デジタル大辞泉
「戒壇」の意味・読み・例文・類語
かい‐だん【戒壇】
戒律を授ける儀式を行うために設けた特定の壇。
[類語]祭壇・仏壇・仏間
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かい‐だん【戒壇】
(一)〘 名詞 〙 仏語。僧侶に戒を授ける儀式を行なうために設けた壇。石または土で築く。日本では、孝謙天皇の天平勝宝六年︵七五四︶四月、東大寺大仏殿前に設けたのが最初。
戒壇︿奈良県唐招提寺﹀
(二)[初出の実例]﹁其年四月、初於盧舎那仏殿前、立戒壇、天皇初登壇、受
戒﹂(出典‥観智院本唐大和上東征伝︵779︶)
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戒壇 (かいだん)
戒律を授受する式場をいう。戒律の授受には,もと清らかな場所を選び,結界をして行ったが,のち土,石,磚︵かわら︶などを用いて三重の壇を築き式場とした。インドの祇園精舎,ナーランダー寺の戒壇の制が中国に伝えられたともいうが,明らかでない。中国では唐代に南山律宗の大成者道宣が,長安郊外の浄業寺で戒壇を設立したが,その際に︽関中創立戒壇図経︾を著して,戒壇の形式を明らかにした。その形状は三重の壇になり,下壇は方29.8尺で高さ9尺,中壇は方23尺で高さ4.5尺,上壇は方7尺で高さ2寸,上壇には仏舎利を納めた宝塔を安置すると規制している。しかし道宣のこの戒壇の形式も中国古来の祭儀の社壇とか天壇などの制を参考にして考案されたものである。日本では,754年︵天平勝宝6︶4月に東大寺大仏殿前に,唐僧鑑真一行によって,仮設の戒壇が造築され,聖武上皇・光明皇太后など400余人が登壇受戒したのが初例で,翌年10月に大仏殿の西方に常設の戒壇を中心とする院が設けられた。761年︵天平宝字5︶に下野国の薬師寺と筑前国の観世音寺に戒壇が創建され,︿天下の三戒壇﹀といわれた。平安時代に至って,最澄は比叡山延暦寺に大乗戒壇の建立を企て,僧綱との間に論争が展開され,没後7日の822年︵弘仁13︶6月に勅許された。三戒壇にこれを加えて四戒壇と呼ばれる。のちに延暦寺の束縛を脱しようとした園城寺︵三井寺︶は,独自の戒壇を創建しようとして,1041年︵長久2︶に勅許を求めたが,ひとり延暦寺の反対で実現しなかった。その動きは14世紀に至るまで繰り返されたが,実現されなかった。鎌倉時代には戒律の復興とともに唐招提寺に戒壇が設けられ,南北朝時代には,鎮興寺,宝戒寺,等妙寺,薬師寺に遠国四戒壇が,延暦寺の戒壇より分置されたが,戦国時代の兵火で焼亡した。今日東大寺,観世音寺,延暦寺と唐招提寺の戒壇は,幾多の変遷を経て伝わっている。
→受戒
執筆者‥堀池 春峰
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戒壇
かいだん
仏教で戒を授ける儀式の場所。戒場ともいう。授戒の場所であるが、戒壇と訳されたために、中国や日本では1段ないし3段の壇を築くようになった。広さに決まりはないが、3~5メートル四方ぐらいで、高さは1段で約70センチメートル、3段で約2.5メートル。中国では、セイロン僧求那跋摩(ぐなばつま)により431年ごろ南林寺に初めて戒壇がつくられ、のち各地に広まった。6世紀には梁(りょう)の武帝が宮中に戒壇を築き、自ら受戒して以来、この風習ができた。日本では、鑑真(がんじん)が唐から来日し、754年︵天平勝宝6︶東大寺の大仏殿の前に壇を築いたのが最初で、聖武(しょうむ)天皇︵上皇︶はじめ400余人が鑑真から菩薩(ぼさつ)戒を受けた。
僧になるには、この壇上で10人の僧の行う儀式により具足戒を受けるが、これは禁欲その他の僧の戒律︵二百五十戒︶を守ることを誓う儀式である。菩薩戒は菩薩道の修行をしようと誓う儀式であり、﹃梵網(ぼんもう)経﹄に説く﹁十重・四十八軽戒﹂を受ける。これは俗人も僧もともに受けることができる。
のち大仏殿前の壇は西に移され、3段の戒壇をつくり、そこに戒壇院が建てられた。そして僧となるには、かならず戒壇で受戒しなければならないとする規則ができ、遠方の人のために、下野(しもつけ)国︵栃木県︶の薬師寺と筑紫(つくし)国︵福岡県︶の観世音寺(かんぜおんじ)にそれぞれ1段の戒壇がつくられた。これを天下の三戒壇という。のち最澄(さいちょう)は比叡山(ひえいざん)に大乗の修行を誓う大乗戒のための戒壇をつくろうとして、勅許を得ようとしたが、その生前には許されず、死後の822年︵弘仁13︶に許された。これが比叡山の大乗戒壇であり、梵網戒を授ける。
