正岡子規(読み)マサオカシキ

デジタル大辞泉 「正岡子規」の意味・読み・例文・類語

まさおか‐しき〔まさをか‐〕【正岡子規】

 
18671902()()()()()() 
[]919()()()()()()

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精選版 日本国語大辞典 「正岡子規」の意味・読み・例文・類語

まさおか‐しき【正岡子規】

 

(一)()()退調
 

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百科事典マイペディア 「正岡子規」の意味・わかりやすい解説

正岡子規【まさおかしき】

 
()()退
調  

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「正岡子規」の意味・わかりやすい解説

正岡子規
まさおかしき
(1867―1902)


()39171014()()()()退18831617()()()1889()1890()1891

 1892退()()1895()()()78()1897()1895189718981898

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 1901()1902()19011902()()()198156

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22319751978

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朝日日本歴史人物事典 「正岡子規」の解説

正岡子規

 
35.9.19(1902)
3.9.17(1867.10.14)
,,,(),5(1872)40,(1875),16退,(),()18,21,宿822,51232(),(), 256,退(3退),15,28,,,,20,26,,,28,,,宿2,30, ,31,,,,,31,(1901),(1902),(190102),,,,,,(1901),(1902,)  
()
 

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改訂新版 世界大百科事典 「正岡子規」の意味・わかりやすい解説

正岡子規 (まさおかしき)
生没年:1867-1902(慶応3-明治35)


退189292︿95︿979898調︿190119021901-021902︿

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20世紀日本人名事典 「正岡子規」の解説

正岡 子規
マサオカ シキ

明治期の俳人,歌人



生年
慶応3年9月17日(1867年)

没年
明治35(1902)年9月19日

出生地
伊予国温泉郡(現・愛媛県松山市)

本名
正岡 常規(マサオカ ツネノリ)

別名
幼名=処之助,通称=升,号=獺祭書屋主人(だつさいしょおくしゅじん),竹の里人(たけのさとびと)

学歴〔年〕
松山中〔明治16年〕中退,帝大〔明治26年〕中退

経歴
明治16年に上京し、翌年大学予備門(一高)に入学、夏目金之助(漱石)を知る。18年頃から文学に接近し、当初は小説を書いていたが、24年「俳句分類」の仕事に着手し、25年「獺祭書屋俳話」を発表、俳句革新にのり出す。28年3月日清戦争に従軍したが、5月に喀血し、以後病床生活に入る。この年以降、文学上の仕事は充実し、29年には3000句以上を残した。30年「古白遺稿」を刊行。同年松山から「ホトトギス」が創刊され支援する。31年「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新にのり出すと共に根岸短歌会をはじめ、ホトトギス発行所を東京に移した。32年「俳諧大要」を刊行。34年「墨汁一滴」を発表、また「仰臥漫録」を記しはじめ、35年に「病牀六尺」の連載をはじめたが、9月に死去した。死後になって作品がまとめられ、「筆まかせ」「寒山落木」「竹乃里歌」などが刊行され、命日には獺祭忌が営まれている。大学予備門(のちの一高)時代から野球に熱中し、弄球(野球)、打者、走者、死球、飛球など現在でも使われている用語、ルールの翻訳も手掛けた。平成14年新世紀特別枠として野球殿堂入り。松山市道後公園に子規記念博物館がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「正岡子規」の意味・わかりやすい解説

正岡子規
まさおかしき

[生]慶応3(1867).9.17. 伊予,松山
[没]1902.9.19. 東京
俳人,歌人。本名,常規。 1892年東京帝国大学国文学科を中退,新聞『日本』に入社。同紙に拠って俳句革新運動ののろしをあげ,『獺祭書屋俳話』を連載,『文界八つあたり』 (1893) ,『俳諧大要』 (1895) などを書く一方,『歌よみに与ふる書』 (1898) 以後根岸短歌会を結成して短歌革新に力を尽した。俳句,短歌ともに写生 (写実) を旨とする文学であることを主張,俳句では内藤鳴雪,佐藤紅緑,河東碧梧桐,高浜虚子ら,短歌では香取秀真,岡麓,伊藤左千夫,長塚節らの俊秀を育て,のちの『ホトトギス』派,『アララギ』派の礎を築いた。句集『寒山落木』,歌集『竹乃里歌』,随筆『墨汁一滴』 (1901) ,『病牀六尺』 (1902) ,日記『仰臥漫録』 (1901~02) など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「正岡子規」の解説

正岡子規
まさおかしき


1867.9.171902.9.19

()()()1883(16)92退9798()223

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「正岡子規」の解説

正岡子規 まさおか-しき

1867-1902 明治時代の俳人,歌人。
慶応3年9月17日生まれ。明治25年日本新聞社入社,紙上で俳句の革新運動を展開。28年以降は病床にあり,30年創刊の「ホトトギス」,31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ,短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。野球の普及にも貢献,平成14年新世紀特別表彰で野球殿堂入り。明治35年9月19日死去。36歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。帝国大学中退。本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人,竹の里人。著作に句集「寒山落木」,歌集「竹乃里歌」,ほかに「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」「病牀(びょうしょう)六尺」など。
【格言など】柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

