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「北海道旧土人保護法」の意味・読み・例文・類語
ほっかいどう‐きゅうどじんほごほう〔ホクカイダウキウドジンホゴハフ〕【北海道旧土人保護法】
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北海道旧土人保護法 (ほっかいどうきゅうどじんほごほう)
1899年︵明治32︶,︿アイヌ民族の保護﹀に関して,北海道庁が立案し,第13回帝国議会で成立,同年公布施行された,アイヌ民族の同化・皇民化を前提とする法律。全13条からなる総合立法で,第1~4条は勧農・勧業,第5~6条は生活保護,第7~9条は教育,第10条は共有財産管理,第11条は警察令での罰則を規定し,附則第12・13条がある。
制定理由に,︿アイヌ民族﹀の保護は,︿皇国における国土・国民を支配する統治権の総攬者である﹀天皇の仁政の感化が少ないため,その知識が大変低く,生命を託す自然資源を移民に搾取されて悲惨な状態になったこと,明治初めからの施策の成果が不充分なことから,救済の方法を設け災いを除き,窮状を哀れんで適当な産業により生活を保全,その家計を成すことが国家の義務,天皇の考えに添う,とある。当時の︿アイヌ民族﹀を劣位の︿未開民族﹀とし,優勝劣敗を不可避とする文化観,文明観を前提として,異民族の皇民化をめざす最初の試みであった。
改正の経緯
5回の改正経緯は,第1回1919年,アイヌの高死亡率,結核患者増大から第5・6条に︿傷痍﹀追加,改正審議では,下付地の散逸から,別途︿アイヌ自治区﹀設置の必要性を質し,政府は,アイヌは北海道一般を権地として居住したが,北海道開発により生産増大する政策と矛盾,これと調和して実行は難とした。以後,同法廃止時点まで,アイヌ民族政策の本質的議論はされない。第2回改正は,37年,同化政策の徹底が強調される日中戦争のさなか,保護は同化でありアイヌ民族は自然消滅するという確信が強調された。第2・4条が変更,勧農から勧業への事業変更,付与後の土地の制限事項緩和。教育条項で,第7条︿授業料給付﹀が︿必要な学費﹀に,補助範囲が小学校から中・高等学校へ拡大され,新項目として︿住宅改良資金﹀と︿保護施設建設補助﹀が追加された。第9条は全面削除で︿旧土人学校﹀は以後漸次廃止され,第10条の共有財産の処分に際する許可は,北海道長官による許可のみに,第11条罰則規定が削除された。第3回改正は,46年,戦後の民主化関連で,第4・5・6条が全面削除。︿生活保護法﹀︿特別法人税法﹀との整合性からの改正,︿民族問題﹀としての認識と論議はなく,その後そうした議論はタブー視され,一方︿単一民族国家論﹀がはびこる。第4回改正は,47年,第2条2項の削除で条件付規定︿各種税の免除﹀が廃止された。第5回改正は,68年,生活保護法関連で第7条2,3項が削除され,戦後制定の法律適用に伴い,まさに死法化された。
88年以降,残っている下付地は,1340haで全下付地の15%にすぎず,共有財産︿明治時代の漁場経営収益金や宮内省からの教育目的の御下賜金など﹀の預金も150万円足らずとなった。
同法に関しては,明治初期にアイヌ民族の居住地を一括官有地とし,和人移住者への大量の土地配分の︿例えば1886年,北海道土地払下規則は1人につき10万坪︵約33ha︶,90年,屯田兵土地給与規則は1戸につき1万5000坪および同面積の共有地,97年,北海道国有未開地処分法は1戸に150万坪以上の土地を保証が優先された﹀後に制定されたため,アイヌに付与する良好な土地が少なくなり,川原や傾斜地など不適地が多く下付された。付与後の農業指導も足らず,さらに︿第3条規定の成功検査で﹀没収された土地は,全下付地9061ha︵約2746坪︶の21.5%に及んだ。戦後,北海道アイヌ協会などの︿自作農創設特別措置法﹀改正の適用除外運動が認められず,全下付地の25.6%に上る貸与の給与地が強制買収された。同法の根幹の勧農,勧業の施策および共有財産の管理,運用には際だった成果が上がらず,小学校21と病院4が設置されたが,ほとんどが廃統合となった。
