荘園(読み)ショウエン

デジタル大辞泉 「荘園」の意味・読み・例文・類語

しょう‐えん〔シヤウヱン〕【荘園/×庄園】

 
1()()()() 
2 
3   

そう‐えん〔サウヱン〕【荘園】

しょうえん(荘園)

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「荘園」の意味・読み・例文・類語

しょう‐えんシャウヱン【荘園・庄園】

 

(一)  
(二) 
(一)[](759)
(三) 
(四) 西
(一)[]()(1875︿)


(1)使
(2)
(3)()
(4)

そう‐えんサウヱン【荘園】

  1. 〘 名詞 〙しょうえん(荘園)

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「荘園」の意味・わかりやすい解説

荘園 (しょうえん)




 1西調西2

 2︿西

 2101195522=

8723774315

 湿9︿調使

9022西西11

 91111

 ︿姿11

︿10452

 10691

 

 便

 使使使調使使︿

11561調

 西11912調西西調

10西

 西使

 

 

 西西使

 西︿31

 ︿西

13西

 2011368231西

 

 13︿使

 姿西姿

 

 15西

16


56使使使

 3314km265使西

 310使

 56︿

 

 姿3西西

 使姿西


seigneuriedomaine

 使

 familia

 19
 

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「荘園」の意味・わかりやすい解説

荘園
しょうえん
manor 英語
domaine フランス語
Grundherrschaft ドイツ語

西洋および日本では8世紀ごろから、中国では漢代(紀元前後)から行われた私的大土地所有のことで、所有者がなんらかの特権をもっていた。西洋ではイギリスのマナー、ドイツのグルントヘルシャフトが、普通、荘園と訳される。

[橡川一朗]

西洋

起源

3villa西5

 Immunität8使

 


古典荘園の構造と性格

10129B. Guérard18442422230Hufemanse11015601123111111J. GrimmWeistümer,184078

 12324101410

 HochgerichtsbarkeitVogtadvocatus

 13使213

 30()調


地代荘園の構造と性格

11182341vilainserf30使1112()taille à plaisir

 12chevage131418laboureur1789

 131848191西1217西()Gesinde使mancipia3134815使Österreichische Weistümer1316719

 16Gutsherrschaft使19使

 11141315yeoman19


中国

形態

中国で荘園にあたるものは、墅(しょ)、別墅、田墅、山墅、村墅、園、園墅、別業(べつぎょう)、荘、荘子、荘田、荘園などとよばれ、王公、貴人、百官、富豪など前近代封建社会の大土地所有者が所有地の経営のために設けた家屋建造物、もしくは家屋建造物とこれに付属する田地とを一般的にさし、不輸不入の特権をもつ特殊な経済的組織体を意味するものではなかった。家屋建造物は、農耕の督察と田租の取り立てを行うための施設で、土塀(どべい)で囲み門楼を設けた屋敷内に、荘園主もしくはその代理人の住む荘屋、田租を収納する倉廩(そうりん)、耕牛、農器具、車両を置く舎屋、常時荘内にあって雑役に従う僮僕(どうぼく)を住まわせる客屋などが置かれていた。荘園が未開地を開発して置かれる場合には、このほかに、耕作者を集住させる屋舎がつくられていた。墅、荘、荘墅、荘子、荘院は、本来、郷村(ごうそん)に置かれたこれらの管理施設をさして用いられた呼称で、荘園主は荘園所在地の地名や縁起のよい美名を選んで某々荘と名づけていた。土地は、蔬菜(そさい)・果樹を植える園圃(えんぽ)、穀物をつくる田地、農器具の製造補修に必要な竹木や柴薪(さいしん)建築物料などをとる竹園山林があった。荘園は、本来の形態をいえば、中心部に荘院園圃があって周辺に田地山林が広がるものであったと考えられる。

[草野 靖]

発生・変遷

1()()()西()()()沿()()()

 ()()便()

 ()簿便()使7364

 19201930調便()()西()()()()()

 