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旺文社日本史事典 三訂版 「正岡子規」の解説

正岡子規
まさおかしき

1867〜1902
明治時代の俳人・歌人
本名は常規 (つねのり) 。松山の生まれ。東大国文科を中退し,日本新聞社に入社。写生を主張して俳句を革新し,俳誌『ホトトギス』を指導,高弟に高浜虚子・河東碧梧桐 (かわひがしへきごとう) らがいる。また万葉調・写生に基づく和歌の革新を唱え,伊藤左千夫・長塚節らを門下に擁し,のちのアララギ派の基礎をつくった。著書に『歌よみに与ふる書』『病牀六尺』など。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「正岡子規」の解説

正岡 子規 (まさおか しき)

生年月日:1867年9月17日
明治時代の俳人;歌人
1902年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の正岡子規の言及

【歌よみに与ふる書】より

正岡子規の歌論。1898年(明治31)2月12日~3月4日《日本》に連載。…

【映画】より

…〈活動写真〉ということばは福地桜痴が使い出したという説もあり,《東京日日新聞》がバイタスコープを〈便宜により邦語活動写真と称す〉と記したのがこの用語が定着するきっかけになったといわれる。1902年に正岡子規は,その病床日記(《病牀(びようしよう)六尺》)に〈自分の見たことのないもので,一寸見たひと思ふ物〉としてまず第1に活動写真をあげており,またほぼ同じ時期に〈活動写真〉という玩具について次のように書いている。〈今一つの玩器(おもちや)は,日比野藤太郎先生新発明の活動写真といふので,これは丁度,トランプ程の大きさの紙が三十枚程揃へてあって,それには相撲の取組んで居る絵が順を追ふて変化するやうに画いてある。…

【歌論】より


【近・現代】
 近代および現代では,印刷技術の普及および新聞,雑誌の発達を背景としておびただしい数の〈歌論〉が発表された。《二六新報》に発表された与謝野鉄幹の〈亡国の音(おん)〉(1894),《日本》に発表された正岡子規《歌よみに与ふる書》(1898),和歌革新運動の推進力となったこの二つの〈歌論〉が,早い時期のものとしてまず注目されるのである。近・現代の文学状況は小説中心に展開した。…

【紀貫之】より

…勅許を得て和泉の国に創建した船守神社から帰京の途中,蟻通し明神の祟りを受けて馬がたおれたときに和歌を奉納した逸話(《袋草紙》,謡曲《蟻通》など),藤原公任が具平親王と人麻呂・貫之の優劣を論争したこと(《袋草紙》),順徳院が《八雲御抄》に〈貫之さしもなしなどいふ事少々聞ゆ。歌の魔の第一也〉と記していること,近代になって桂園派の観念的な歌風を打破しようとした正岡子規が,和歌の即興性を重んじた貫之を理解しえずして《歌よみに与ふる書》で〈貫之は下手な歌よみにて,古今集はくだらぬ集に有之候〉と極論したように,歌人としての貫之の評価にかかわるものばかりであった。【萩谷 朴】。…

【写生文】より

…文芸用語。正岡子規が俳句で活用した〈写生〉を文章にも用いてつくり出した新文体をいう。子規の《小園の記》(1898),高浜虚子の《浅草寺のくさぐさ》(1898)などを最初とし,《ホトトギス》での誌上募集もあり,1900年からは病床の子規の枕頭で写生文を読む〈山会〉ももたれた。…

【根岸短歌会】より

…明治時代の短歌結社。和歌の革新にのり出した正岡子規を中心に東京上根岸の子規庵で始められた歌会。1899年(明治32)3月14日に香取秀真(かとりほずま),岡麓(ふもと)らが集まったのを第1回とし,以後回を重ねるごとに活発となり,伊藤左千夫,長塚節らが参加した1900年には最盛期を迎えた。…

【俳諧】より


()()︿︿

【俳諧大要】より

正岡子規の俳論書。1899年,ほとゝぎす発行所刊。…

【俳句】より

…〈俳諧の句〉を縮約した〈俳句〉という語は,俳諧集《尾蠅(おばえ)集》(1663),上田秋成の《胆大小心録》(1808)などに用例がある。しかし,江戸時代には一般化せず,この語が5・7・5音の組合せを基本にした定型詩を指すようになったのは,明治時代,すなわち正岡子規による俳句革新が行われた過程においてである。それまでは発句(ほつく)という言い方が普通であった。…

【俳論】より


(168488)(1773)姿(1771)(1777) (1893)︿︿

【ペンネーム】より

…著者・執筆者が作品発表にあたって本名のかわりにつける作者名。筆名ともいう。中国では古くから,親のつけた実名・幼名のほかに自称の字(あざな)や雅号が文人のあいだで尊重されてきた。日本でもとくに詩文については雅号で互いに呼び合うという慣習が続いたが,その雅号もペンネームとみることができる。ヨーロッパでも近代になると,また日本でも明治時代になると,発表する作品ごとに筆名を変えるため一人で生涯におびただしい数の筆名をのこした作家・評論家が出現した。…

【ホトトギス】より

…俳句雑誌。松山の俳句団体松風会を母体とし,正岡子規を指導者として,1897年1月に創刊。翌年10月東京に移して高浜虚子が経営。…

※「正岡子規」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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