1997年,︿アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律︵アイヌ文化振興法︶﹀制定と同時に︿旭川市旧土人保護地処分法﹀︵1934制定︶とともに廃止された。
制定に至る歴史的背景と評価
18世紀後半からのロシアの南下により対外関係が緊張,1799年︵寛政11︶から︿撫育こそ国防の第一義﹀とし幕府の蝦夷地政策が転換,1855年︵安政1︶,︿日露和親条約﹀締結での国境設置を契機として︿土人﹀の撫育と北辺警備を伴う本格的な蝦夷地開拓政策が展開された。明治新政府は69年︵明治2︶,︿蝦夷地﹀を︿北海道﹀と改め︿当時の人口はアイヌも含め5万2000人﹀,開拓使を設置,第2次幕府直轄から続く︿内国内植民地﹀の同化政策を近代国家建設の法的,政治的枠組みでさらに強化,徹底した。また,奴隷貿易反対の立場の明治政府は,68年,日本最初の海外︿移民﹀の失敗から,以来20年近く日本人の海外移住を許可せず,代りに廃藩置県や地租改正の影響による余剰人口の流動を北海道開拓の中で吸収していった。
この法律は,国家統合に即して,アイヌ民族の保護の目的に一定の機能を果たしたが,︿アイヌ民族の保護救済は,その民族のためよりも国家のため,国民形成のためであり,国際社会での威信のため,日本の立場をよく見せようとする姿勢であった﹀︵加藤一夫︶とされるとおり,従属する︿︵旧︶土人﹀を抱える帝国主義国家日本が,︿領土と臣民﹀に関わり︿旧ロシアとの樺太・千島交換条約︵1875年調印︶の条文内で︿臣民﹀と︿土人﹀を峻別する﹀国際対応や,アイヌ民族の惨状につき国外からの非難をかわす副次的な理由も備わっていた。このことは日本国憲法下において,同法が死法化するに至り,法に基づいた総合的な施策がアイヌ民族に関して推進されず,その窮状が看過されてきた理由でもある。
2000年,日本政府は,︿あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約︵人種差別撤廃条約︶﹀の第1回・第2回定期報告書中,同法を︿差別法の改廃﹀の項目で報告,評価している。
→アイヌ →アイヌ文化振興法
執筆者‥佐藤 幸雄
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北海道旧土人保護法
ほっかいどうきゅうどじんほごほう
1899年︵明治32︶に制定されたアイヌ政策に関する基本法。近代日本のアイヌ政策の特質は、アイヌの﹁日本人﹂化の強制と﹁日本人﹂社会からの排除という二重の差別構造を内在化した同化政策と規定できる。同法はそれを象徴するもので、アイヌの生活・文化に大きな影響を与えた。同法は13条から構成され、アイヌへの土地給与、農耕の奨励と初等教育の普及を通してアイヌを﹁開拓農民﹂に仕立てあげ、かつ﹁日本人﹂になるための教育を受けさせることを主目的としている。その基本理念は、同化主義の法的フィクションにすぎない﹁一視同仁﹂の天皇制思想に基づいていた。なかでも、﹁旧土人﹂小学校は、その第9条﹁北海道旧土人ノ部落ヲ為(な)シタル場所ニハ国庫ノ費用ヲ以(もっ)テ小学校ヲ設クルコトヲ得﹂を法的根拠として設立されたアイヌ児童の分離教育機関で、児童のみならず、アイヌ・コタン全体の同化中枢的機能を果たした。同小学校は全道に23校が設立されたが、そこでの教育の実態は、尋常小学3か年で学ぶ程度の内容をアイヌ児童の﹁能力の遅れ﹂を前提に4か年としたり、あるいはアイヌ語・アイヌ文化を教科目に取り入れなかったり、きわめて差別的な色彩が濃いものであった。﹁旧土人﹂という差別的呼称を冠した同法は、アイヌの﹁同化﹂とともに五度にわたる改正を経た。しかし、その存廃をめぐって北海道ウタリ協会は、1984年︵昭和59︶5月、現行法を撤廃し、それにかわる新法の素案としてアイヌ民族の権利保障を盛り込んだ﹁アイヌ民族に関する法律﹂︵案︶をまとめ、同協会総会で承認を得、北海道知事の私的諮問機関であるウタリ問題懇話会および北海道議会厚生常任委員会にそれぞれ付託され、その内容が審議された。
