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阿礼奴跪︵あれなこ、生没年不詳︶は、雄略天皇代の日本使者[1]。日本からの使者とあるから、日本人とみられる[2]。
﹃日本書紀﹄雄略二年七月条によると、455年に百済蓋鹵王が即位し、天皇は、阿礼奴跪を遣わして、女郎を送るように求めた。百済は、慕尼夫人の娘を飾らせて、適稽女郎と名づけて、天皇に奉った[1]。
坂元義種は、﹁古訓アレトク。﹃奴跪﹄を共有する人名には﹃神功紀﹄四十九年条の﹃沙沙奴跪﹄、﹃欽明紀﹄五年条所引﹃百済本記﹄の﹃津守己麻奴跪﹄などがある。﹃跪﹄はいわゆる百済三書に特有の人名表記であろう。﹃奴﹄は﹃ド・ノ﹄甲類や﹃ヌ﹄の当て字であり、﹃跪﹄は﹃ク﹄。なお、﹃神功紀﹄四十七年夏四月条分註に﹃千熊長彦ハ、分明二其ノ姓ヲ知ラザル人ナリ。一ニ云ク、武蔵国ノ人ナリト。今ハ是レ額田部槻本首等ノ始祖ナリ。百済記ニ職麻那々加比跪︵古訓‥シマナナカヒク︶ト云ヘルハ、蓋シ是レカ﹄とあり、﹃比跪﹄は﹃彦﹄に当たるので、﹃跪﹄は﹃子﹄に当てたものであろうか﹂とする[3]。