日本


 奈良時代に発生し戦国時代まで存続した、貴族・寺社の大土地所有の形態。本格的展開をみた平安時代後期以降は、荘園が政治・社会・経済の根幹を規定する地位を占め、その社会はしばしば荘園制社会とよばれる。およそ800年に及ぶ荘園の歴史は、通常、(1)形成期=8世紀後半から11世紀なかばころまで、(2)確立展開期=11世紀後半から14世紀前半ころまで、(3)動揺解体期=14世紀後半から16世紀末の太閤(たいこう)検地まで、の3期に区分される。

[永原慶二]

初期荘園

743年(天平15)の墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を転機として、8世紀後半以降、中央貴族・寺社と地方豪族との結び付きのもとに、山野未墾地の囲い込みが進められ、荘所とよぶ倉庫兼開発拠点を中心に開墾が行われ、これが荘園の発端となった。越前(えちぜん)など北陸地方に数多く設定された東大寺(とうだいじ)領の荘園群はその代表的なものである。これらは墾田を基軸とした経営であることから、墾田地系荘園ともよばれた。しかし荘園とはいっても、これらの初期荘園は輸租(ゆそ)地で専属荘民はおらず、主として周辺の公民(こうみん)に賃租に出し、地子(じし)を収める経営方式をとった。その限りでは初期荘園はまだ律令制(りつりょうせい)の公地公民原則を基本的に否定するものではなかったが、9世紀には財政難から政府も勅旨田(ちょくしでん)・官田などとよぶ荘園類似の直轄地を設定することもあり、支配層の未墾地囲い込みが農民の共同用益地を圧迫し、その没落を促した。その結果、農民のなかには流亡して荘園に流入し、荘民化するものも増え、荘園増加はしだいに深刻な政治社会問題となりだした。

[永原慶二]

荘園の増加と荘園整理

9022()()()1011()()()()()10702()15123571854()()()()

 98421040110452105531065110691


寄進の盛行と荘園の全国的展開

11世紀から12世紀にかけて、地方豪族が「私領」を中央貴族・寺社などに寄進し、荘園化する動きが全国的に推進された。地方豪族は、国司の手による「私領」の収公を免れるため、中央権門貴族・寺社に「私領」を寄進し、その権威によって「私領」を確保しようとしたのであるが、立荘にあたっては、貴族・寺社は「私領」ばかりでなく、その周辺の公領をも広く荘域に取り込むのが普通であった。これをいわゆる寄進地系荘園という。寄進地系荘園の実態は、単なる開発私領に限らず公領の分割という性質を広くもっていたのであり、たとえば備後(びんご)の大田(おおた)荘は世羅(せら)郡の東半にあたる公領の桑原(くわばら)郷・大田郷をそっくり荘領としており、陸奥(むつ)の菊多(きくた)荘は菊多郡を一括して荘園化したのである。

 立荘は名目的には寄進とはいえ、国家の承認を得、太政官符(だいじょうかんぷ)、民部省符(みんぶしょうふ)によって立券(りっけん)された。寄進を受けたものは上級領主たる領家(りょうけ)となり、寄進者は現地管理者たる下司(げし)となった。下司は、若干の免租地たる給田(きゅうでん)と下司が雑役をとることを許された雑免百姓に対する支配権を認められ、荘園全体の下地(したじ)管理、勧農、年貢雑役の徴取納入などにあたった。領家は検注(けんちゅう)権、年貢雑役の収納権、裁判権などを内容とする荘務権をもち、本所(ほんじょ)とよばれた。領家が一般の貴族・寺社である場合、さらに最高の権威をいただくため、摂関家・皇室などに重ねて寄進し、これを本家(ほんけ)と仰ぐこともあったが、本家の得分(とくぶん)は概して少額であった。その結果、一つの荘園に対する土地支配権は本家―領家―下司というように重層的な構成をとり、職権と得分を伴うそれぞれの地位は職(しき)として表現された。このような形で成立した寄進地系荘園は、臨時役たる勅事院事大小国役(ちょくじいんじだいしょうくにやく)以外は、国家に対していっさいの経済負担を免除されていわゆる不輸租であるとともに、国司の警察権をも排除した不入権ももつようになった。

