デジタル大辞泉
「リスト」の意味・読み・例文・類語
リスト︵Franz von Liszt︶
﹇1851~1919﹈ドイツの刑法学者。応報刑主義を批判して、目的刑主義や主観主義刑法理論を展開。また、刑事政策・社会政策の重要性を説いた。著﹁ドイツ刑法教科書﹂など。
リスト(Friedrich List)
[1789~1846]ドイツの経済学者。歴史学派の先駆者。後進国ドイツの産業資本の立場を理論化して、国民生産力の理論と保護関税論を展開、関税同盟の結成とドイツの統一に尽力した。著「経済学の国民的体系」「農地制度論」など。
リスト︵Franz Liszt︶
﹇1811~1886﹈ハンガリーの作曲家・ピアノ奏者。ピアノの卓絶した演奏技巧を開拓、また、標題音楽の形式を確立して多くの交響詩を作曲した。作品に交響詩﹁前奏曲﹂、ピアノ曲﹁ハンガリー狂詩曲﹂など。
リスト(wrist)
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リスト
(一)[ 一 ] ( Franz Liszt フランツ━ ) ハンガリー生まれの作曲家・ピアニスト。七、八歳ごろからピアノの神童と呼ばれ、ウィーンやパリ、ハンガリー、ロシアの楽壇で活躍。ピアノの巨匠となったが、のちワイマールに移り、超人的な技巧とはなやかな幻想に富む多くのピアノ曲、交響詩を作曲し、新ロマン主義を代表する一人となった。代表作は﹁ハンガリー狂詩曲﹂﹁超絶技巧練習曲﹂など。︵一八一一‐八六︶
(二)[ 二 ] ( Franz von Liszt フランツ=フォン━ ) ドイツの刑法学者。作曲家リストの従弟。実証主義刑法学をとなえ、ドイツ近代学派を指導した。主著﹁ドイツ刑法教科書﹂﹁刑法における目的思想﹂。︵一八五一‐一九一九︶
(三)[ 三 ] ( Friedrich List フリードリヒ━ ) ドイツの経済学者。歴史学派の先駆者、国民経済学の祖。迫害の下、関税同盟の結成とドイツ統一に尽力。保護貿易主義を唱えた。疾病、生活苦で自殺。主著﹁経済学の国民的体系﹂。︵一七八九‐一八四六︶
リスト
- 〘 名詞 〙 ( [英語] list ) 一定の目的にそって、多数の品名や人名、価格などを整理して書き出したもの。一覧表。目録。〔外来語辞典(1914)〕
リスト
- 〘 名詞 〙 ( [英語] wrist ) 手首。また、スポーツで手首の強さ。
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リスト
ドイツの経済学者。歴史学派の創始者。物質的・精神的生産力の発展こそが国民の発展をもたらすとして国民経済の発展を野蛮・牧畜・農業・農工・農工商の5段階に区分。ドイツは農工状態にあるため保護関税等の産業保護政策によって農工商状態︵英国が典型︶に到達するよう努力すべきだと説き,小邦に分立しているドイツ国内の関税統一,鉄道建設等に活躍した。メッテルニヒと対立し,1825年―1830年米国に亡命。晩年は英独同盟を提唱,失意のうちに自殺。主著︽政治経済学の国民的体系︾。
→関連項目アメリカ学派|大島貞益|保護貿易主義
リスト
ドイツの刑法学者。音楽家のリストの従弟。ベルリン大学教授。新派刑法学の世界的指導者で,目的刑主義を唱えた。刑罰は犯人の危険性から社会を防衛するために科せられるとする一方,犯人の保護のため,刑法のマグナ・カルタ的機能を強調。牧野英一などを通じて日本の刑法学にも影響を及ぼしている。主著︽ドイツ刑法教科書︾。
→関連項目教育刑論|刑法
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リスト
Liszt Ferenc
Franz Liszt
生没年:1811-86
ハンガリーの作曲家,ピアニスト。民族的にはハンガリー︵マジャール︶人ではなく,両親は南ドイツ出身である。エステルハージ家の執事であった父に7歳のときからピアノを習い,1820年9歳のときに早くも公開演奏会を開くほど上達した。翌21年リストはハンガリー貴族の援助を得てウィーンへ移り,チェルニーにピアノを,サリエリに作曲を学ぶ。ここで,シューベルト,ベートーベンらに紹介された。22年ウィーンでの演奏会に成功,23年各地で演奏会を開きながらパリへ向かい,24年パリ,ロンドンなどで成功し演奏家としての地位を固めた。また作曲家としても唯一のオペラ︽ドン・サンシュ︾︵1825︶で成功を収めている。31年パガニーニの演奏会を聴いて感動し,︿ピアノのパガニーニ﹀となる決意をする。ショパンと親交を結んだのもこの年であった。35年ダグー伯爵夫人マリーとの恋愛でスイスに逃避行,ジュネーブ音楽院でピアノを教えるかたわらピアノ曲集︽旅人のアルバム︾︵1836︶,︽パガニーニによる超絶技巧練習曲︾︵1838︶などを作曲する。リストの第1期はマリーとともに過ごした39年までで,彼女との間にコジマCosima︵1837-1930。のちにH.vonビューロー,次いでR.ワーグナーの夫人となる︶を含む3子をもうけた。
