鳥海時雨郎
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鳥海 時雨郎︵とりうみ[1]/とりのうみ[2] じうろう、1844年9月15日︵天保15年8月4日[2]︶ - 1893年︵明治26年︶6月16日[1][2]︶は、明治時代の政治家。衆議院議員︵1期︶。
経歴[編集]
鳥海知恕の子として、出羽鶴岡藩領飽海郡蕨岡上寺村︵山形県飽海郡上蕨岡村、蕨岡村を経て現遊佐町︶に生まれる[2]。家号を南泉坊と称した[2]。東之院の門に入り漢学を修めたのち常世長胤のもとで皇学を学び、大物忌神社禰宜少講義となる[2]。森藤右衛門、松本清治らと尽性社を結成して[3]自由民権運動にも関与し、同志と共に両羽新報を創刊した[2]。ついで1879年︵明治12年︶から1890年︵明治23年︶まで山形県会議員を務め、その間副議長および議長を歴任した[2]。 1890年︵明治23年︶7月の第1回衆議院議員総選挙では立憲自由党所属で出馬、当選[2]。1891年︵明治24年︶12月25日の衆議院解散まで務めた[4][注 1]。ほか、山形県常置委員などを務めた[1]。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『新編庄内人名辞典』487頁で1892年(明治25年)2月まで在任とするが誤り。