Amiga
Amiga︵アミガもしくはアミーガ︶は、1985年にコモドールより発売されたパーソナルコンピューターである。
同ハードは1980年代後半から1990年代初頭にかけて、主に欧州市場において人気を博したパソコンである[1]。3DCGやビデオ映像といったグラフィックに対応していることが主な利点であり、映像製作者、メガデモ製作者、アーティスト、ゲーマーなどに熱狂的に受け入れられた[1]。
日本においても、﹃ウゴウゴルーガ﹄といったテレビ番組や、﹃Dの食卓﹄といったコンピュータゲームにおいて使用された[1]。
1987年発売の廉価版機体Amiga 500は欧州のゲーマーの支持を受け、ゲームコンソールとしてさまざまなゲームがリリースされた。ハイエンド版機体はプロの現場でも利用され、Amigaを利用して製作されたCGや映像作品が当時のテレビに多く登場した。
AmigaOSに搭載されたデスクトップ環境であるWorkbenchは、1985年の時点で先進的なカラー表示のウィンドウシステムを実現しており、これをGUIならぬMUI︵Magic User Interface︶と称した。プリエンプティブマルチタスクを実現した史上初のパソコン用OSである。当初はCPUにモトローラのMC68000を採用した16ビットマシンだったが、その後68020・68030・68040を採用した32ビットマシンも発表された。
Amigaシリーズのトータルでの販売台数は北米では70万台程度と奮わなかったが、一方でイギリスで150万台、ドイツで130万台、イタリアで60万台など、欧州各国で高いセールスを記録している。中でも最大のヒットとなったのがAmiga 500︵通称﹁A500﹂︶で、ドイツだけでも100万台以上のセールスを記録している[2]。
ライバル機となるホビーパソコンのAtari STと激しいシェア争いを繰り広げたが、1990年代になってゲーム機やMacintosh、IBM PC/AT互換機に性能面で追い抜かれてしまい、マーケティングの失敗もあって1994年にコモドール社は倒産してしまった。シリーズ総計で600万台ほど販売されたと推測されている。
Amiga 500はゲームコンソールとしてゲーマーの支持を受けた。 ちなみに画像は英シグノシス社﹃Leander﹄で、パッケージに日本語であおり文が書かれているなどオタクブームの影響を受けた作品の一つ
1986年頃、後に日本の代表的なAmigaユーザーの一人となるミュージシャンの平沢進がAmiga上で動作する"Juggler"と呼ばれるメガデモに出会っている。この頃からAmigaに個人的な興味を持ち始め、1988年前後にアパートの一室で営業していた販売店で積み上げられていたAmiga1000の1つを購入し、自宅での個人使用を開始している。この当時はまだパソコンの使用方法に関する情報が乏しく、特にAmigaに至っては日本で全くといっていいほど知られておらず、さらには本体に付属されるべき説明書すらない中で組み立て時から試行錯誤しながら使用方法を徐々に習得して行ったという。Amigaを使用したパソコン通信接続も試みている。[5]
1987年には廉価版のAmiga 500とハイエンド版のAmiga 2000がリリース。Amigaは倒産まで廉価版とハイエンド版の二本柱でリリースされた。﹁ゲームパソコン﹂として、人気ゲームやジョイスティックと共に購入されることを前提で販売されたAmiga 500はゲーマーに好評を受けたが、699米ドルと廉価ながら使いやすいGUIによるOSを搭載していたため初心者ユーザーの支持も大きかった。
AmigaOne X1000とAmigaOS 4.1(2012年)
1994年6月、Amigaの生みの親であるジェイ・マイナーが死去。その2か月後にコモドールは倒産する。Amiga 4000のタワー型筺体﹁Amiga 4000T﹂が型番的にはAmigaシリーズ最後の、そしてコモドール最後のハードとなっている。コモドール倒産前、ヒューレット・パッカード社製のPentium互換CPU、AGAチップセットを上回るAAAチップセット搭載、Windows NT駆動のAmiga 6000の制作が発表されるが、結局このマシンは日の目を見ることはなかった。