また、国会では、1986年10月の中曽根(なかそね)首相のアイヌ民族の存在を否定する﹁単一民族国家発言﹂に対する当事者からの抗議を機に、同法の名称変更を骨子とする改正案を継続審議し、政府は同法の見直しを約束した。
1994年︵平成6︶2月には、連立与党に﹁アイヌ新法﹂制定のためのプロジェクト・チームがつくられ、同年7月、萱野(かやの)茂がアイヌ民族として初の国会議員︵参議院議員︶となり、懸案だった﹁北海道旧土人保護法﹂の廃止と﹁アイヌ新法﹂の立法化に向けての作業が進められた。97年5月8日、﹁アイヌ新法﹂正式名称は﹁アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律﹂︵略称、﹁アイヌ文化振興法﹂︶が、国会で成立、同年7月1日に施行され、これに伴い﹁北海道旧土人保護法﹂は廃止された。
﹇竹ヶ原幸朗﹈
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「北海道旧土人保護法」の意味・わかりやすい解説
北海道旧土人保護法【ほっかいどうきゅうどじんほごほう】
北海道開拓の犠牲となり,疲弊したアイヌ民族に対し,和人︵日本人︶の視点からの救済・保護を目的とした法律。1899年︵明治32年︶制定。同化と農耕化を前提に,一戸あたり最大1万5000坪︵約5ha︶の土地の給付,生活保護,小学校の設置などを主な内容とする。給付地の全面積は9061haで,北海道の全面積の約0.1%にすぎず,開拓開始後約30年を経て,その土地の多くは耕作不適地であった。その後,農地としての成功検査や農地改革で多くの土地が没収され,現存する給付地は当初の15%でしかない。土地給付条項などは数次の改正で削除されたが,国際法上の植民地法的性格や民族差別法的性格が問題とされた。1997年5月の︿アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律﹀︵略称,アイヌ文化振興法︶の成立にともない廃止。
→関連項目アイヌ|ドーズ法
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北海道旧土人保護法
ほっかいどうきゅうどじんほごほう
1899年(明治32)に制定された明治国家のアイヌの人々への同化主義政策を集大成した法律。アメリカ・インディアンの合衆国市民への同化を企図したドーズ法(1887)の強い影響をうけた同法は13条から構成され,アイヌの人々への土地給与(1戸につき1万5000坪=5ヘクタール以内),農耕の奨励,初等教育の普及(アイヌ小学校の特設,授業料の支給)などを重要な施策として位置づけていた。同法の根底には﹁優勝劣敗﹂と﹁一視同仁﹂の論理が貫かれ,前述の施策を通してアイヌ民族を明治国家のなかに統合していくことを企図していた。5度の改正をへて存続し,北海道ウタリ協会は同法を廃止し,アイヌ民族の権利をもりこんだ﹁アイヌ新法﹂の制定をめざす運動を展開した。1997年(平成9)5月,アイヌ文化振興法の成立にともない廃止された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の北海道旧土人保護法の言及
【アイヌ】より
…86年の︿北海道土地払下規則﹀や97年の︿北海道国有未開地処分法﹀によって和人に対する大規模な土地払下げが行われるなかで,アイヌは和人の入植地や市街部から離れた︿保護地﹀と称する原野に強制的に移転させられた。(4)政府は98年になって,アイヌ1戸当り5町歩の土地の給与と︿旧土人﹀小学校の設置を決めた︿[北海道旧土人保護法]﹀を制定した。しかし肥沃な土地の多くはすでに和人の手に渡っていたため,︿給与地﹀として与えられた土地は,多くの場合地味の悪い土地であっただけでなく,給与地に対する権利も相続以外の譲渡は禁止されるなど,本来的な所有権からはほど遠いものであった。…
※「北海道旧土人保護法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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