ほない‐しょうにん‥シャウニン【保内商人】
(一)〘 名詞 〙 鎌倉・室町時代における近江国︵滋賀県︶蒲生郡得珍保の農村的商人。南部の地域にあたり、保内座として団結し、商業活動を行なった。領主である比叡山延暦寺の保護のもとに、御服座・紙座・塩座・伯楽座などの座を結成し、近江を中心として若狭︵福井県︶・伊勢︵三重県︶・美濃︵岐阜県︶・尾張︵愛知県︶から京都にかけて、隊商的行商をして活躍した。︹今堀日吉神社文書‐大永八年︵1528︶七月八日・佐々木定頼書状案︺
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保内商人【ほないしょうにん】
中世,近江国蒲生郡得珍保(とくちんほ)︵滋賀県東近江市︶のうち,西部4ヵ郷︵保内野々郷(ほないののごう)︶に発生した商人団。本来は農民であるが,延暦寺衆徒や守護六角氏の保護のもと,団結して市場専売権や街道通行権などの特権を獲得し,伊勢国・若狭国・尾張国など遠隔地商業に従事。行商に際しては周辺地域の農民らを足子(あしこ)として動員,商品運搬・下請などを行わせた。取扱商品は塩・呉服・紙・海草・馬などで,それぞれに座を結成。中心は今堀(いまぼり)郷で,鎮守十禅師(じゅうぜんじ)社︵今堀日吉神社︶の庵室が保内商業の事務室的役割を担ったが,織田信長の楽市(らくいち)設立で商業活動は衰退していった。︽今堀日吉神社文書︾は周辺商人との確執を排除し,自らも規制しながら成長していった保内商人の実体や,惣村の内実を知る基本史料。
→関連項目近江商人|観音寺城|九里半街道|千草街道|八風街道|三村荘|横関
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保内商人 (ほないしょうにん)
近江国蒲生上郡得珍保︵とくちんのほ︶の下四郷の商人をさし,野々郷︵ののごう︶商人,野々川商人ともいわれる。得珍保は比叡山の僧得珍が開発したという伝承をもつ荘園で,滋賀県東近江市の旧八日市市の南部に位置する。室町時代以降,保内商人は延暦寺東塔東谷仏頂尾の衆徒と,守護佐々木六角氏の保護をえて,織田信長の安土城下の形成まで特権的な座商業を展開した。保内商人を輩出した下四郷は畑作地帯で,上四郷に比較して水利の便が悪く,水田化がはなはだしく遅れたが,他方,得珍保は東海道と東山道に挟まれ,伊勢山越ルートである千草街道,八風︵はつぷう︶街道に接続しており,農業の不利を商業で補った。
商業活動は15世紀初頭以後活発となり,近隣の商人の市場専売権を侵し,市場商売の新たな権利を獲得する。また市場商売を従来の既得権であるかのように見せるため,1157年︵保元2︶の後白河院院宣などを偽作し,延暦寺や守護六角氏に正文として認めさせ,裁判にも勝利した。15世紀初頭から16世紀半ばまで保内商人の争論の相手は,石塔︵いしどう︶,小幡,横関,枝村,高島南市,近江国中伯楽︵ぱくろう︶,伊勢舞田などの商人である。争論の対象となる商品は塩,海草,呉服,米,紙,木綿,馬などであったが,やがて紛争は市場専売権から特定商品の輸送権をめぐる争論へと変化してくる。伊勢山越商売は小幡,沓掛,石塔とともに︿四本商人﹀と称しておこなわれたが,保内商人はやがて小幡商人を排除し,石塔商人を保内商業に従事する足子︵あしこ︶商人︵足子︶として扱うようになった。山越商人は掟をもち,座商人としての規律を維持しており,その規律は一種の商人道の成立を意味する。保内商人を構成する下四郷の村人は,上四郷の村人や保内周辺の農民を足子として従属させており,みずからも馬の使用制限,荷物量の規制,収入の抑制などを定めている。この商人の自己規制の中に,中世座商業の性格があらわれている。しかし1576年︵天正4︶の安土城下における織田信長の掟によって保内商人の牛馬商売の特権は消滅し,保内座商業は終止符を打つのである。
執筆者‥仲村 研
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保内商人
ほないしょうにん
