タイトルに別段意味はなくて。
単にiPhoneで﹁苦笑いする日々をなんちゃら﹂という歌を聞いた時に、﹁終わりなき日常を生きろ﹂という秀逸タイトルが組み合わさって、出てきただけ。
別段、個人的には苦笑いに対して、なんの思い入れもないけれど、なんか世の中を見回した時に、苦笑いという言葉が何かしら世相というか、風潮を表しているような気がした。
というか滑稽な話が多いような気がした。リアリティを欠いた現実というか。で、ふと喜劇・悲劇に関する名言を調べてみたら色々あることがわかった。
アドリアン・ルビンスキー
﹁喜劇的な事を悲劇的に演じ、悲劇的な事を喜劇的に演じるのが道化だ。﹂
奥田英明
﹁悲劇と喜劇は表裏一体だ。どちらか一方だけで人間を描くのは、表現者として公正さを欠く。﹂
ウォルポール
世の中は考える人たちにとっては喜劇であり、感じる人たちにとっては悲劇である
ソクラテス
懐疑は無限の探求にほかならず。真の悲劇家は真の喜劇家なり
チャップリン
人生はクローズアップして見ると悲劇だが、引いて見ると喜劇である。
バーナードショー
人生の二通りの悲劇がある。一つは願望がないことであり、もう一つは願望を持つことである。
ベートーベン最後の言葉
﹁諸君。喝采を。喜劇は終った。﹂
ラ・ブリュイエール
人生はそれを感ずる人間にとっては悲劇であり、 考える人間にとっては喜劇である。
まぁ、そういうことで。そして悲劇を喜劇に変えるのが上記のようなウィットネスであったりする。そして、このような言葉の妙味というのは﹁劇﹂という言葉が持つ客観性と装置的ニュアンスであり、もしこの悲劇を﹁不幸﹂、喜劇を﹁幸せ﹂なんて置き換えてしまえば、その言葉が持つ魅力は半減するように思える。
あくまでも喜劇や悲劇は外部の対象として見るものであり、それは自分の人生とて、そのような機構に組み入れてそれを中から見るというメタ演劇的演劇とでもいうべきもので、それは故人の﹁人生は舞台だ﹂という喝破より脈々と流れる演劇が持つ力の表れなのかもしれない。
そしてその言葉は﹁男も女もその役者にすぎない﹂という言葉を受けるのだが、日常を生きる我々は、そのまさに時代に合わせたロールプレイで苦い笑いを笑顔に変える。
なんてことを、なぜか﹁ルージュの伝言﹂を聞きながら階段を駆け上がり思った。
苦笑いの日常をサバイブせよ
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