陸軍被服本廠
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概要[編集]
「東京第一陸軍造兵廠」も参照
1890年︵明治23年︶3月に制定した陸軍被服廠條例によって被服廠を本所区に設置。1903年︵明治36年︶には廠内に大阪支廠が開設され、1904年︵明治37年︶大阪に庁舎が完成するとともに移転した。また1905年︵明治38年︶6月廠内に広島派出所開設、8月に広島に移転した︵その後支廠に昇格︶。1908年︵明治41年︶、条例改正によって陸軍被服廠は陸軍被服本廠、大阪支廠は大阪陸軍被服支廠、広島出張所は広島陸軍被服支廠に改称[1]。
1919年に本所区から王子区赤羽台に移転。もともと1891年から被服倉庫があり一体化する目的であった。本所区の跡地は1922年に逓信省と東京市に払い下げられ、運動公園や学校が整備される予定が立てられた。しかし、1923年9月1日に発生した関東大震災により、住民の避難場所となったところに火災旋風が襲い、敷地内に避難していた約4万人のうち約3万8千人が死亡した。これは大震災全体の犠牲者の約1/3にも達する大惨事であった。
1944年には札幌陸軍被服支廠、1945年4月、東京陸軍被服支廠、仙台陸軍被服支廠、名古屋陸軍被服支廠、福岡陸軍被服支廠が開設されるも、終戦。旧満州にも奉天陸軍被服支廠︵関東軍︶が設置されていた。
終戦後は米軍に接収され、東京兵器補給廠の所属地となった。米軍住宅の赤羽ハイツが建設された。返還後、赤羽台団地が造成された。現在は建て替え工事が進み、ヌーヴェル赤羽台へと生まれ変わっている。