中世に近江(おうみ)国蒲生(がもう)郡得珍保(とくちんのほ)︵滋賀県東近江市︶に住み、農間副業として、伊勢(いせ)、美濃(みの)、若狭(わかさ)、京都などを結ぶ遠隔地間の仲継商業に従事した商人。得珍保内商人のこと。近世の近江商人の源流をなすもので、鈴鹿(すずか)山越えの伊勢通商を独占した四本(しほん)商人︵石塔(いしどう)、小幡(おばた)、沓懸(くつかけ)、保内︶の一つである。塩、呉服、紙などの流通路を抑えて、問屋的な営業独占権を行使し、近隣の小幡郷、横関(よこぜき)、五箇(ごか)商人などと争論を起こしている。得珍保は上六郷、下八郷からなり、後者が商人団の中枢をなした。その一郷にあった今堀日吉(いまぼりひよし)神社文書には、保内商人の中世商業のありさまがよく示されている。商人団の構成は徒足(かち)の商人と、馬で運ぶ駄荷(だに)の商人の2階層からなるが、1世帯には馬1匹分の参加しか認めないという平等規制をもっていた。
﹇脇田晴子﹈
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保内商人
ほないしょうにん
中世,近江国蒲生郡延暦寺領得珍保(とくちんのほ)の商人集団。今堀郷の商人を中心に団結し,山門(延暦寺)の権威を背景に商業活動を行った。伊勢越商人の中心的存在で,商圏は尾張国・美濃国・伊勢国・若狭国から京都に及んだ。おもに呉服・紙・塩相物を扱い,それぞれに座が結成されていた。付近の石塔・小幡・横関の商人との市場における専売権争い,枝村(えだむら)商人との伊勢越えの通行独占権争いなど,たびたび訴訟をおこした。
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世界大百科事典(旧版)内の保内商人の言及
【近江商人】より
…鎌倉時代後半に姿を現し,室町時代初期から商業圏を確立してゆく延暦寺領近江国蒲生郡得珍保(とくちんのほ)の商人([保内(ほない)商人]ともいう)は,荘園のなかでは農業生産に恵まれない農民が近江・伊勢の国境の鈴鹿山脈の[八風(はつぷう)街道],[千草街道]の両街道での山越商業に従事したものである。保内商人は延暦寺や守護六角氏から排他的独占権(座権)を認定された。独占権の対象になる商品としては麻苧(あさのお),紙,陶磁器,塩,曲物(わげもの),油草,若布(わかめ),鳥,海苔(のり),荒布(あらめ),魚,伊勢布があげられる。…
【千草街道(千種街道)】より
…そして千草(菰野町)を経て桑名,四日市方面に至る。 中世にこの街道の通商交通の独占権を有していたのは,得珍保︵とくちんほ︶今堀郷を中心とする[保内商人]およびそれと連合したいわゆる︿四本商人﹀と呼ばれる座商人群であって,毎年農閑期になると商品を肩に背負い,あるいは馬に背負わせて伊勢から美濃路まで行商を行った。ときには,数百人の人と馬の隊商を組んで千草越えをしたことが,五山の僧侶横川景三︵おうせんけいさん︶の1468年(応仁2)の日記に記されている。…
【由緒書】より
…また被差別部落には,︿河原巻物﹀ともいわれ,その職能・特権,差別の由来を語るさまざまな由緒書が伝わっているが,そこにしばしば現れる︿延喜御門﹀(醍醐天皇)は,16世紀に塩売りとして活動した坂の者(非人)の正当な文書(︿北風文書﹀︿八坂神社文書﹀)にも現れるので,この由緒書も単に江戸時代に捏造︵ねつぞう︶されたものではなく,戦国時代のなんらかの事実・伝統を背景にしているのである。このほか,近江[保内︵ほない︶商人]の後白河天皇の偽[綸旨]︵りんじ︶とつながる由緒書をはじめ,職人の伝える偽文書には由緒書が結びついていたものと思われるが,これらのうち,[またぎ]の︿山立根元巻﹀が源頼朝にその特権の起源を結びつけているように,東国の職人には頼朝や徳川家康にみずからをつなげているものが多い。そして職人の由緒書は偽文書とともに,中世後期以降,江戸時代の社会ではそれとして認められ,実効をもったことも見逃してはなるまい。…
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