北村透谷(読み)キタムラトウコク

デジタル大辞泉 「北村透谷」の意味・読み・例文・類語

きたむら‐とうこく【北村透谷】

 
18681894()()()  

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精選版 日本国語大辞典 「北村透谷」の意味・読み・例文・類語

きたむら‐とうこく【北村透谷】

 

(一)
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北村透谷」の意味・わかりやすい解説

北村透谷
きたむらとうこく
(1868―1894)


1229()12()()()()188316()()

 18855調()()3()()88()91()()()12189293192()()

 20()()()1893退()188720()()()()()18931893()()()()()()

 2751625



319505519641973196771 1979

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百科事典マイペディア 「北村透谷」の意味・わかりやすい解説

北村透谷【きたむらとうこく】

 
188118831885()188718881889189118945
 

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改訂新版 世界大百科事典 「北村透谷」の意味・わかりやすい解説

北村透谷 (きたむらとうこく)
生没年:1868-94(明治1-27)


188112832385︿848889919293︿9425

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朝日日本歴史人物事典 「北村透谷」の解説

北村透谷

 
27.5.16(1894)
1.11.16(1868.12.29)
,,,14(1881),,,16,,(),退,,,,,,,21,22,,,,,,,,,,24,,26,,,,,,,,,,,<参考文献>  
()
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北村透谷」の意味・わかりやすい解説

北村透谷
きたむらとうこく

 
[]1(1868).11.16. 
[]1894.5.16. 
退188985 (1889)  (91)  (92) 禿93  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北村透谷」の解説

北村透谷
きたむらとうこく


1868.11.1694.5.16

退1893(26)調()3

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北村透谷」の解説

北村透谷 きたむら-とうこく

1868-1894 明治時代の評論家,詩人。
明治元年11月16日生まれ。自由民権運動に挫折(ざせつ)し,石坂ミナとの恋愛,結婚,キリスト教への入信をささえに文学にこころざす。詩集「楚囚(そしゅう)之詩」や恋愛論「厭世詩家と女性」などを発表。明治26年島崎藤村らと「文学界」を創刊,浪漫(ろうまん)主義文芸運動を主導したが,理想と現実の間でなやみ,明治27年5月16日自殺。27歳。相模(さがみ)(神奈川県)出身。東京専門学校(現早大)中退。本名は門太郎。評論に「内部生命論」など。
【格言など】わが死せしかたわらに一点の花もなかれよ(死の前年に妻へあてた手紙の一節)

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旺文社日本史事典 三訂版 「北村透谷」の解説

北村透谷
きたむらとうこく

1868〜94
明治中期の詩人・評論家
本名は門太郎。神奈川県の生まれ。自由民権運動に参加したが,政治に失望して文学に転じ,キリスト教に入信。ロマン派の先駆者として,すぐれた直観と想像力を発揮し,長詩『蓬萊 (ほうらい) 曲』,評論『厭世詩家と女性』などをつぎつぎと発表。1893年島崎藤村らと『文学界』を創刊。翌年,理想と現実の矛盾に悩み自殺した。

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世界大百科事典(旧版)内の北村透谷の言及

【エマソン】より

…エマソン思想がたどったこの道程には,南北戦争という試練を経て資本主義体制を固めていくアメリカ社会の歴史が色濃く投影している。日本では北村透谷の《ヱマルソン》(1894)以来エマソンはなじみ深い存在だが,いささか精神主義的な受容に傾きがちであり,いわゆる〈アメリカ・ルネサンス〉期を代表する思想家として,彼のダイナミックな精神のありかたに目を向けるべきだろう。【酒本 雅之】。…

【大阪事件】より

…審理の結果大井,小林,新井は重懲役9年,以下それぞれ処罰された。女性として景山(福田)英子が参加したこと,三多摩の青年大矢正夫らに誘われて参加した北村透谷が中途で離脱したことなど,多様な側面を持っている。当時の自由民権思想には,日本の改革のみにとどまらず東アジア(清,朝鮮)全体の改革を志向する傾向があったが,その顕著な例といえる。…

【キリスト教文学】より

…ただ宗教的リゴリズムをもって文芸の毒をきびしく批判した内村に対し,植村はむしろこれを宗教的・精神的啓蒙の具としたところに,民友社の蘇峰や愛山らにもつながる功利的文学観が見られる。これと相対立したのが《文学界》一派,特に北村透谷であり,愛山との間に文学の〈人生に相渉るとは何の謂ぞ〉という問題をめぐっていわゆる〈人生相渉論争〉が展開するが,その応酬のなかで透谷は文学の自律を説き,《内部生命論》(1893)を著した。 ここにも明らかなごとく明治20年代より盛んとなった自由主義神学,さらにはユニテリアンの思想は透谷をはじめ島崎藤村,国木田独歩らにも深い影響を与え,日本の土着の心性ともからんで一種の汎神論的思想や運命論的諦観へと彼らを傾斜させた。…

【句読点】より

…幸田露伴《風流仏》や,矢崎嵯峨の舎の諸作品がこれに加わる。一方で北村透谷も1887年から二つ重ねの黒ゴマ点〈、、〉をセミコロンや感嘆符に使用した。《楚囚之詩》《蓬萊曲》などでは白ゴマ点の形式に合流した。…

【写実主義】より

…それらは,まもなくいわば〈小説の改良〉として,小説における写実主義に転化していったのであるが,そこにはまだ何かが欠けていた。北村透谷が〈写実も到底情熱を根底に置かざれば,写実の為に写実をなすの弊を免れ難し〉(《情熱》)と批判したように,そこには〈情熱〉,つまり外界を見るよりもむしろそれを拒絶するような一種の倒錯的な内面性が欠けていたのである。 一方,ロシア文学に通じており内面的であった二葉亭四迷は,いざ書こうとすると,《浮雲》がそうであるように,実質的に江戸文学(戯作)の文体・リズムに引きずられざるをえなかった。…

【内部生命論】より

北村透谷の評論。1893年《文学界》第5号に発表。…

【文芸批評】より

…このリアリズム小説論は,二葉亭四迷〈小説総論〉(1886)の虚構理論に発展し,明治20年代にいたって坪内逍遥と森鷗外との論争などを通じて,文芸批評は時代の文学への指導的役割を確立する。だが文学が他の諸価値から自立した世界を形づくり,かつそれが文学者の内心の思いの表現であることを表明したのは北村透谷であり,透谷を含む《文学界》グループが西欧近代のロマン主義の移植を媒介として近代的な文学観を確立したとみられる。このような文学観は《文学界》に次いで明治のロマン主義思潮を代表する雑誌《明星》の人びとによって美意識の近代性を補強された。…

【ロマン主義】より

…彼はロマン主義の本質を,未知な世界や異常な事物などに対する好奇心などの伝奇性に求めているが,そこから森鷗外元祖説は導かれているのである。これに反対して,勝本清一郎は,〈正統なロマン主義〉の性格が,〈自由を求める精神,形式を破壊する精神,保守的勢力に対して革命的な精神,動的な自己主張の精神〉(〈《文学界》と浪曼主義〉)にあると考え,北村透谷の劇詩《楚囚之詩(そしゆうのし)》(1889)から《蓬萊曲(ほうらいきよく)》(1891)へ展開する過程に,その顕著なあらわれを見ている。この勝本の立場からは,佐藤春夫がロマン的作品として高く評価する鷗外青年期の訳詩集《於母影(おもかげ)》(1889)や小説《舞姫》(1890)は,その静的な形式美,節度,保守,妥協への希求,抒情への傾向において,酷評されざるをえない。…

※「北村透谷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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