対馬藩(読み)つしまはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「対馬藩」の意味・わかりやすい解説

対馬藩
つしまはん


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改訂新版 世界大百科事典 「対馬藩」の意味・わかりやすい解説

対馬藩 (つしまはん)


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藩名・旧国名がわかる事典 「対馬藩」の解説

つしまはん【対馬藩】

 
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百科事典マイペディア 「対馬藩」の意味・わかりやすい解説

対馬藩【つしまはん】

 
()貿10貿使
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「対馬藩」の意味・わかりやすい解説

対馬藩
つしまはん

府中藩ともいう。江戸時代,対馬国 (長崎県) を領有した藩。のち厳原 (いづはら) 藩。藩主は代々宗 (そう) 氏。宗氏は鎌倉,室町時代以来の豪族で,天正年間 (1573~92) の義智が藩祖。義智は,豊臣秀吉の文禄・慶長の役の先頭を承って活躍し,さらに江戸幕府成立後は朝鮮王光海君との間に己酉 (きゆう) 条約を締結し,日鮮国交回復に功があった。その結果,宗氏は中世以来もち続けた朝鮮貿易の特権を得た。最初は1万石であったが,慶長 10 (1605) 年に 2800石を加増され,さらに同 12年には 10万石の格式が与えられた。藩政で注目されるのは元和3 (17) 年に起った「柳川一件」である。朝鮮外交の中心となった家臣の柳川調興と2代藩主義成が対立した事件で,この事件が解決して藩政は安定した。その後,文化 14 (1817) 年 13代義質のとき2万石を加増され,16代重正のとき5万 2000石となり,版籍奉還後厳原藩と改称して廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「対馬藩」の解説

対馬藩

対馬国、府中(現:長崎県対馬市厳原(いづはら)町)を拠点に、対馬国と肥前国の一部を領有した外様藩。中世以来の守護大名、宗(そう)氏が近世大名に転化し、明治の廃藩置県まで当地を治めた。藩の財政は主に朝鮮貿易に依存していた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「対馬藩」の解説

対馬藩
つしまはん

府中藩(ふちゅうはん)

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世界大百科事典(旧版)内の対馬藩の言及

【異域・異国】より


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【勧農】より

…桑,楮(こうぞ),藍,紅花,サトウキビなどの加工原料作物の栽培を奨励し,農家副業としての農産加工業を興隆させ,流通過程を領主の直接的な掌握下に,あるいは領主財政と深い関係をもつ商人の掌握下に置き,農業生産の発展の成果を流通過程を通して領主が吸い上げる。後進地の対馬藩では,18世紀初頭のころ,焼畑農業から普通畑への移行を目的にした農業振興策が採用され,甘藷の導入,野猪の被害対策などが実施されているが,これは極端な低生産力地帯の特例である。【葉山 禎作】
[近代]
 明治維新後,勧農は政府の殖産興業政策の一環として推進されたが,農業奨励の政策(勧農政策)と,そのもとでおこなわれた諸事業(勧農事業)がある。…

【朝鮮通信使】より

…また,日本の儒者などの知識人は使節の一行との交歓によって新知識を得,人民は珍しい異国の文物に接するなど文化的影響も大きかった。 通信使は,幕府の命をうけた対馬藩の要請によって,派遣が決定された。一行は,正使・副使・従事官の三使官と随員から成り,正使は文官の堂上官で吏曹参議の格が与えられ,随員にも才幹優れた者が選ばれた。…

【日朝貿易】より

…朝鮮商人と,対馬の役人や商人との相対取引であるが,品目・数量の制約がなく,また兼帯の制成立後,貨物輸送が合理的になったため,しだいに取引量が増加していった。そこで対馬藩では,私貿易経営に重点をおき,1683年(天和3)専任担当官として元方役(もとかたやく)10名を組織し,利潤の向上につとめた。貿易内容は,封進・公貿易が銅,スズ,コショウ,ミョウバン,蘇木,水牛角を定品として輸出していたのに対し,私貿易は,隆盛するにしたがって大量の銀が輸出され,代りに中国産の生糸(白糸),絹織物,チョウセンニンジンが輸入されるようになった。…

【人参座】より

…薬用人参は18世紀半ばまでは輸入がほとんどで,朝鮮人参と唐人参があった。朝鮮人参は対馬藩が独占的に輸入販売し,江戸屋敷での屋敷売りのほか,1673年(延宝1)人参座を設け座売りもした。18世紀以後の輸入不振によりやがて廃止。…

【肥前国】より

…32年に藩主鍋島宗茂は対策が不適切として幕府から塞(ひつそく)の処分を受けた。一方,対馬藩田代領では,32年の死亡者312人であり,1717年の田代領人口は1万2031人なので,飢饉の年の死亡者はそれほど多くない。田代領では富農富商による救済金の拠出とそれを基にした買米の実施,対馬からの運送などの対策がとられた。…

【府中】より

…宗氏が府中を本拠としてからは戦国大名の城下町として発展,文禄・慶長の役には清水山城が築かれた。近世には対馬藩の藩庁所在地で,1659年(万治2)の大火後,新規に町割りがされ,家臣団の城下町集住の強制に伴い武家屋敷も整備され,近世城下町の形態を整えた。近世対馬の政治,経済,文化の中心として,また朝鮮通信使など外交の舞台として機能し,その遺跡,遺物も多い。…

【ロシア軍艦対馬占領事件】より

…1861年(文久1)2月ロシア軍艦ポサドニック号が船体修理を理由に対馬浅茅(あそう)湾の尾崎に停泊,付近を測量し,3月芋崎に永住施設を建設して居座った。対馬藩の抗議に対し艦長ビリリョフは芋崎付近の租借権を強請,藩民との紛争も絶えなかった。幕府は5月外国奉行小栗忠順(ただまさ)を派遣したが効果なく,6月藩は幕府に移封願を提出した。…

※「対馬藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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