鶴見左吉雄
鶴見 左吉雄︵つるみ さきお、1873年︵明治6年︶9月13日[1] - 1946年︵昭和21年︶12月17日[2]︶は、日本の農商務官僚。実業家。
経歴[編集]
富山県で士族鶴見有成の子として生まれる。1899年︵明治32年︶、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した[3]。内務省に入省︵配属先は地方局[4]︶。岩手県参事官、兵庫県参事官、三重県内務部長を歴任した[1]。1908年︵明治41年︶、農商務書記官に転じ、外務書記官・製鉄所参事を兼ね、1917年︵大正6年︶に水産局長に就任した[1]。その後、山林局長、商務局長を経て、農商務次官に就任した[3]。 1924年︵大正13年︶、退官[3]。1927年︵昭和2年︶より東京モスリン紡織株式会社︵のち大東紡織株式会社に改称︶社長を務めた[3]。 その他、日本石油株式会社取締役、帝国発明協会副会長・会長、日満緬羊協会理事長、商業報国会会長、繊維産業協議会会長、商業組合中央会会長、商工組合中央金庫監事などを務めた[5][6]。 戦後、公職追放となった。墓所は雑司ヶ谷霊園[4]。脚注[編集]
- ^ a b c 人事興信録 第5版 1918.
- ^ 戦前期官僚制研究会編『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、1981年、156頁。
- ^ a b c d 大衆人事録 1930.
- ^ a b 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、180頁
- ^ 人事興信録 第13版 1941.
- ^ 人事興信録 第14版 1943.