第2期︵1839-47︶はピアノのビルトゥオーソ時代で,ヨーロッパ全土を演奏旅行し,各地で熱狂的に迎えられた。全19曲からなるピアノのための︽ハンガリー狂詩曲︾︵1885︶に着手したのもこの時期であるが,重要な作品は少ない。47年ウィトゲンシュタイン侯爵夫人カロリーネと恋愛に陥り,2人は翌年からワイマールで新生活を始める。
第3期︵1848-61︶はワイマール時代と呼ばれ,ワイマール宮廷楽団の指揮者,作曲家として活躍。彼のもとにはビューロー,P.コルネリウス,C.タウジヒらが集まった。ピアノ曲集︽巡礼の年︾第1年︵1854︶,第2年︵1849︶,︽超絶技巧練習曲︾︵1851︶および︽ピアノ・ソナタ︾︵1853︶,管弦楽曲では交響詩︽前奏曲︾︵1848︶,︽タッソー︾︵1849︶,ピアノと管弦楽のための︽死の舞踏︾︵1849︶,︽ダンテ交響曲︾︵1856︶,︽ファウスト交響曲︾︵1857︶のほか2曲のピアノ協奏曲︵︽第1番︾1849,︽第2番︾1861︶など主要作品が多い。作曲技法として主題とその変容による単主題的作法を確立,シェーンベルクの︿発展的変奏﹀技法の先駆をなした︵︽ソナタ︾︽前奏曲︾など︶。また自ら命名した︿交響詩﹀や標題付きの交響曲に新境地を開き,︿標題音楽﹀という名もリストが論文︽ベルリオーズのイタリアのハロルド︾︵1855︶のなかで定義づけたものである。
第4期︵1861-69︶はローマ時代と呼ばれる。61年にカロリーネと結婚するためワイマールの公職を去ってローマへ向かったが,カロリーネの離婚許可が得られず,彼女は宗教生活に入り,リストもローマにとどまって宗教音楽を多く作曲した。65年には聖職者の資格を得て以後僧衣をまとうようになる。
第5期︵1869-86︶はローマでの活動のほか,ワイマール宮廷からの招きとブダペスト音楽アカデミーの招きで,この3ヵ所を一年間に往来する生活で教授・作曲活動を再開する。この時期の弟子は多く,M.ローゼンタール,E.vonザウアー,A.I.ジローティらのピアニストや,F.ワインガルトナーらがいる。作品には︽巡礼の第3年︾︵1877︶があるが,第3期に行った形式上の革新に加えて,この時期には和声上の革新を行い,機能和声法を超えた新しい和声法によってドビュッシーの印象主義の先駆をなした。その試みは,朗読とピアノによる︽憂いに沈む僧︾︵1860︶に早くもみられるが,晩年にはピアノ曲︽不幸︾︵1880以後︶,︽灰色の雲︾︵1881︶,︽R.ワーグナー--ベネチア︾︵1883︶,︽無調のバガテル︾︵1885︶,︽葬送前奏曲と行進曲︾︵1885︶など機能和声法によらない革新的な小品を多く書いた。しかし生前には発表されなかった。
リストの音楽上の業績は,ピアノのビルトゥオーソとして演奏技巧の従来にない拡大があげられるが,より重要なのは第3期以降にみられる交響詩などの標題音楽の新形式と,半音階的和声法である。また晩年の機能和声を脱した小品は生前に発表されなかったため直接的影響はもたなかったが,リストの革新的性格をよく伝えている。
執筆者‥佐野 光司
リスト
Friedrich List
生没年:1789-1846
