飫肥杉
飫肥杉︵おびすぎ︶は日本の九州地方、宮崎県南東部の日南市付近で育成されるスギである。江戸時代、伊東氏飫肥藩によって植林活動が始められた。
代表的な赤系︵オビアカ、アラカワ、タノアカなど︶11品種と、黒系︵クロ、トサグロ、ヒダリマキなど︶5品種がある[1]。
概要[編集]
樹脂を多く含んでいるため吸水性が低く、軽量で強度が高いことから造船用として盛んに利用された。一般的なスギと比較して生育は早いが、造船用としては幹を太くする必要があったことから伐採までには50-70年を要した。造船用のスギは﹁弁甲﹂と呼ばれる側面を平らに削った形状に加工されてから出荷された。 産地は飫肥藩領の日南市旧市・北郷地区の広渡川流域を中心とし、日南市南郷地区、宮崎市︵木花地区、青島地区、田野町、清武町︶の山間部にまたがる。また、飫肥藩領外の串間市や都城市の一部にも移植された。 宮崎県ではフェニックス、ヤマザクラ︵山桜︶と共に県の木に指定されている[2]。歴史[編集]
飫肥藩は江戸時代初期に石高を誇張したため出費がかさみ財政的に厳しい状態であった。このため換金可能な産物として豊富な木材資源に着目し、マツやクスノキなどの大木を日本各地に出荷していた。 1615年︵元和元年︶、当時の藩主伊東祐慶がスギの植林を指示し、1623年︵元和9年︶に一部の下級武士が植林を始めているが、伐採に植林が追いつかず山林の荒廃には歯止めが掛からなかった。1686年︵貞享3年︶に堀川運河が完成して木材の出荷は円滑に行えるようになったが、18世紀に入ると天然の木材資源が枯渇し始めた。このため1718年︵享保3年︶、当時の藩主伊東祐実が植林を前提として伐採した材木の利益を住民2分の1、藩2分の1に分配する﹁二部一山の法﹂をつくり本格的に植林を奨励することになった。18世紀後半になると野中金右衛門や石那田実右衛門など植林事業を精力的に行う藩士が現れ、スギの安定的な育成が行われるようになった。飫肥藩は1791年︵寛政3年︶に二部一山の法を﹁三部一山の法﹂︵利益配分は住民3分の2、藩3分の1︶に改め、林業を監督する山方奉行を新設し、さらに杉山帳簿を作成するなどして植林事業を強化している。 ﹁三部一山の法﹂の思想は1878年︵明治11年︶制定の﹁部分木仕付条例﹂にも盛り込まれ、さらに1899年︵明治32年︶制定の﹁国有林野法﹂に引き継がれ、営林法令の礎となっている。 1965年︵昭和40年︶頃から造船用木材の需要が減少し始めたため、住宅用建築材料などを志向した新しい林業への転換・市場開拓が進められている。NICシート[編集]
飫肥杉をシート状に加工したNICシートが開発されており、2022年︵令和4年︶にこのシートを利用した飫肥駅の駅名看板が設置された[3]。脚注[編集]
- ^ 飫肥杉について 南那珂森林組合
- ^ 県の木・県の花・県の鳥
- ^ “駅名看板 飫肥杉製に 日南・飫肥駅に取り付け”. 宮崎日日新聞 (2022年3月3日). 2022年3月14日閲覧。
参考文献[編集]
- 宮崎県編 『宮崎県林業史』 宮崎県、1997年、全国書誌番号:98011090、NCID BA3113766X
- 日南市史編さん委員会編 『日南市史』 日南市、1978年、NCID BN13649606