 寄進地系荘園の全国的展開と並行して、公領も、在地豪族の勢力範囲を反映しつつ、郷(ごう)、保(ほ)などとよぶ支配単位に分割され、彼らが郷司、保司などの地位につくとともに、国支配の基本たる国務権も中央権門貴族・寺社に知行(ちぎょう)国として配分されることが多くなった。知行国主は自分の腹心の者を形のうえでは国司に任命したが、経済的収益の基本部分を私的得分とした点で、荘園領主と似た性質をもつようになった。こうして平安末期ころまでに展開した荘園および公領のあり方を、通常、荘園公領制とよぶが、荘園と公領の割合は全国的にみるとほぼ6対4前後と推定されている。

[永原慶二]

荘園の領有と伝領

()()()()()()()()()()

 ()()()()


荘民と年貢など

()()()()()135()()()()manor

 ()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()6()


鎌倉幕府と荘園制

鎌倉幕府が成立したころに、荘園の寄進の動きはほとんど停止した。おそらく寄進の主体たる在地豪族層が御家人(ごけにん)となることによって国司の収公圧力を排除できる条件が成立してきたからであろう。源頼朝(よりとも)は平氏を滅ぼしたのち、義経追捕(よしつねついぶ)を名目に守護、地頭(じとう)設置を朝廷側に認めさせた。地頭設置は公家(くげ)・寺社の強い反対にあったが、しだいに荘郷に広く設置され、とくに承久(じょうきゅう)の乱(1221)以降は新補(しんぽ)地頭によって、その設置はほとんど全国に行き渡った。本補(ほんぽ)地頭の職権は先に存在した下司(先(せん)下司)の権限を継承するものとされ、新補地頭にはいわゆる新補率法(りっぽう)が適用された。しかしいずれにせよ地頭の地位は勅許によって新設された武家専属の職(しき)であるとともに、主従制を前提として御家人にだけ与えられるものであり、実質的には荘園領主権に対して巨大な圧力を加え、年貢徴収・下地進止(したじしんし)・検断(けんだん)などの権能を奪い取るものであった。とはいえ原理的には荘園公領制の職の秩序のなかに位置づけられるものであった。頼朝の挙兵、鎌倉幕府の成立は、一面では公家政権から独立の武家政権の樹立を意味するが、半面では鎌倉殿(将軍)自身も大荘園領主であり多数の知行国の国主であったから、荘園制を根本的に否定するものではなかったのである。頼朝は荘園公領制の枠組みを存続させたまま、地頭設置によって現地支配の実権を握ろうとしたのである。また国別に置かれた守護も国司の行政権を直接否認するものではなかったが、その設置により守護は事実上国司の権能を逐次吸収し、国支配の実質を掌握する方向に進んだから、国支配の実権はしだいに守護の手に移っていった。国ごとに荘園公領の面積・領主・地頭などを調査した国支配の基本台帳たる図田帳(ずでんちょう)も鎌倉時代には守護を介して作成管理されるようになり、これがのちに守護の領国大名化していく梃子ともなった。こうして鎌倉幕府の成立以降は、荘園公領の現地支配の実権が、主従制に基づいて将軍から補任(ぶにん)された御家人たる地頭・守護の手に移ったから、荘園制の変質は避けられなかったし、とくに元来中央政府の統治力の浸透が弱かった東国では、荘園領主はその支配を地頭に請け負わせ、地頭が荘園支配の実権を完全に掌握してしまう場合が多かった。

[永原慶二]