ドイツの経済学者。歴史学派の先駆者とみなされる。南ドイツのビュルテンベルク公国ロイトリンゲンに生まれる。地方官吏から身を起こし,チュービンゲン大学で学を修めて公国の中央官吏となる。新憲法制定にさいしてのビュルテンベルク憲法論争において進歩的陣営につき,自由主義的な大臣バンゲンハイムに請われて1817年チュービンゲン大学の国家学教授となる。憲法改革を推し進める一方,フランクフルト・アム・マインに創設されたドイツ商工業同盟を指導して領邦間関税の撤廃を唱え,対外的には保護貿易を主張した。彼の言動はビュルテンベルク議会に進出するやますます急進性を帯び,そのため保守勢力の強い反発を招いて25年には国外亡命を余儀なくされた。亡命先のアメリカで著した︽アメリカ経済学概要︾︵1827︶は,持論の保護主義を初めて体系的に論じたものである。本書によって名声を得,事業面でも成功を収めたものの,故国への思いは断ちがたく,32年にアメリカ領事としてドイツに戻った。旧勢力の抵抗にあいながら関税同盟成立と鉄道網建設に向けて尽力し,それらによって国内市場の形成,統一化を図るが,関税同盟の成立後,彼の活動の重心は再び保護主義の擁護へと移っていき,国民経済の観点から保護貿易の位置を論じるようになった。一時の亡命先フランスで書かれた︽経済学の自然的体系︾︵1837︶とその発展である︽経済学の国民的体系︾Das nationale System der politischen Ökonomie︵1841︶において生産力理論を体系化し,後進国ドイツにとって保護貿易の必要なことを主張した。ドイツ資本主義の確立と自立をめざす彼の活動は旧勢力の迫害にあって挫折し,満身創痍の彼は46年オーストリアにおいてピストル自殺をとげた。
生産力理論はリストの経済思想の中心部に位置している。彼のみるところアダム・スミスらの古典派経済学は私経済を念頭においた交換価値の理論にほかならず,国際面では自由貿易を帰結とするようなものであった。自由貿易主義においては各国の特殊性は考慮に入れられず,ために国民や国家といった観点の入り込む余地はない。古典派のこのような経済的自由主義に対して彼は国民主義を唱え,イギリスとは発展段階を異にするドイツでは国民的・国家的観点から経済を把握する必要があり,またそのような観点に立った政策をとる必要のあることを説いた。このためリストは,国民や企業家の自由な創造心に基づく国内生産力の増進とそれに結びつく限りでの保護主義を主張したのである。彼はけっして偏屈な愛国者ではなかった。自由貿易にしても彼はそれを当時遅れをとっていたドイツの立場から批判したのであって,自由貿易は究極的にはドイツがそれに向かって進むべき目標であった。保護措置はあくまでも一時的な性格のものであり,彼の保護関税は国内産業が発展するまでの一時的な育成関税というものであった。
執筆者‥間宮 陽介
リスト
Franz von Liszt
生没年:1851-1919
ドイツの刑法学者。ウィーン生れ。同名の音楽家フランツ・リストはいとこにあたる。ウィーン大学に学び,とくに私法学者イェーリングからは思想形成上大きな影響を受けた。グラーツ大学私講師,ギーセン,マールブルク,ハレ各大学の教授を経てベルリン大学教授となり,刑法,刑事訴訟法のほか,国際法,法哲学を講義した︵1917年退職︶。1882年,マールブルク大学への就任に際して発表した︽刑法における目的思想︾︵マールブルク綱領︶は彼の刑法思想の基本をなすものであると同時に刑法における学派の争いにおいて彼の率いる新派刑法学︵近代学派。︿刑法理論﹀の項参照︶の指導理念を明らかにしたものである。旧派刑法学︵古典学派︶は刑罰を犯罪行為への応報と考えたのに対し,彼は実証主義の見地から刑罰は犯人の改善を目的とすべきであるとし,目的刑を主張した︵︿罰せられるべきは行為ではなく,行為者である﹀︶。彼は新派刑法学の立場から刑法改正運動を国際的規模で展開しようとして,1889年,ベルギーのA.プリンス,オランダのG.A.vanハメルとともに︿国際刑事学協会﹀を設立した。彼は具体的な行為者を中心とする実質的合法性を強調し,形式的合法性に基づく近代刑法学を転換して現代刑法学への道を開いた点で刑法学史上重要な地位を占めている。その刑法思想はかつて彼の下に留学した牧野英一等を通じて日本にも影響を与えている。
執筆者‥堀内 捷三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
リスト【List】
ダイレクトマーケティングになくてはならないもののひとつは顧客リスト。顧客に関する情報を集めたもの。趣味や興味(ライフスタイル)のサイコグラフィック・ヒストリー、購買ヒストリー(購入年月日、購入製品やサービス、数量、金額など)、デモグラフィック・プロフィール(性別・年齢・住居・学歴・年収など)、メンバーシップ履歴などを有した個々人の名前と住所のレコードを収集したもの。個々人の個人リスト、学校などの団体に所属している団体リスト、名前の出所によるリストなど、さまざまなタイプのリストが存在する。カタログハウスの顧客を集めた通販リスト、医療専門家を編集してつくられたリスト、雑誌購読者のリスト、高校生リスト、クレジット購入者リストなど特殊リストもある。リストはダイレクト・マーケティング業界の命といわれるほど重要なものである。
