円仁(読み)エンニン

デジタル大辞泉 「円仁」の意味・読み・例文・類語

えんにん〔ヱンニン〕【円仁】

 
794864()()()()()()()()()()()3()()()()  

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精選版 日本国語大辞典 「円仁」の意味・読み・例文・類語

えんにんヱンニン【円仁】

 

(一)()()
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「円仁」の意味・わかりやすい解説

円仁
えんにん
(794―864)


()()()9()()15()()()8167()82312()()()8285()()()()()()8385使()7()84053()()()768844()()8()()()()()()()()()()()()()()()()845()847149()854寿44()3()8668()()589802()()()()()()772837()()7()7()8()4

 2017519

19621964

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百科事典マイペディア 「円仁」の意味・わかりやすい解説

円仁【えんにん】

 
()()()15()()838()()()847()3()()
 

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改訂新版 世界大百科事典 「円仁」の意味・わかりやすい解説

円仁 (えんにん)
生没年:794-864(延暦13-貞観6)


39158083298352838使840584558475592110

 384922851寿18541︿86471866

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朝日日本歴史人物事典 「円仁」の解説

円仁

 
6.1.14(864.2.24)
13(794)
310(),,4(813),5,7,,12,,5(828),10調2(835)42,25使 2,1,5(840),,841,2(842),5,14559,,,2(849),1(854)3,1000,8(866),100<参考文献>,,  
()
 

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「円仁」の解説

円仁
えんにん

794~864.1.14

慈覚(じかく)大師とも。平安前期の天台宗僧。俗姓壬生(みぶ)氏。下野国都賀(つが)郡生れ。はじめ関東で広智(こうち)につき,ついで広智にともなわれ比叡山に上り最澄(さいちょう)に師事。受戒後,最澄と東国巡行。また如法経の行儀を確立し比叡山に横川(よかわ)(首楞厳(しゅりょうごん)院)を開いた。838年(承和5)入唐。天台教観を学び,また揚州開元寺の全雅(ぜんが),長安大興善寺の元政(げんせい),青竜寺の義真(ぎしん)らから密教を受法。五台山に巡礼し,常行三昧(じょうぎょうざんまい)の基となる法照流念仏を学んだ。武宗の会昌(かいしょう)の廃仏(845)をきりぬけて847年帰国。天台教学を密教の一翼に位置づけ,真言宗に遅れをとっていた密教法門を確立。比叡山のおもな行業の多くを整備し,854年(斉衡元)第3世天台座主となる。著書「金剛頂経疏(こんごうちょうきょうしょ)」「顕揚(けんよう)大戒論」「入唐求法(にっとうぐほう)巡礼行記」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「円仁」の意味・わかりやすい解説

円仁
えんにん

 
[]13(794).
[]6(864).1.14. 
3 21 (802) 3 (808) 7 (816) 5 (838) 使 802141 (848) 寿4 (854) 8 (866)   

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「円仁」の解説

円仁 えんにん

 
794864 
()13,()545()(),14寿()43(),,()611471()()()()()  

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旺文社日本史事典 三訂版 「円仁」の解説

円仁
えんにん

794〜864
平安前期の天台僧。第3代天台座主 (ざす)
諡号 (しごう) は慈覚大師。下野 (しもつけ) (栃木県)の人。最澄 (さいちよう) に師事し,838年入唐。密教を学んで帰国し,台密を大成した。山門派の祖とされる。その著『入唐求法巡礼行記 (につとうぐほうじゆんれいこうき) 』は在唐中の日記。

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世界大百科事典(旧版)内の円仁の言及

【鶴林寺】より


747(19)︿761(5)︿852(寿2)︿()1112(3)

【三仏寺】より

…706年(慶雲3)役小角(えんのおづぬ)が白雲に乗って飛来し,神窟を開いてみずから建物を投げ入れたことが開基と伝える。849年(嘉祥2)慈覚大師円仁が再興して釈迦,阿弥陀,大日の3仏を安置し,〈浄土院美徳山三仏寺〉と号した。奥院(国宝)は山腹の岩窟内に建つ小規模な建築で,床下は長大な柱で支えられたいわゆる懸造をなしており,〈投入堂〉とも称される。…

【浄土教】より


調

【浄土教美術】より


︿調10

【声明】より


 804(23)838(5)41

【請来目録】より


(838839)123(838847)8022(842847)220(76)

【新羅坊】より

…彼らが集団で居住した新羅坊は,東シナ海沿岸地方の楚州,徐州,登州などにあり,いずれも中国大陸と朝鮮半島とを結ぶ水路の要地にあたる。なかでも登州付近の文登県赤山村のものは,日本の天台僧,慈覚大師円仁が唐への旅の途上滞在し(839,845),その旅行記《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》の詳しい記録によって知られる。当時,9世紀前半には国内の飢饉のため唐に流亡する新羅人も多く,また張保皋(ちようほこう)が東シナ海の海上権をにぎり貿易を独占して,その唐側の拠点の一つとして赤山がとりわけ繁栄した。…

【中尊寺】より


850(3)859(1)

【唐】より


845(5)955(2)() 

【入唐求法巡礼行記】より

…平安時代の僧円仁(慈覚大師)らが入唐して中国各地を巡礼した旅行記。円仁撰。…

【立石寺】より

…俗に山寺(やまでら)と称される。860年(貞観2)慈覚大師円仁の開山と伝え,東北屈指の慈覚大師信仰と庶民信仰の霊山である。慈覚大師入滅の地は比叡山とされるが,当寺でも山頂南面の絶崖にある岩窟が大師の入定(にゆうじよう)窟とされている。…

【留学】より


 使使838(5)使

※「円仁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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