文化闘争(読み)ブンカトウソウ(英語表記)Kulturkampf

翻訳|Kulturkampf

デジタル大辞泉 「文化闘争」の意味・読み・例文・類語

ぶんか‐とうそう〔ブンクワトウサウ〕【文化闘争】

 
1︿Kulturkampf
2   

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精選版 日本国語大辞典 「文化闘争」の意味・読み・例文・類語

ぶんか‐とうそうブンクヮトウサウ【文化闘争】

  1. 〘 名詞 〙
  2. ( [ドイツ語] Kulturkampf の訳語 ) 普仏戦争後のドイツ帝国で、ビスマルクが行なったカトリック教徒抑圧政策。新教団プロイセンによるドイツ統一に不満をもったカトリック系の西南ドイツ諸邦が中央党に結集したため、これを弾圧しようとしたもの。
  3. 階級闘争の文化的な側面。

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改訂新版 世界大百科事典 「文化闘争」の意味・わかりやすい解説

文化闘争 (ぶんかとうそう)
Kulturkampf


使︿1871717273

 7680460011007318787087

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文化闘争」の意味・わかりやすい解説

文化闘争
ぶんかとうそう
Kulturkampf

 
 1870187173 () 7813  

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「文化闘争」の解説

文化闘争(ぶんかとうそう)
Kulturkampf


187180717374貿9(78)80

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百科事典マイペディア 「文化闘争」の意味・わかりやすい解説

文化闘争【ぶんかとうそう】

 
1870Kulturkampf1870西187118731874187891880  

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文化闘争」の意味・わかりやすい解説

文化闘争
ぶんかとうそう
Kulturkampf ドイツ語

1870年代、ドイツのビスマルクが国内のカトリック教徒に対し行った弾圧政策。71年に成立したドイツ帝国に対し、国内の少数派カトリック教徒とその政党、中央党が敵意を抱いていた。帝国の強化を目ざすビスマルクはこれへの弾圧に乗り出し、71年、聖職者の政治活動を禁ずる「教壇条項」、73年「ジェスイット法」、73、74年「5月法」を発布。カトリック教会の教育や市民生活に対する影響を除き、教会を国家の統制下に置こうと試みた。しかしカトリック教徒はこれに抵抗、中央党も74年以降の選挙で躍進を続けたので、ビスマルクは弾圧政策を打ち切り、78年から和解交渉を進め、80年代に関係法令の多くを廃止した。

[木谷 勤]

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旺文社世界史事典 三訂版 「文化闘争」の解説

文化闘争
ぶんかとうそう
Kulturkampf

1871〜80年代に行われた,ドイツ帝国宰相ビスマルクのカトリック抑圧策
カトリックの多い南西ドイツは,新教国プロイセンによる統一と中央集権に反対し,中央党を組織して地方分立を唱え,政府と抗争。ビスマルクは一連の立法措置で弾圧したが失敗。分裂の危機や保護貿易政策への転換,特に社会主義運動抑圧の必要から妥協し,以後政府は中央党の支持を得た。

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世界大百科事典(旧版)内の文化闘争の言及

【ドイツ帝国】より




 187177

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