出典 (株)ジェリコ・コンサルティングDBM用語辞典について 情報
リスト
ハンガリー系のドイツのピアニスト、作曲家。本人はハンガリー語を母国語として解さずその文化も異質なものであったが、自らの血統を強く意識していた。ヨーロッパ中をその活動地とし、ドイツ語圏のほかはパリ、ロー ...続き
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
リスト
などに表示されたソースコードを指すこともある。データ列データの場所を示すポインターを使ってデータの順序付けを行ったデータ列のこと。データを一定方向だけにたどれる単リスト、逆方向にもたどれる双リスト、たどっていくと元のデータに戻る環状リストなどがある。
出典 ASCII.jpデジタル用語辞典ASCII.jpデジタル用語辞典について 情報
リスト
生年月日:1874年1月1日
フランスの経済学者
1955年没
リスト
生年月日:1851年3月2日
ドイツの刑法学者
1919年没
リスト
生年月日:1789年8月6日
ドイツの経済学者
1846年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のリストの言及
【データ構造】より
…列の先頭の要素の番地と列の要素の個数は別に記録しておく必要がある。 リストは,k番地とk+1番地を組として扱い,この二つで列の要素一つを表現する。k番地には要素の値を入れ,k+1番地には列の次の要素の番地を入れる(このように別のデータの存在位置(番地)を示すデータのことを一般にポインターと呼ぶ)。…
【重商主義】より
…政策史的には,ナポレオンの大陸制度,18世紀ドイツの領邦諸国家で〈官房学Kameralismus〉の名称で知られる経済・財政政策,本源的蓄積政策としての意義をもった1834年のドイツ関税同盟や1789年以後のアメリカの工業保護制度などが注目される。重商主義者としては,イタリアのA.セラ,フランスの[J.ボーダン]や[A.deモンクレティアン],ドイツの官房学者J.J.ベッヒャーとJ.H.G.vonユスティ,保護主義者としてはフランスのF.V.D.deフォルボネ,J.A.シャプタル,ドイツの〈新重商主義者〉と呼ばれる[F.リスト],〈アメリカ体制論者〉の[A.ハミルトン],D.レーモントらが注目される人たちである。【時永 淑】。…
【ハミルトン】より
…独立革命中はワシントンの副官として活躍,戦後はニューヨークで弁護士を務めた。強力な中央政府確立の必要を主張し,合衆国憲法の制定運動に尽力,その批准の際にはJ.マディソン,J.ジェーの協力を得て,アメリカ政治思想史上著名な《[フェデラリスト]》(1787‐88)を著して憲法を擁護した。89‐95年ワシントン政権の初代財務長官を務め,《公信用に関する報告書》《国立銀行に関する報告書》(ともに1790)などを連邦議会に提出,戦時公債全額を額面どおり連邦政府公債に借り換え,第一合衆国銀行を創設し,蒸留酒消費税(これに反対して[ウィスキー一揆]が起こる)などの新税制を整備し,貨幣法を制定するなど,財政金融上の重要な政策をやつぎばやに遂行して,公信用ならびに連邦政府の財政的基盤を短時日に確立した。…
【歴史学派】より
…
[歴史学派の生成と展開]
歴史学派は,ロマン主義の影響を受けつつ,当時勃興期にあったドイツ資本主義の特殊な事情を背景において成立した。その先駆者は[F.リスト]である。19世紀に入るとドイツにも産業革命の波が押し寄せてくるが,ドイツ国内はいまだ領邦国家に分裂しており,封建的束縛が至るところに存在していた。…
【刑法理論】より
…さらに,フェッリは,犯罪社会学的方法に重点をおいて犯罪の原因を人類学的原因,社会的原因,物理的原因に分け,意思の自由を前提とする後期旧派的な〈道義的責任〉を実証的に証明できない幻想にすぎないとして否定し〈社会的責任〉を主張するとともに,従来の〈責任〉と〈刑罰〉の概念を排斥して犯罪者の〈危険性〉と〈制裁〉の概念を用いた刑法草案(1921)を起草したのである。このようにして形成された新派理論を整理し体系化して展開し,新派の代表的主張者となったのは,ドイツの[リスト]であった。リストは,犯罪の社会的原因の除去については社会政策の重要性を強調し,また刑事政策固有の課題である犯罪の個人的原因の除去に関しては,偶発犯人に対し短期自由刑の弊害を強調して執行猶予の導入,罰金刑の拡充を,改善可能な慣習犯人に対し相対的不定期刑による改善を,改善不能な慣習犯人に対しては無期または不定期の拘禁を提案したのである。…
