デジタル大辞泉 「孔融」の意味・読み・例文・類語 こう‐ゆう【孔融】 ﹇153~208﹈中国、後漢の学者。魯(ろ)︵山東省︶の人。字(あざな)は文挙。孔子20世の孫。献帝に仕え、学問を興隆させたが、曹(そう)操(そう)に憎まれ、処刑された。建安七子の一人。著﹁孔北海集﹂。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「孔融」の意味・読み・例文・類語 こう‐ゆう【孔融】 (一)中国、後漢末の学者。孔子二〇代目の後裔(こうえい)。字(あざな)は文挙。魯︵山東︶の人。建安七子のひとり。献帝のとき北海相となり、学校をおこし、儒者を重んじた。後、太中大夫となる。晩年、曹操に憎まれ、一族とともに処刑された。著﹁孔北海集﹂。︵一五三‐二〇八︶ 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本大百科全書(ニッポニカ) 「孔融」の意味・わかりやすい解説 孔融こうゆう(153―208) 中国、後漢(ごかん)末の儒者。字(あざな)は文挙(ぶんきょ)。魯(ろ)国魯県︵山東(さんとう)省曲阜(きょくふ)市︶の人。孔子(こうし)の二十世孫で、﹁建安(けんあん)の七子(しちし)﹂の一人に数えられる文章家でもある。10歳のとき、首都洛陽(らくよう)でもっとも名声の高かった李膺(りよう)を訪ね、﹁先祖である孔子は、あなたの先祖の李老君(りろうくん)︵老子︶と師友であったので面会してほしい﹂という機知により面会を許され、高く評価された。董卓(とうたく)による皇帝の廃立に抵抗して、黄巾(こうきん)の拠点の一つ北海(ほっかい)国︵国は郡と同格の行政単位︶の国相(こくしょう)︵行政長官︶とされたが、教育を尊重して学校を復興した。しかし、黄巾との戦いには敗れ、許(きょ)に招かれて少府(しょうふ)︵皇室財政担当大臣︶となった。やがて、曹操(そうそう)が漢を奪おうとすると厳しく批判した。曹操は当初、名声の高い孔融をはばかっていたが、漢を簒奪(さんだつ)するために孔融を殺害した。孔融が逮捕されたとき、9歳の息子と7歳の娘は、双六(すごろく)を止めなかった。﹁父が捕らえられたのにどうして立たないのか﹂と聞かれると、﹁巣が壊されて割れない卵がありましょうか﹂と答えたという。 ﹇渡邉義浩﹈ ﹃渡邉義浩著﹃﹁三国志﹂軍師34選﹄︵PHP文庫︶﹄ [参照項目] | 曲阜 | 建安七子 | 黄巾の乱 | 孔子 | 曹操 | 董卓 | 魯 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「孔融」の意味・わかりやすい解説 孔融こうゆうKong Rong [生]永興1 (153) [没]建安13 (208) 中国,後漢末の文学者。魯国︵山東省兗州︶の人。字,文挙。孔子の子孫にあたる。若くして機知と胆力に富む逸事で名をあげ,侍御史,虎賁中郎将などを歴任。黄巾の乱にあたって北海︵山東省濰坊︶の相となり,のち曹操の幕下に加わり少府となった。そのため孔北海とも,また孔少府とも呼ばれる。しかし傲慢な性格でしばしば曹操に反発したため,ついに処刑された。残された詩文はあまり多くないが,﹁建安七子﹂の一人に数えられ,曹丕︵→文帝︶の﹃典論﹄では七子中の第一とされている。﹃孔北海集﹄︵1巻︶がある。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報