鹿野忠雄
鹿野 忠雄 | |
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1929年、紅頭嶋にて | |
生誕 |
1906年(明治39年)10月24日 東京市淀橋区柏木 |
死没 |
1945年(昭和20年)7月15日? 以降、消息不明 ボルネオ島サバ州タンブナン~サボン |
居住 | 台湾(日本統治時代) |
国籍 | 日本 |
主な業績 | 本文参照 |
プロジェクト:人物伝 |
鹿野 忠雄︵かの ただお、1906年︵明治39年︶10月24日 - 1945年︵昭和20年︶7月15日?消息不明︶は、東京生まれの博物学者。 理学博士で昆虫学者、探検家。
業績は多岐にわたり、生物地理学者、文化人類学者、民俗学者、または近年ではナチュラリストなどとしても知られる。 台湾を中心に東南アジアでさまざまな研究調査活動を行い、第二次世界大戦終戦直前の1945年夏、ボルネオ島北部で行方不明になり消息を絶った。当時38歳。 主な著書に﹃山と雲と蕃人と﹄などがある。
略歴[編集]
1906年︵明治39年︶10月24日 - 東京市淀橋区柏木︵現東京都新宿区︶に生まれる。 出生時の家族構成については不詳。のち尋常小学校に入学。 1919年︵大正8年︶ - 12~13歳頃、月刊雑誌﹃昆虫世界[1]﹄に初めての論文が掲載される。 1929年︵昭和4年︶3月 - 台北高等学校卒業。 1935年︵昭和10年︶3月2日~4月8日 - 岡田彌一郎、木場一夫らとともに伊江島をはじめ沖縄諸島の第一回﹁沖縄島動物分布調査﹂に参加[2]。 1940年︵昭和15年︶ - 結婚。︵33歳︶ 1941年︵昭和16年︶ - 論文﹁次高山彙に於ける動物地理学的研究﹂﹁Zoogeographical studies of the Tsugitaka mountains of Formosa﹂にて京都帝国大学より理学博士の学位を取得[3][4]。 1945年︵昭和20年︶ - 北ボルネオで行方不明になり消息を絶つ。当時38歳。この節の加筆が望まれています。 |
消息と諸説[編集]
経緯[編集]
陸軍省からボルネオの民族調査の依頼を受けた鹿野は、1944年︵昭和19年︶7月、妻と二人の幼子に見送られ東京を発ち、8月には北ボルネオに入っていた。翌1945年︵昭和20年︶、戦況がいよいよ悪化し彼らにも緊急で現地召集がかけられたが、キナバタンガン川上流地域の調査で密林に分け入っていた彼らは同年7月10日にキナバル山をのぞむ内陸の町タンブナン︵丹布南︶に入ってようやくそれを知らされた。同年7月15日、司令部のあったサボン︵サポン、沙蓬︶へ帰るため、助手の金子總平(後述)と同行の原住民︵苦力︶3名を連れてタンブナンを出発。だが、これを目撃[5]されたのを最期に消息は不明となった。 また別資料ではこの出発後、空襲を受けた直後のケニンガウ︵Keningau︶の町にも立ち寄っていたとするものもあるが、その後消息不明。
諸説[編集]
鹿野の消息を説明する仮説は当時からおもに2つ存在していたとされ、1つは、当時日本軍に対するゲリラは各地に出没しており彼らに襲撃された可能性が高いとする仮説、もう1つは、逆に日本軍側の憲兵に撲殺されたとする仮説がある[6][7]。 ただし、いずれの説も当時の混乱のなか数少ない証言と噂や憶測を元に形成された仮説で確証は得られない。また、戦後からは生存説も信じられていた。著作[編集]
●﹃山と雲と蕃人と ―台湾山岳紀行―﹄1941年︵昭和16年︶ 中央公論社 - ︵近年復刻版あり、#参考文献参照︶ ●﹃東南亜細亜の民族学先史学研究﹄上巻︵1946年︵昭和21年︶︶ ・下巻︵1952年︵昭和27年︶︶ - (CiNii 国立情報学研究所) その他論文多数。この節の加筆が望まれています。 |
人物・エピソード[編集]
●助手を務めたトタイによれば、鹿野はいつも白い探検帽を被って現れ、それが彼のトレードマークのようだったと回想している。 ●東京に戻り資料の整理や論文の執筆をしている間、夏の蒸暑い日には執筆の合間に上半身裸になってテニスに興じる鹿野の姿なども伝えられている。 ●また、夫人の回想録によると︵その理由は分からず不思議だったが︶なぜか黄色いものを嫌ったと記している。 ●鹿野の人柄や風貌をよく伝えている写真としては、1929年︵昭和4年︶に紅頭嶼で撮影された日本人研究者と台湾原住民たちとの集合写真や、1944年︵昭和19年︶夏、北ボルネオに出発する直前に撮影された家族写真などが現存する。両写真に写る彼の風貌は、髪はオールバックでひげ・もみあげは剃り襟足は短く耳は前を向き、幅広く骨太な額や顎などはやや印象的な顔立ちである。 特に長身というわけではないが、例えば前者の写真では、白い半袖Tシャツの袖を肩まで捲って腕組をし集合写真に写る鹿野の姿があり、その筋肉質な腕先は頑強な身体を窺わせる。また、後者は家族と最後に撮影された写真で妻とともに二人の幼子を抱いて温和に微笑んでいる。脚註[編集]
(一)^ 雑誌﹃昆虫世界﹄は、名和靖設立の名和昆虫研究所が発行した月刊雑誌で、当時は日本で唯一の昆虫専門雑誌。 約半世紀に渡り、終戦翌年の1946年︵昭和21年︶まで続刊された。[1]
(二)^ 伊江島から始まった沖縄の旧石器文化研究 小田静夫
(三)^ 所属していた東京帝国大学ではなく京都帝国大学から学位を得た。博士論文書誌データベース
(四)^ 国立国会図書館. “博士論文﹃Zoogeographical studies of the Tsugitaka mountains of Formosa﹄”. 2023年4月20日閲覧。
(五)^ この目撃報告を確認したのは当時のタンブナンの司政官(田崎浩雄)とされている。
(六)^ この部分の(仮)説の出典として、複数の資料中に﹁田中敦夫 ︵2001︶﹂の記載がみられるものの、当該資料の所在・詳細が不明なため検証不可。
(七)^ 後者は当時北ボルネオに捕虜として抑留されていたり、戦後進駐した英国軍人などが得た情報として伝わったとされている。これら両説の背景として当時の現地の戦況は、遡る同年6月から連合軍が島内を守備する日本軍に対し本格的に猛攻撃を開始してから特に激しく悪化し混乱を極めていたと言える。後に﹁死の行進﹂として知られる虐殺事件の要因となった移動命令が出されたのもこの同時期である。詳細はボルネオの戦いを参照。