黒谷了太郎
黒谷 了太郎︵くろたに りょうたろう、1874年1月23日 - 1945年5月11日︶は、日本の官吏、都市計画家、第3代旧鶴岡市長。
人物[編集]
酒田県田川郡鶴岡︵現・山形県鶴岡市︶生まれ。名古屋の都市計画に携わっていた折、イギリスの田園都市の設計を担当したレーモンド・アンウィンに教えを請うたことがきっかけで、アンウィンに傾倒するようになる。田園都市思想を日本の事情を踏まえたうえで、﹁山林都市﹂という形で具現化すべく提唱するも、賛同を得るに至らなかった。後に請われて生地、鶴岡市の市長となるも、教育人事をめぐる政争がきっかけで、排斥運動が起き、辞任する。名古屋時代の同僚に石川栄耀がいる。経歴[編集]
●1874年︵明治7年︶1月23日 - 庄内藩士・黒谷謙次郎の長男として家中新町︵現・鶴岡市︶に出生。 ●1888年︵明治21年︶ - 荘内中学校︵現・山形県立鶴岡南高等学校︶中退 ●1895年︵明治28年︶ - 東京専門学校専修英語科卒業 ●1899年︵明治32年︶ - 台湾総督府淡水税関に嘱託として職を得る。 ●1902年︵明治35年︶ - 判任官となる。以降総督府官吏として調査、博物館設立準備、日英博覧会等の業務に携る。 ●1918年︵大正7年︶ - 台湾総督府を辞す。 ●1920年︵大正9年︶ - 都市計画名古屋地方委員会幹事に就任。 ●1923年︵大正12年︶ - 都市計画北海道地方委員会嘱託、帝都復興院嘱託 ●1926年︵大正15年︶4月1日 - 名古屋市調査課長 ●1927年︵昭和2年︶ - 鶴岡市長就任 ●1930年︵昭和5年︶2月 - 鶴岡市長辞任 ●11月 - 東洋拓殖株式会社嘱託社員 ●1931年︵昭和6年︶ - 台湾総督府嘱託 ●1945年︵昭和20年︶ - 台北にて死去、享年72著作物[編集]
著書[編集]
●1895年︵明治28年︶ - ﹃台湾﹄ 博文館︵出版︶ ●1923年︵大正12年︶ - ﹃都市計画概要﹄ 都市計画愛知地方委員会︵出版︶ ●1925年︵大正14年︶ - ﹃都市計画と農村計画﹄ 昿台社︵出版︶編纂[編集]
●1915年︵大正4年︶ - ﹃林投帽製造業調査﹄ 台湾総督府民政部殖産局︵出版︶ ●1922年︵大正11年︶ - ﹃山林都市﹄ 青年都市研究会︵出版︶ ●1936年︵昭和11年︶ - ﹃世界糖業小史﹄ 台湾総督府殖産局︵出版︶ ●1939年︵昭和14年︶ - ﹃宮尾舜治伝﹄ 吉岡荒造︵出版︶訳著[編集]
●1929年︵昭和4年︶ - ﹃都市内容分配論 : 住宅の閑暇時利用に及ぼす影響﹄ レーモンド・アンウィン︵著︶ 曠台社︵出版︶脚注[編集]
参考資料[編集]
公職 | ||
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先代 金野岩治 |
鶴岡市長 第3代:1927年-1930年 |
次代 熊田周八 |