コモドール倒産後、Amigaの版権は各社を転々とする。コモドール末期のハードAmiga 4000Tなどは、版権を受け継いだドイツのEscom社の下で生産された出荷数のほうが多い。Amigaはドイツではまだ人気があったし、他の国でも特定の方面には依然として大きな需要があったが、親会社の経営方針のために倒産の時点でハードの開発が止まってしまい、MacやPCに対して性能的にどんどん水をあけられ、一方ではLightwaveなど主要なサードパーティー製ソフトの他機種への移植も進み、徐々に表舞台から姿を消してゆく。時を同じくして他のホームコンピュータ(MSXやイギリスのAcorn Archimedes、日本ではFM TOWNSやX68000などがこれに当たる︶も次々と製造を終了していき、パソコン市場はPC/AT互換機とMacintoshが席巻するようになった。
Amiga 1000と、Amigaを代表するペイントソフト・デラッ クスペイントを用いて作画されたCG︵1985年︶
Amigaは低価格なパソコンでありながら、プロの間では高価なSGIのワークステーションIRIXに匹敵する人気を持ち、テレビや映像ソフトの製作現場でも大々的に利用された。サードパーティーが発売した拡張スロットを利用するハードウエア﹁Video Toaster﹂によるビデオの制御、およびその3DCGソフトウエアであるLightWave3Dが有名で、﹃マックス・ヘッドルーム﹄や﹃バビロン5﹄などのSFドラマの製作に活用された。日本においても子供向け番組﹃ウゴウゴルーガ﹄に実際にアミーガで作成されたCGが使用されていた[1]他、アミーガを代表するペイントソフトであるデラックスペイント[9]を使用して作成されたCGを使用した番組が多数存在した。元気が出るテレビの初期オープニングなどがその代表例である。コモドールが倒産した後も、映像編集ソフトのPersonal Animation Recorder︵PAR、後のdpsReality︶、3DCGソフトのLightWave、アニメーションマスター、Cinema 4Dなどの主だったソフトは他プラットホームにてリリースされており、特にLightWaveは2010年代においてもなお業界の主流ソフトのひとつである。
Amiga600の内部構造
Amiga1200のメインボード
Blizzard 1230 Mk III アクセラレータ。Ami ga 1200にMC68030のゲタを履かせる
AMIGAは発売当初より複数の強力なカスタムチップを搭載していた。4096色パレット中16色表示、ないしは32色表示、特殊モードであるHAMでは4096色全部を表示、スプライト機能を有するグラフィックのAgnusとDenise、PCM音源同時発音数4音と、サウンド関連の処理を得意としたPaulaの3つである。この3つのカスタムチップの組み合わせを後にOCS︵Original Chip Set︶と呼ぶ。そして、これらのカスタムチップはCPUの命令を介さず、独自にメモリにアクセスできる権限を持っていた。これをダイレクトメモリアクセスと呼ぶ。
後にアクセスできるメモリー数を増やしたECS︵Enhanced Chip Set︶がAmiga 500Plus、そしてAmiga3000での標準カスタムチップセットとなった。
なお、実際はAmiga 3000の設計時には後にAmiga 4000、Amiga 1200、そしてAmiga CD32に搭載されたカスタムチップセットであるAGA︵Advanced Graphics Architecture、またはイギリスではAdvanced Graphics Arrayと呼ぶ︶チップセットは完成していたらしいが、コモドールはAmiga 3000に搭載することをわざわざ見送ったらしい。AGAチップセットの内訳は画像関係はAlice、Lisaというカスタムチップが処理し、音声関係は再びPaulaが扱った。これでAmigaは24bitカラー中256色を同時発色、特殊モードであるHAM-8では262,144色を同時発色できるようになっていた。
また、ライバル機であるアップル Macintoshは初期は白黒2色表示であり、Amigaより高価だったにもかかわらず画像表示の点で市場に与えるインパクトは初代Amigaには到底及ばなかった。しかし、Macintoshは1987年のMacintosh IIで256色同時表示を実現し、のちに24ビットカラーに移行していく。Macの描画エンジンであるQuickDrawはカラー化を考慮して設計されており、Amigaのような互換性問題はほとんど生じなかった。カスタムチップに頼らずソフトウェアの工夫で様々な機能を実現するというMacintoshの設計思想はAmigaとは対照的であり、Amigaの強力なカスタムチップは、互換性を保ちながら高性能化を図っていくにあたって足枷となった点も否定できない。