百科事典マイペディア 「安食荘」の意味・わかりやすい解説 安食荘【あじきのしょう】 尾張国春部(かすがべ)郡の荘園で,︽和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)︾に載る同郡安食郷内に成立した。荘域は庄内(しょうない)川・矢田(やだ)川の合流点より上流域を主要部とし,現在の名古屋市北区,愛知県春日井(かすがい)市南西部,西春日井郡南東部一帯にあたる。914年統正(むねまさ)王が京都醍醐(だいご)寺に施入して立荘された。その後収公されたが,1143年前関白藤原忠実により醍醐寺領に復され,修理料ならびに灌頂(かんじょう)院の布施料などにあてられた。その後再び収公されたが,1188年後白河法皇によって寺領に復され,以後醍醐寺三宝(さんぼう)院領として相伝された。四至内の主要部分は条里制の施行地域で,680余町︵うち田地160余町・畠地120余町︶からなり,在家(ざいけ)70宇。承久の乱後改補された地頭(じとう)の押妨に対し,寺家は1281年開発相伝領主である光弘・五郎丸名主の毛受(めんじょう)袈裟鶴丸︵能実・道観︶を預所(あずかりどころ)とし,年貢200貫文を請け負わせた。袈裟鶴丸は預所職を建武政権下においても安堵されたが,その間五郎丸・光弘両名主職をめぐる地頭代との相論,前公文国政や高田(たかだ)保︵現愛知県北名古屋市︶地頭らの押領等があった。14世紀初めころ東西に分かれた。1340年福徳(ふくとく)名について醍醐寺成身(じょうしん)院と相論,1427年には春日部原をめぐって等持(とうじ)院︵現京都市北区︶領柏井(かしわい)荘︵現春日井市︶と境相論があった。 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
改訂新版 世界大百科事典 「安食荘」の意味・わかりやすい解説 安食荘 (あじきのしょう) 尾張国春部︵かすかべ︶郡安食郷︵現,愛知県春日井市南西部,清須市東部,名古屋市北区︶内の荘園。914年︵延喜14︶統正王が京都醍醐寺に施入したことに始まる。その後収公されたが,1143年︵康治2︶もとのごとく醍醐寺領とされ,以来三宝院領。田地160余町,畠地120余町を含む680余町。在家70宇。東は柏井荘,西は味鏡︵あじま︶郷・高田保と隣接。美絹町別1疋,菓子,酒等を負担。承久の乱後改補された地頭の押妨に対し,1281年︵弘安4︶開発相伝領主毛受︵めんじよう︶袈裟鶴丸︵能実,道観︶を預所とし,年貢200貫文を請け負わせた。彼はその後50余年間預所であったが,その間五郎丸・光弘両名主職をめぐる地頭代との相論,高田保地頭や前公文国政の押領等があった。14世紀初めに東西荘に分離。1340年︵興国1・暦応3︶に福徳名について醍醐寺成身院と,1427年︵応永34︶に春日部原堺について等持院領柏井荘と相論した。応仁の乱後の︿無為知行所々﹀に︿安食庄二百石﹀とあるのが終末所見。 執筆者‥旭 澄江 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報