マニ教(読み)マニキョウ(英語表記)Manichaeism

デジタル大辞泉 「マニ教」の意味・読み・例文・類語

マニ‐きょう〔‐ケウ〕【マニ教】

 
Mani3()4西61314()()()()
[]  

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「マニ教」の意味・読み・例文・類語

マニ‐きょう‥ケウ【マニ教】

  1. 〘 名詞 〙 ( マニはMani ) 三世紀にマニ(二一五頃~二七六頃の人)がイランにおいて始めた宗教。ペルシア固有のゾロアスター教的二元論に、キリスト教・グノーシス主義・仏教を加えた混合宗教。四世紀には、ローマ・北アフリカの都市知識層に迎えられ、六~七世紀にはチベットから中国にまで達したが、しだいに道教に同化されていった。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教 (マニきょう)
Manichaeism


Mani216-276277Mānī3︿ardavān︿niyōshagān22Bēma1114西

 1


7︿︿︿︿西︿373220西7683984332︿20

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教
まにきょう
Manichaeism

マニが3世紀にイランで創始した普遍的宗教で、東西に広く伝播(でんぱ)し、歴史的な勢力となった。経典宗教としての特色をもち『シャブラーカーン』『いのちの書』『プラグマティア』『秘儀の書』『マニ書簡』などを経典とする。

[加藤 武]

教義


()()8

 

教団

マニは12人の教師、72人の司教、360人の長老からなる後継者を二つの群に分けた。一つはエレクトゥスelectus(選ばれた者)で、聖職者として五戒を守り厳しい修道を行った。いま一つはアウディトゥスauditus(聴問者)で、比較的緩やかな生活を許され、十戒を守った。ベーマbēmaの祭りを、教団はマニの殉教を記念する日としてもっとも重んじた。

[加藤 武]

伝播

マニ教は、キリスト教、ゾロアスター教、仏教、道教などを混合するとともに、キリスト教や仏教を名のることによって巧みに勢力を伸ばし、4世紀には西方で盛期を迎えたが、6世紀以後東方に向かい中国に達した。唐代の中国では摩尼(まに)教といわれ、則天武后(そくてんぶこう)は官寺大雲(だいうん)寺を建立している。

[加藤 武]

『岡野昌雄訳『アウグスティヌス著作集7 マニ教駁論集』(1979・教文館)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教【マニきょう】

 
21627677Manichaeism︿︿117西  

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マニ教」の意味・わかりやすい解説

マニ教
マニきょう
Manichaeism

 
 ( ) 4退13西  

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「マニ教」の解説

マニ教(マニきょう)
Manichaeism

バビロニア生まれのマーニー(216頃~274/276頃)が,ゾロアスター教をもとにキリスト教と仏教の諸要素を加えて創始した折衷的宗教。サーサーン朝シャープフル1世のもとで布教を始め,積極的に各地へ宣教団を派遣した。マーニー自身はバフラーム1世により処刑されたが,その教えは西は北アフリカや南フランスへ,東は中央アジア,インド,中国(摩尼教)にまで広がった。教義は善と悪,光明と暗黒の本質的かつ永遠の対立が続くという思想で,きわめてきびしい倫理観が説かれた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「マニ教」の解説

マニ教
マニきょう
Manichaeism

マニを開祖とする宗教
マニはササン朝の人で,3世紀半ばごろ,ゾロアスター教にキリスト教・仏教を融合させ,徹底した善悪二元論のこの宗教を創始した。シャープール1世のとき一時厚遇されたが,その後,ササン朝で禁止され,国外に流布した。西方は北アフリカ・南ヨーロッパ,東方はトルキスタン・中央アジア方面で流行し,唐代の中国でも信仰を集めた。またウイグルにおいて一時国教となったが,イスラームの普及とともに衰えた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のマニ教の言及

【グノーシス主義】より

…この特異なグノーシス主義者については,教父テルトゥリアヌスほかの証言がある。
[イラン]
 3世紀のマニに始まるマニ教は後期グノーシスを代表する。教会組織を積極的に採用し,4世紀末までにはやがて世界宗教となりうるほどの進展を示していた。…

【東西交渉史】より

…このルートを通って,西暦紀元前後には仏教が中国に伝来し,2世紀以降,中国人の精神生活に大きな影響を与えたが,2世紀の後漢の都洛陽では,仏教のみならず,衣食住および芸能の分野でも〈胡風〉と呼ばれた西域趣味が流行した。このルートは,ひき続き盛んに利用され,5~6世紀にはゾロアスター教(祆(けん)教),7世紀前半にはネストリウス派キリスト教(景教),7世紀末にはマニ教(摩尼教)などイラン系の諸宗教がこのルートを通じて相ついで中国に流入した。また,それとほぼ時を同じくして,イランの美術工芸の伝統も中国に伝えられ,異国趣味にあふれた美術工芸品を生んだ。…

※「マニ教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」