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鈴木 喬︵すずき たかし、1920年11月10日 - 2010年10月29日︶は、熊本県の歴史研究家。地名研究家としても知られる。
鈴木喬は、父・鈴木登︵1888年 - 1954年、京都帝国大学文学部史学科出身︶が京都市視学[1]であったので、京都大学医学部附属病院で生まれた。満2歳で父が第五高等学校教授に招請されて、熊本で育つ。碩台幼稚園、白川小学校時代を通じて本を読むのが好きであった。熊本中学校︵現県立熊本高等学校︶時代は3年にわたって結核を患う。日本大学文学部史学科卒業。1945年の東京大空襲は辛うじて逃れたが、熊本大空襲で自宅が被爆、父親の多くの史料が焼失した。
戦後は新制中学で教職につき、熊本市立白川中学校、熊本市立出水中学校などに勤務する。1966年、乞われて熊本市教育委員会に勤務する。以後15年、退職するまで熊本の文化財の調査、保存に精魂を込めた。文化係から初代文化課長となる。
評価を高めたものに、大学教授から高校の考古学クラブなども参加させ、熊本市を6つに分け、1年を調査、次年を報告書作りしたことで、12年がかりの大仕事であった。その後、熊本大学教養部非常勤講師︵9年︶、熊本市文化財保護委員、熊本城顕彰会理事、小泉八雲熊本旧居保存会会長などを委嘱される[2]。その他、熊本地名研究会を主催した。
注‥あまりに業績が多く、編集者や共著者などの分類が不明確のものもある。
●熊本県知事寺本広作﹃熊本県史﹄︵1961年 - 1965年、熊本県︶
●﹃熊本県市町村合併史﹄
●﹃熊本県議会史﹄
●﹃富重利平写真集﹄
●﹃熊本市地区別文化財調査報告書﹄[3][4]
●隈本古城史︵熊日出版文化賞︶
●熊本城
●玉名市史
●嘉島町史
●旭志村史
●熊本昭和史年表
●︵父・鈴木登との共著︶天草の名代官 鈴木重盛・重辰とその一族︵2003年、熊本地歴研究会︶
●﹃熊本の城﹄
●﹃熊本の社寺﹄
●﹃熊本市史年表﹄
●光野光哉﹃新・熊本市史﹄︵1996年 - ︶
●﹃学習まんが熊本の歴史﹄︵熊日出版文化賞︶
●﹃角川地名大辞典43熊本県﹄
●﹃目で見る熊本史の100年﹄︵2000年 郷土出版社︶
●﹃熊本城三の丸森本櫓跡添畑遺跡調査報告書﹄︵1969年︶
●﹃熊本の人物 熊本の風土とこころ第3集﹄︵1982年︶
●﹃故郷の想い出 写真集 明治大正昭和﹄︵1980年 写真集明治大正昭和図書刊行会︶
●﹃藤崎八幡宮の歴史﹄自費出版
●﹃西南戦役の功労者 谷村計介﹄︵1998年 熊本中央ライオンズクラブ︶
●﹃肥後宋氏一族の盛衰﹄自費出版
●﹃上田初彦日記関連文献﹄自費出版
●﹃天草の名代官 鈴木重盛・重辰とその一族﹄︵2003年 熊本地歴研究会︶
●﹁部屋住藩士の長崎・天草視察旅行記﹂熊本歴研 史叢 第9号︵2004年︶ p.42-p.53
地名関係[編集]
●﹁九州とその異称の成立について﹂ 1989年2月 巻号23熊本地名研究会報
●﹁和名抄に見える益城郡の郷名比定私見﹂ 1991年10月巻号 第32号 熊本地名研究会
●﹁[官選﹃風土記﹄概説(1)﹂ 1992年10月 巻号36熊本地名研究会
●﹁古代の世界とそこに住む人々-﹃肥前国風土記﹄を読む﹂松浦豊敏/討論・鈴木喬、田邊哲夫、荒木陽海、井出聰、高濱幸敏 1993年11月40熊本地名研究会
●﹁官選﹃風土記﹄概説(3)﹂ 1993年5月38熊本地名研究会
●﹁官選﹃風土記﹄概説﹂ 1993年2月37熊本地名研究所
●﹁官選﹃風土記﹄概説﹂ 1993年8月39熊本地名研究会
●﹁熊本民謡﹁ポンポコニャー﹂と熊本名所地名考﹂ 1994年3月5市史研究くまもと
●﹁﹁神々と地名﹂をテーマに第13回熊本地名シンポジウム開く﹂ 1998.12 40 日本地名研究所通信
●﹁第12回熊本地名シンポジウム﹂ 1998.1 35 日本地名研究所通信
●熊本の100年編集者﹃熊本市の百年﹄郷土出版社︵名古屋市︶、2000年。
●写真集明治大正昭和図書刊行会﹃写真集明治大正昭和﹄図書刊行会、1980年。
(一)^ 第二次世界大戦前の日本の国家および地方の教育行政官。国家の教育方針を徹底させるため、学事の視察、教育の指導監督を行ない、特に地方の視学は教員人事の実権を握っていた。
(二)^ Hand to Land Magazine ﹁鈴木喬、熊本の歴史の生き字引﹂2000年9月 p.18-22
(三)^ 熊本市の百年[2000:p.147]
(四)^ 写真集明治大正昭和図書刊行会[1980:p.167]