉県郡部、1917年12月)当選[12]
- 第14回衆議院議員総選挙(千葉県第8区、1920年5月、憲政会公認)当選[14]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ 衆議院﹃第三十六回帝国議会衆議院議員名簿﹄︿衆議院公報附録﹀、1915年、8頁。
(二)^ abcdefghijklmnop﹃千葉県議会史‥議員名鑑﹄457頁。
(三)^ abc﹃大衆人事録 昭和3年版﹄す65頁。
(四)^ abcdef﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄331頁。
(五)^ abcd﹃現代日本の政治家﹄同志会364-365頁。
(六)^ abcde﹃総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回﹄236頁。
(七)^ abcd﹃衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回﹄11頁。
(八)^ ﹃官報﹄第7910号、明治42年11月4日。
(九)^ 官報 1911年7月10日 二二三頁
(十)^ ab﹃衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回﹄87頁。
(11)^ ﹃官報﹄第1619号、大正6年12月24日。
(12)^ ab﹃官報﹄第1622号、大正6年12月27日。
(13)^ ab﹃衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回﹄51頁。
(14)^ ﹃衆議院議員総選挙一覧 第14回﹄11頁。