在地領主制の発展と荘園制の動揺

鎌倉中期以降、地頭は荘園公領制の職の秩序の枠を乗り越えて、領主的権限を拡大し現地支配権を独占しようとする動きをとった。その種の動きはさまざまであるが、なかでも、百姓名を地頭名(じとうみょう)に取り込み、その百姓を身分的に隷属させ夫役を奉仕させる動き、荘園領主に送るべき年貢を「抑留(よくりゅう)」したり「押領(おうりょう)」したりする動き、検断権を梃子に百姓から科料銭(かりょうせん)を取り立て、あるいはその妻子を召し捕り下人にしてしまう動き、などがおもなものであった。名主・小百姓層もこうした地頭の行為を新儀非法(しんぎひほう)として領主へ申状(もうしじょう)で訴えたり、さらに逃散(ちょうさん)などによって抵抗し、荘園領主側の荘官である雑掌(ざっしょう)などは、地頭非法をしばしば幕府に訴えた。幕府も職の枠を超えた地頭の行為に対しては一貫してこれを抑制する方針で臨んだが、地頭の領主化を抑えることはほとんど困難であった。地頭は公然たる非法といった形でなくとも、荘園領主側が実施しようとする検注を拒否して、多くの隠田(おんでん)を支配し、場合によっては新田は地頭の進止という主張を公然と認めさせた。また田地の裏作につくる麦に対して地頭が麦年貢を賦課したり、山野河海所出物(さんやかかいしょしゅつぶつ)とよぶ農地以外の土地生産物ないし収穫物に対しても追求の圧力を強めていった。そのような各種の動きによって荘園領主側の支配が事実上麻痺(まひ)状態に置かれると、領主側はやむなく、法的にも譲歩を与えて、それ以上の地頭の侵略的行為を食い止めようとした。その方式もさまざまあったが、領主側が幕府法廷に訴え、法廷において領主と地頭との間の和与(わよ)すなわち和解関係を確定するのが一つであった。また下地中分(したじちゅうぶん)といって、荘園の土地を半々とか2対1といった形で分割してしまう方式もあった。下地中分は、荘地を分割して地頭一円地として引き渡すことになるからその打撃は大きいが、鎌倉後期になると、それでも残り部分が地頭を排除した形で確保できればよいとされ、中分は荘園領主側から求められた。

 このような地頭の非法は、承久以後の新補地頭が西国の任地に一族をあげて移住したり、代官を送り込んで、新たに領主権を拡大してゆこうとする場合とくに激しかった。また中央領主の拠点である畿内(きない)やその周辺地帯では、荘園領主側の抵抗も激しかったため、地頭は在地土豪層とも結んでしばしば武力行動に乗り出し、荘官を追い出すなどのこともまれでなくなった。荘園領主側はこれを悪党とよんで恐れ、幕府にその鎮圧を要求した。このように多様な契機を通して地頭の領主化は、鎌倉中期以降急速に進展してゆくのであるが、この間、幕府ももっぱら地頭非法の抑止だけに力を入れていたわけではなく、とくに蒙古(もうこ)襲来を契機に、従来地頭が設置されていなかった寺社本所一円地にも兵糧や兵員の賦課を行い、守護が国衙に結び付いていた在地豪族を被官化するなどの形で、荘園制に対する全体的圧迫を強めたから、その動揺は避けられないものとなった。

[永原慶二]

荘園制の解体

()()()退

 ()()()()

 ()135271()3811368231()()()

 ()()


荘園の消滅

このような荘園制の解体の動きは、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~1477)を経て戦国時代に進むとともに最終局面を迎えた。戦国大名の権力は国人領主の地域連合的な性質をもっており、その初期においてはまだ国人の荘園請負関係が基盤に存在することもあり、初めから荘園制を全面的に清算した存在とはいえなかった。しかし、戦国大名は結集した国人領主をしだいに強固な家臣団に組織し、領域支配権力を固めるにつれて、逐次検地を行い、「守護使不入」という形で大名権力を排除していた寺社領などに対しても上位権力としての立場を確立していった。また畿内やその周辺で中央貴族の荘園得分をある程度保障する場合も、新たに大名がそれを安堵(あんど)するという形をとったから、もはや荘園は国家的職秩序のもとで独自に存続しているのでなく、領国大名によって個々に保障されつつ残存しているだけになった。

 豊臣(とよとみ)秀吉の統一に伴う太閤検地は、そのような残存物をも最終的に一掃するものであった。大和(やまと)一国に支配的実力をもち多数の荘園を保有した興福寺でさえ、一定の石高(こくだか)を寺領として与えられただけで、ほかはすべて否定し去られた。太閤検地は、全国の検地実施権、石高知行の宛行(あておこない)権を秀吉が集中行使することを意味しており、それによって荘園制は原理的に消滅するとともに、荘という地名表示さえも抹消されることになったのである。

