ビスマルク(読み)びすまるく(英語表記)Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck

デジタル大辞泉 「ビスマルク」の意味・読み・例文・類語

ビスマルク(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck)

 
18151898()()()()187118902  

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精選版 日本国語大辞典 「ビスマルク」の意味・読み・例文・類語

ビスマルク

 

(一)( Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck ==== ) 使
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビスマルク」の意味・わかりやすい解説

ビスマルク
びすまるく
Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck
(1815―1898)

ドイツの政治家。ドイツの政治的統一、帝国建設に功績があった。

[木谷 勤]

保守政治家


41183618391847184818511859使1862使

 

鉄血宰相


186291()18641866187018711871

 便()

 187018781879

 

外交


()1882188618861880218903

 退21894

 

1977

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百科事典マイペディア 「ビスマルク」の意味・わかりやすい解説

ビスマルク

 
1848使使1862187120187818902
1  

ビスマルク[諸島]【ビスマルク】

ビズマーク[諸島]

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改訂新版 世界大百科事典 「ビスマルク」の意味・わかりやすい解説

ビスマルク
Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck
生没年:1815-98


1848使使使62︿1866711871-90

 20貿78-79︿

 ︿︿90

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ビスマルク」の意味・わかりやすい解説

ビスマルク
Bismarck-Schönhausen, Otto Eduard Leopold, Fürst von

 
[]1815.4.1. 
[]1898.7.30. 
18364748使使62966707171319722903 Gedanken und Erinnerungen (318981919)   

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ビスマルク」の解説

ビスマルク
Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen


181598

使使使18621(187190)290

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旺文社世界史事典 三訂版 「ビスマルク」の解説

ビスマルク
Otto Fürst von Bismarck(Schönhausen)

 
181598

1862186466 () 187071 () 118777821890  

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デジタル大辞泉プラス 「ビスマルク」の解説

ビスマルク〔戦艦〕

《Bismarck》ドイツ海軍の戦艦。ビスマルク級のネームシップ。1939年進水、1940年就役の超弩級戦艦。艦名は、鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクに由来する。排水量4万2000トン、全長251メートルで、当時の欧州最大の戦艦。1941年、通商破壊作戦(ライン演習作戦)に参加。イギリスの巡洋戦艦フッドを撃沈、戦艦プリンス・オブ・ウェールズを損傷させる戦果を挙げたが、その後、イギリス海軍の執拗な追撃にあい、ブレスト西方沖で戦没した。

ビスマルク〔ロボット〕

日本のテレビアニメ『星銃士ビスマルク』(1984-1985)に登場する宇宙戦闘母艦。全高50メートル。操縦者は輝(ひかり)進児。バトロード・フォーメーションで人型ロボットに変形する。

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世界大百科事典(旧版)内のビスマルクの言及

【グレート・デーン[種]】より

…狩猟が行われなくなって以来,頑強で巨大な体軀(たいく)を残し,温和で柔順な性格に育種改良された。ドイツの宰相ビスマルクがこのイヌを護身犬としてひざもとにおいた話は有名。また狭いアパートの部屋でも容易に飼いうる唯一の巨大犬であるといわれる。…

【国有鉄道】より

…その理由の一つは,ドイツに代表される潮流で,中央集権の確立と国防力強化の手段として鉄道を国有化したことである。1879年ビスマルクはプロイセンの鉄道を国有化し,1918年のワイマール共和国成立で国有化が完了した。現在のドイツの連邦鉄道は国の行政機関の一部であるが,ある程度の自主性を与えられた企業体である。…

【三国同盟】より

…英仏露三国協商と対立し,第1次世界大戦の一方の陣営を形成した。ドイツ帝国成立後のビスマルク外交の目標は,フランスを孤立させ,その対独復讐戦争を防止することにあった。ビスマルクは1881年にドイツ,オーストリア・ハンガリー,ロシアの間に三帝同盟を成立させたが,イタリアがチロル,トリエステをめぐってオーストリア・ハンガリーと不和であったことから,フランスに接近するのを恐れていた。…

