出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高野 常道︵たかの つねみち︶は、江戸時代中期から後期にかけての儒臣。越後長岡藩士。一般的には高野余慶として知られる。
享保14年︵1729年︶、やはり越後長岡藩士で儒臣であった高野永貞︵栄軒︶の長子として誕生[1]。
常道は、伊藤仁斎を私淑し、兵法に通じ[2]、旧典に詳しかったという[1]。
8代藩主・牧野忠寛に信任され、忠寛の子・忠精と忠義︵後の有馬氏保︶の侍読となる[1]。以降、忠精に近侍した[1]。常道の人物は、松平定信より﹁泰助︵常道の通称︶は君子なり﹂と称えられる程であったとされる[3]。藩主に46年仕えたうちの24年は江戸勤番であった[1]。
隠居後も、常に四書五経を講じ、兵書古礼を説き、馬術、水練、弓術、砲術等を究めたという[4]。﹃由旧録﹄﹃軍用家訓﹄﹃軍中職掌考﹄その他多数の著作がある[5]。常道の著であるとされる﹃昇平夜話﹄に見える、﹁東照宮上意に、郷村の百姓共は死なぬ様に、生ぬ様にと合点致し、収納申付様にとの上意﹂とのくだり[6]は、﹃本佐録﹄の﹁百姓は財の余らぬ様に、不足なき様に治むること道なり﹂と共に、江戸幕府の農民政策を示したものとして知られる[7]。
文化12年︵1815年︶2月13日、87歳で病没[8]。墓は現在の新潟県長岡市西新町に所在する長福寺[5]。
その他[編集]
●藩に陽明学を導入した高野松陰との関係は不詳。
●後世においても、長岡の人々に﹁余慶さん﹂として知られたという[9]。
●軍人の山本五十六︵旧姓・高野︶は玄孫に当たる[10]。
(一)^ abcde﹃北越名流遺芳 第2集﹄17頁、﹃三百藩家臣人名事典4﹄14頁
(二)^ 常道は、北条氏長の門弟・片山良庵に学んだ長岡藩士・真柄安勝以来の同藩における北条流軍学の学統を受け継いだとされる︵﹃日本兵法史 上﹄423-424頁︶。
(三)^ ﹃北越名流遺芳 第2集﹄18頁、﹃三百藩家臣人名事典4﹄14頁
(四)^ ﹃北越名流遺芳 第2集﹄17頁
(五)^ ab﹃北越名流遺芳 第2集﹄19頁、﹃三百藩家臣人名事典4﹄14頁
(六)^ ﹁昇平夜話附録﹂﹃日本経済叢書 第2巻﹄238頁
(七)^ ﹃江戸時代の支配と生活﹄105頁
(八)^ ﹃北越名流遺芳 第2集﹄19頁
(九)^ ﹃長岡市史﹄164頁
(十)^ ﹃史伝山本元帥﹄13頁
●今泉鐸次郎﹃北越名流遺芳 第2集﹄︵巣枝堂目黒書店、1915年︶
●家臣人名事典編纂委員会編﹃三百藩家臣人名事典4﹄︵新人物往来社、1988年︶︹長岡藩は稲川明雄執筆︺
●石岡久夫﹃日本兵法史 兵法学の源流と展開 上﹄︵雄山閣、1972年︶
●滝本誠一編﹃日本経済叢書 第2巻﹄︵大鐙閣、1923年︶
●蔵並省自﹃江戸時代の支配と生活﹄︵三和書房、1967年︶
●長岡市編﹃長岡市史﹄︵長岡市、1931年︶
●渡辺幾治郎﹃史伝山本元帥﹄︵千倉書房、1944年︶