[永原慶二]

『ドプシュ著、野崎直治・石川操・中村宏訳『ヨーロッパ文化発展の経済的社会的基礎』(1980・創文社)』『マルク・ブロック著、飯沼二郎・河野健二訳『フランス農村史の基本性格』(1959・創文社)』『Ph. DollingerEvolution des classes rurales en Bavière (1949, Société d'édition : Les Belles Lettres, Paris)』『橡川一朗著『西欧封建社会の比較史的研究』増補改訂版(1984・青木書店)』『草野靖著「大土地所有と佃戸制の展開」(『岩波講座 世界歴史9』所収・1970・岩波書店)』『周藤吉之著『中国土地制度史研究』(1954・東京大学出版会)』『宇都宮清吉著『僮約研究』(『漢代社会経済史研究』所収・1955・弘文堂)』『村松祐次著『近代江南の租桟――中国地主制度の研究』(1972・東京大学出版会)』『渡辺澄夫著『畿内庄園の基礎構造』(1956・吉川弘文館)』『佐々木銀弥著『荘園の商業』(1964・吉川弘文館)』『阿部猛著『中世日本荘園史の研究』(1966・新生社)』『稲垣泰彦編『荘園の世界』(1973・東京大学出版会)』『竹内理三編『土地制度史1』(1973・山川出版社)』『永原慶二著『荘園』(1978・評論社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「荘園」の意味・わかりやすい解説

荘園(日本)【しょうえん】

 
816 723()743()7499()()()使()89()()調()()() 910()使()902()()1112()()()()()()()1156()() ()()()()()()()()()︿()調()()()351()()()()使()13 ()13()()14()()()()()151415()()()()1516()()() 16()()
使  
 

(西)

 
manorGrundherrschaftseigneurieVillikation1213
 

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「荘園」の解説

荘園(しょうえん)


ManorGrundherrschaft79()()()西()()()西1213()使()(()使)(())()()141516()

()()()()()()

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荘園」の意味・わかりやすい解説

荘園
しょうえん
manor

 
 (1)  ()  ()  (2) 816 ( ) 1012 () 12 (3)  manor seigneurie Grundherrsschaft ()  () 11 ()  () 141516  

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「荘園」の解説

荘園
しょうえん

8世紀から16世紀にかけて存在した私的所有地
大化の改新により公地公民が原則とされたにもかかわらず,律令制の中にも土地・人民の私的支配は残っていた。そこに土地私有制が復活する誘因が存在したが,荘園発生の直接的契機となったのは743年の墾田永年私財法の発布である。これ以後貴族や寺社は墾田の開発を進め,自墾地系荘園を開いた。都やその近辺に住む荘園領主が現地に設けた事務所が荘である。初期荘園は国家の租税を納むべき土地を含んでいるのがふつうであったため,荘園領主は9世紀以後不輸・不入の特権を得る努力を進めていった。しかし地方豪族には不輸・不入権の獲得が難しかったので,彼らは中央の貴族や寺社に名義上の土地所有権を移して国司などの侵入を防ぐことを考えた。すなわち権門勢家を本家・領家として一定の年貢をさし出し,みずからは荘官となって実際の土地支配権を確保したのである。これが寄進地系荘園である。荘園が広まる中で,902年醍醐 (だいご) 天皇による延喜の荘園整理令以降数回にわたって荘園整理令が出されたが,かえって摂関家に荘園を集中させることになった。1069年後三条天皇による延久の整理令における記録荘園券契所での整理はかなりの効果をあげたようであるが,その結果天皇・院が有力な荘園領主となってしまった。鎌倉中期以降,地頭請や下地中分によって地頭が盛んに荘園を侵略し,室町時代になると守護請や半済によって守護大名が一円知行を進めていった。加えて,13世紀以降に顕著となる商品経済の発達は,荘園の封鎖的経済を内部から動揺させることとなった。こうして得分収取機構として存在していた荘園は,戦国大名による一円領地化の動きとともに,地域的な村・郷の単位に編成されて(郷村制),その内部から崩壊し,豊臣秀吉の太閤検地によって完全に消滅した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「荘園」の解説