【社会主義者鎮圧法】より

…ドイツの社会主義運動は1875年にアイゼナハ派とラッサール派が合同してドイツ社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)が結成されて以来,勢力の伸張が目ざましかった。ビスマルクはこれを危険視し,弾圧の機会をうかがっていたが,78年5,6月あいついで起こった皇帝狙撃事件を利用し,帝国議会にいわゆる社会主義者鎮圧法を上程し,同年10月強引に成立させた。この法律は社会主義的傾向をもつ政党や労働組合の結社・集会を禁止し,新聞・雑誌・ビラの印刷・配布を禁じ,〈危険分子〉を特定地域から追放する権限を警察に与えた。…

【社会保障】より

…資本主義の発展とともに賃金労働者が急増したが,彼らは失業,労働災害,老齢退職などの社会的リスクに不断にさらされ,きわめて不安定な生活状態におかれている。西ヨーロッパ諸国では労働者の共済組織として任意制の保険がつくられていたが,これをより広範な労働者階層に拡大するために強制加入の社会保険を創設したのは,ドイツ帝国の鉄血宰相ビスマルクであった。これは後進資本主義国ドイツの工業化が進み,19世紀末には階級対立が激化して急進的な社会主義運動が激しくなったことから,この息の根を止めるために賃金労働者の深刻な生活不安を緩和するという名目で生まれたものであり,飴と鞭の政策の一端を担うものとされていた。…

【ドイツ・オーストリア同盟】より

…単に二国同盟Zweibundとも,また独墺同盟ともよばれる。1878年ベルリン会議以後,ドイツとロシアとの関係が悪化したので,ビスマルクはオーストリアとの結合を強め,79年10月7日,両国間の秘密軍事同盟がウィーンで調印された。この条約は,締約国の一国がロシアから攻撃された場合,他の一国が共同して戦い,ロシア以外の国の攻撃をうけたときには好意的中立を守ることを義務づけていた。…

【ドイツ帝国】より

…ドイツで帝制をとった国家は史上2度あり,第1は神聖ローマ帝国(962‐1806),第2がビスマルクのドイツ統一により実現したドイツ帝国(1871‐1918)で〈第二帝国〉ともいう。ヒトラーのナチス国家(1933‐45)もこれに次ぐものとして〈第三帝国〉を称した。…

【普墺戦争】より

…このドイツ統一の覇権争奪をめぐり普墺両国の対立も深化していた。プロイセン首相ビスマルクは,イタリアとの同盟を結び,フランス・ロシアの介入を阻止しつつ,オーストリアを戦争へと追い込んだ(1866年6月)。プロイセン軍はオーストリア軍をボヘミアのケーニヒグレーツKöniggrätzの戦で破って大勢を決し,大方の予想を裏切り,戦いはわずか7週間で決着がつけられた。…

【福祉国家】より




 J.

【普仏戦争】より


31870714

【プロイセン】より


611(1862)︿

【プロイセン憲法紛争】より

…このことはプロイセン憲法体制の性格とあり方をめぐる対立へと発展した。さらに自由主義者左派グループによるドイツ進歩党Fortschrittsparteiの結成(1861)とビスマルクの首相就任(1862)は,下院と政府の対立をいっそう激化させた。この紛争は,普墺戦争の勝利によって軍備拡張の成果が示されたことによって鎮静化し,ドイツ進歩党は分裂し,ビスマルク与党の国民自由党Nationalliberale Parteiが結成された。…

【文化闘争】より

…ドイツ統一後,帝国宰相ビスマルクが行ったカトリック弾圧政策と,その結果生じた政府・カトリック間の争い。文化闘争の呼称は,フィルヒョーが使用した用語,〈文化に対する闘争〉に由来する。…

※「ビスマルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」