デジタル大辞泉
「文化闘争」の意味・読み・例文・類語
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ぶんか‐とうそうブンクヮトウサウ【文化闘争】
- 〘 名詞 〙
- ① ( [ドイツ語] Kulturkampf の訳語 ) 普仏戦争後のドイツ帝国で、ビスマルクが行なったカトリック教徒抑圧政策。新教団プロイセンによるドイツ統一に不満をもったカトリック系の西南ドイツ諸邦が中央党に結集したため、これを弾圧しようとしたもの。
- ② 階級闘争の文化的な側面。
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文化闘争 (ぶんかとうそう)
Kulturkampf
ドイツ統一後,帝国宰相ビスマルクが行ったカトリック弾圧政策と,その結果生じた政府・カトリック間の争い。文化闘争の呼称は,フィルヒョーが使用した用語,︿文化に対する闘争﹀に由来する。ビスマルクは,カトリックを媒介とするフランス,オーストリアの提携,またそれに呼応した国内のカトリックによる反政府活動を恐れてこの弾圧政策を強行した。とくにその際1871年に中央党が結成されたことは,カトリック政治勢力の新たな結集とみなされ重要な動機となった。主要な弾圧立法をあげれば,71年の帝国刑法改正による教会内の言論統制をはじめとし,72年のプロイセン学校管理法による教会の教育活動抑圧,同年のイエズス会法による伝道布教活動の規制,また73年に始まる一連の五月法による聖職者の養成と任免への介入等がある。
これら諸法の執行によって76年までにプロイセンではすべてのカトリック司教が逮捕ないし外国逃亡を余儀なくされ,80年には4600のカトリック司祭職のうち1100が同じ理由で空席となった。弾圧に対するカトリック側の抵抗は教会と政党を主軸として展開され,聖職者の不服従や反政府言論出版活動とともに中央党の巧妙な議会活動が抵抗の核心をなした。73年のプロイセン下院選挙と翌年の国会選挙で中央党が躍進したことは,カトリック側の反撃の強さを示している。この間ベルリン会議︵1878︶に象徴される国際情勢の変化と,社会主義政党の台頭に象徴される国内政治状況の変化によってビスマルクは政策転換を決意し,70年代末からカトリックとの和解を求めた。この段階でカトリック側には,文化闘争以前の原状回復を主張する中央党と,それを和解の絶対条件とはみなさぬ教皇との間に激しい対立が生じた。しかし中央党の主張はビスマルクと教皇双方から黙殺され,もっぱら両者の間で進められた交渉の結果,五月法廃止を条件に87年和解が成立した。五月法以外の諸法はこの後も残存し,結局ビスマルクは文化闘争によってカトリック教会に対する統制を強化することに成功した。
執筆者‥室 潔
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文化闘争
ぶんかとうそう
Kulturkampf
ドイツ史上の概念。 1870年代のビスマルクによるカトリック教会に対する政治闘争。ビスマルクは国家統制の必要から反プロシア的なカトリック教会に対する攻撃を行なった。具体的には,教会の学校に対する監督権の排除と国家によるそれの管掌,1871年の教壇条例による牧師の反政府宣伝の禁止,73年の五月法による牧師の任免権の国家による管掌,さらに出生,死亡,結婚など戸籍事務の国家への移譲,不従順な牧師の追放などである。この政策に対するカトリック側による反撃も強く,それは中央党 (カトリック政党) の議席増加となって現れた。ビスマルクは,自己の予想に反して,この文化闘争が大きくなったこと,その他の事情を考慮して,78年の新教皇レオ13世の即位を契機に,これに終止符を打った。しかし,この闘争によってドイツのカトリック勢力は大きな打撃をこうむった。
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文化闘争(ぶんかとうそう)
Kulturkampf
1871~80年,反プロイセン的なカトリック教会を国家的に統制するため,ビスマルクが行った対教会政治闘争,教会弾圧。71年の﹁教壇条項﹂に始まり,73年,74年の﹁五月諸法﹂で頂点に達す。しかしカトリック教徒は屈服せず,その政党である中央党の勢力は増大,他方ビスマルクも社会民主党対策,また自由貿易政策から保護関税政策への政策転換のために中央党の支持を必要とし,反ビスマルクの教皇ピウス9世の死去(78年)を機として妥協,80年大部分の関係法令を廃して闘争は終わる。﹁文化闘争﹂とは非開化主義に対する闘争の意。
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文化闘争【ぶんかとうそう】
1870年にドイツ宰相ビスマルクの行った旧教徒抑圧政策。Kulturkampfという。1870年新教国プロイセンを中心とするドイツ統一が実現したが,旧教徒勢力の強い西南ドイツ諸邦はこれを不満とし,1871年中央党を組織して中央政府と対立。ビスマルクは同年の教壇条項をはじめとし1873年―1874年には五月法と呼ばれる一連の政教分離法令を公布したが,中央党の抵抗で効果は上がらなかった。1878年旧教徒の指導者たる教皇ピウス9世の死後両者の妥協が成り,1880年大半の関係法令が廃されて抗争は終わった。
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文化闘争
ぶんかとうそう
Kulturkampf ドイツ語
1870年代、ドイツのビスマルクが国内のカトリック教徒に対し行った弾圧政策。71年に成立したドイツ帝国に対し、国内の少数派カトリック教徒とその政党、中央党が敵意を抱いていた。帝国の強化を目ざすビスマルクはこれへの弾圧に乗り出し、71年、聖職者の政治活動を禁ずる「教壇条項」、73年「ジェスイット法」、73、74年「5月法」を発布。カトリック教会の教育や市民生活に対する影響を除き、教会を国家の統制下に置こうと試みた。しかしカトリック教徒はこれに抵抗、中央党も74年以降の選挙で躍進を続けたので、ビスマルクは弾圧政策を打ち切り、78年から和解交渉を進め、80年代に関係法令の多くを廃止した。
[木谷 勤]
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文化闘争
ぶんかとうそう
Kulturkampf
1871〜80年代に行われた,ドイツ帝国宰相ビスマルクのカトリック抑圧策
カトリックの多い南西ドイツは,新教国プロイセンによる統一と中央集権に反対し,中央党を組織して地方分立を唱え,政府と抗争。ビスマルクは一連の立法措置で弾圧したが失敗。分裂の危機や保護貿易政策への転換,特に社会主義運動抑圧の必要から妥協し,以後政府は中央党の支持を得た。
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世界大百科事典(旧版)内の文化闘争の言及
【ドイツ帝国】より
…
﹇ビスマルク時代﹈
このような支配体制の上にドイツ帝国の政治は幾度か流れを変えた。1871‐77年はビスマルクの自由主義との蜜月時代で,政府は帝国議会と協力して国家建設のため種々の改革に取り組む一方,反プロイセンのカトリック教徒に対する[文化闘争]を強行した。しかしカトリック教徒とその政党,[中央党]の抵抗は続き,文化闘争は失敗に終わった。…
※「文化闘争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」