﹇平川 彰﹈
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戒壇【かいだん】
出家を志す者に戒を授けるために戒場内に設けられた土の壇。日本では754年鑑真(がんじん)が東大寺に設置。下野(しもつけ)薬師寺,筑紫観世音寺と合わせ三戒壇と称した。822年円頓(えんどん)戒を創唱した比叡山に大乗戒壇が,のち園城寺には三摩耶(さんまや)戒壇が設置された。
→関連項目下野薬師寺跡
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戒壇
かいだん
仏教僧に戒を授ける式場。戒を授けるために壇を築くから戒壇という。インドでは釈尊の在世時代に祇園精舎に造られたといわれ,中国では 249年から 255年頃に洛陽に建立されたのが始りといわれるが,律宗を盛んにした道宣のときに流行した。日本では唐僧鑑真の来朝のとき,天平勝宝6 (754) 年東大寺大仏殿前に戒壇を建立して菩薩戒を授けたのが最初。次いで唐招提寺にも築いた。下野の薬師寺,筑紫の観世音寺にも建てられ,これらは,東大寺の戒壇とともに本朝の三戒壇と呼ばれた。その後平安時代に最澄が大乗戒を唱え,比叡山に円頓戒壇を設立した。しかし,延暦寺と三井寺との間に争論が生じたので,三井寺の僧侶のために新たに三摩耶 (さんまや) 戒壇を建立した。日本の戒壇は三重で,壇上には多宝塔を安置している。
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戒壇
かいだん
戒律を授けるための壇。受戒の式場のこと。インドに始まり,中国では3世紀半ば頃に洛陽に造られたと伝える。日本では,来訪した鑑真(がんじん)が754年(天平勝宝6)東大寺大仏殿前に築き,400人に菩薩戒を授けたのが最初。翌年常設の戒壇(戒壇院)を建立し,761年(天平宝字5)には下野国薬師寺,筑前国観世音寺にも設置,三戒壇とよばれた。平安初期には最澄が比叡山に大乗戒壇の設立を申請,没後の822年(弘仁13)勅許を得た。のち天台宗は山門と寺門の両派に分裂,寺門派は園城(おんじょう)寺に戒壇創設をはかるが,山門派の反対によって実現しなかった。東大寺戒壇院は三重の高壇を築き,中央に釈迦・多宝2仏を安置する多宝塔をおく。
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戒壇
かいだん
754年に鑑真 (がんじん) が東大寺大仏殿前に戒壇をつくり,761年に下野 (しもつけ) 薬師寺・筑紫観世音寺にもつくられた。これらを﹁天下の三戒壇﹂といい,正式の僧侶になるには,このいずれかで受戒しなければならなかった。平安時代に入ると,これらの小乗戒壇とは別に,最澄が比叡山に大乗戒壇の創設を求め,死後勅許された。
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普及版 字通
「戒壇」の読み・字形・画数・意味
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世界大百科事典(旧版)内の戒壇の言及
【鑑真】より
…この間,日本では前後12年,6回目の航海で渡来した鑑真に対する信望と帰依は異常なほどで,高官・高僧らは自身あるいは使者を送って労をねぎらい,勅使吉備真備も︿自今以後,授戒伝律はもはら大和尚にまかす﹀という孝謙天皇の意向を伝えた。4月には大仏殿前に臨設の戒壇を築き,聖武上皇などに菩薩戒を授け,その後大仏殿西方に戒壇院を設立し,登壇授戒の制が整った。756年に大僧都に任ぜられ,仏教界を統べる僧綱の重職にあったが,彼の身をいとった孝謙天皇は僧綱を解き,鑑真は故新田部親王の旧宅地に[唐招提寺]を建立した。…
【受戒】より
…受戒は結界をめぐらし,その中で行われたが,後には壇を築き,その上で行われるようになった。これが︿[戒壇]︵かいだん︶﹀である。在家の戒の場合には,初めに仏・法・僧の三宝に帰依する三帰文を唱え,次いで五戒を一つずつ和上に従って復唱するだけでよく,和上も1人だけでよい。…
※「戒壇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」