【交響詩】より
…19世紀半ばに確立された管弦楽による標題音楽の一種。リストがはじめ序曲として作曲した︽タッソー︾を1854年に交響詩symphonische Dichtungと呼んだのが最初である。交響詩の先駆としては,管弦楽による[標題音楽],とくに標題交響曲(ベルリオーズの︽幻想交響曲︾など)があるが,これが多楽章形式なのに対して,交響詩は一般に単一楽章形式の場合に用いられる。…
【ドゥムカ】より
…19世紀後半のポーランドや西ウクライナの民謡収集家(コルベルクOskar Kolberg(1814‐90)など)が農民の不幸な運命を歌った抒情的民謡を一般にドゥムカと呼ぶようになった。器楽曲ではF.リストのピアノ曲《ボロニンツェの落穂拾い》(1848)が早い例であり,ドボルジャークはピアノ曲《ドゥムカ》作品35(1876)と12(1884?)や《ピアノ三重奏曲ホ短調》(1891)などに広く用いている。その流れを汲んで,チェコではヤナーチェク,スーク,ノバークVitězslav Novák(1870‐1949)らもこの曲名を用いている。…
【ハンガリー】より
…都市では首都[ブダペスト]が最大で人口193万,次いで[デブレツェン](21万),[ミシュコルツ](18万),[セゲド](17万),[ペーチ](16万)という四つの大学都市が続く(人口はいずれも1995)。 国民の大多数がキリスト教徒である。そのうちカトリックが67.5%で多く,プロテスタントは改革派(カルバン派)が20%,福音派(ルター派)が5%で,合わせて25%を占める。…
【ファウスト】より
…神秘的・象徴的な台本に加えて複雑な和声を多用,対位法的で非ロマン的な論理性に貫かれた音楽である。(f)ゲーテの詩劇の登場人物の性格描写を各楽章で行った[リスト]作曲の《ファウスト交響曲》(1857),そのほかゲーテの《ファウスト》の中の歌詩を選んで,ベートーベン,シューベルト,メンデルスゾーン,ムソルグスキーらが作曲している。リストには,[N.レーナウ]の詩による管弦楽曲《レーナウの“ファウスト”からの二つのエピソード》(1860以前)もある。…
【ブラームス】より
…この間,デトモルトではいくつかの合唱曲のほかに2曲の管弦楽曲《セレナード》(1858,59),《弦楽六重奏曲第1番》(1860)を,またハンブルク時代にはピアノ変奏曲の金字塔ともいうべき《ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ》(1861),全5集の歌曲集《マゲローネ》の最初の2集(1861,62)などを作曲し,また《ピアノ協奏曲第1番》(1858)の初演を行った。60年彼はF.リストを中心とする新ドイツ派と呼ばれた革新的なグループに対して,彼らと芸術的・美学的信条を異にする旨の宣言文をヨアヒムらと連名で発表し,のちにR.ワーグナーたちからの非難を招くことになる。 62年9月生活の本拠をウィーンに移し,64年まで同市のジングアカデミーの指揮者を務める。…
【ラフ】より
…ドイツの作曲家。[F.リスト]の助手を務めたのち,1856年よりウィースバーデンでピアノ教師。77年よりフランクフルト・アム・マインのホーホ音楽院院長。…
【ローエングリン】より
…台本は1845年に完成,48年総譜が完成した。50年8月ワイマール宮廷劇場で,リストの指揮により初演。 物語は10世紀のアントワープ付近。…
【ロマン派音楽】より
…世紀後半には他の諸国の貢献も強まる。おもな大作曲家を挙げれば,ベートーベンとシューベルトを視野におさめながら,C.M.vonウェーバー,メンデルスゾーン,シューマン,ショパン,ベルリオーズ,リスト,R.ワーグナーらが代表的存在である。ベートーベンとシューベルトはロマン的要素を有しながら,全体としては古典派に入れられる。…
※「リスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」