荘園
しょうえん
西洋】manor (イギリス)  Grundherrschaft (ドイツ)

 


退891213
 

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「荘園」の解説

荘園
しょうえん

古代~中世に荘とよばれた領地のこと。史料上は「庄」の字が用いられた。古代では,743年(天平15)の墾田永年私財法にもとづいて東大寺などの中央官寺が集積した墾田をいい,10世紀以降の公田官物などを免除された田,院政期に成立する領域型荘園も荘園とよばれてきた。荘園の成立契機から,古代の墾田ないしはその系譜をひく荘園を墾田地系荘園といい,寄進を契機とする荘園を寄進地系荘園とよんで区別する。これに対して土地制度論の立場からは,古代の墾田を初期荘園,10世紀以降の官物などを免除された田を免田系荘園,領域型荘園を寄進型荘園(寄進地系荘園)とするなどの区別もなされている。また歴史教育の立場からは,それぞれ初期荘園,免田・寄人(よりうど)型荘園,領域型荘園と区別する見方もある。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

防府市歴史用語集 「荘園」の解説

荘園

 743年の墾田永年私財法[こんでんえいねんしざいほう]にはじまる貴族や寺社の私有地です。税を払わなくていいなどの特権をつけられた荘園もありましたが、地頭[じとう]の設置によって、次第に力を失っていきます。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

普及版 字通 「荘園」の読み・字形・画数・意味

【荘園】そうえん

別荘。

字通「荘」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

世界大百科事典(旧版)内の荘園の言及

【魏晋南北朝時代】より

…郷里制社会の解体に伴って大土地所有が発達し,一方に奴婢・佃客が生み出された。この双方が結びついて豪族の荘園経営が行われた。当時の大土地経営は,商品生産を主目的とするものでなく,全体として自給生産のためのものであった。…

【国衙領】より

…中世において,荘園とならず諸国の国衙が支配した公領。国領とも称した。…

【寺社領】より

…寺院,神社の維持運営のために設置された所領。古代においては国家から給付される封戸(ふこ)を中心に,8世紀中ごろからの墾田開発によって出現する初期荘園が寺院経済の基盤であったが,9世紀~10世紀にかけて初期荘園の多くは没落し,封戸からの収入も11世紀後半までにはとだえてしまう。以上の事態に対処するため,中央の有力な寺院は支配組織を再編し,国家に頼らない自立した経営を目ざして,新たなる中世的な寺領の獲得をはかる。…

【守護領国制】より


()3退退

【荘務】より


1217(5)

【東国】より


 西西

【不輸不入】より

荘園等に対する国家権力の介入を排除する特権。不輸は不輸租(ふゆそ)に由来し,租以下の税を国家に貢納する必要のないことであり,不入は検田使以下の国衙使の立入りを拒否することのできる特権である。…

【マナー】より

…中世イングランドの領主の所領。ドイツの〈グルントヘルシャフト〉,フランスの〈セニュリseigneurie〉とともに〈荘園〉の訳語をあてることがある。典型的なマナーは領主直営地と農民保有地から成り,また農民の社会的集団の単位である村落共同体をその基礎としている。…

【御厨】より


調調8

【寄人】より

…幕府関係の寄人は,問注所寄人が問注所公人(くにん)とも呼ばれたように,公人とも呼ばれた。(2)平安中・後期の荘園における農民の一つの存在形態を示す呼称で,一般的には,自分が耕作している土地の領主(公領を含めて)と異なる領主に人身を隷属させているという,二元的な性格をもった農民をいう。しかし,このような性格の寄人が現れるのは11世紀以後のことで,10世紀の寄人は,その初見である951年(天暦5)の太政官符案にみえる醍醐寺領伊勢国曾禰荘の場合も含めて,公民が臨時雑役の免除という特権を得て特定の荘園の荘民化したことを示している例がほとんどである。…

【領主制】より


9(Villikation)1000ha

※「荘園」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

タコノキ


12m7cm()...


コトバンク for iPhone

コトバンク for Android