デジタル大辞泉
「真福寺」の意味・読み・例文・類語
しんぷく‐じ【真福寺】
名古屋市中区にある真言宗智山派の寺。山号は北野山。建久年間︵1190~1199︶に尾張国中島郡大須庄に建立されたという観音堂を、14世紀に能信が密教道場としたのが始まり。のち、徳川家康が現在地に移転。﹁古事記﹂など貴重な古典籍を多数所蔵する。宝生院。大須観音。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
しんぷく‐じ【真福寺】
(一)名古屋市中区大須にある真言宗智山派の別格本山。山号は北野山。南北朝時代に能信が創建。正平五年︵一三五〇︶後村上天皇の勅願所となる。境内に能信創設の文庫があり、国宝の﹁古事記﹂﹁漢書食貨志﹂をはじめ書籍、古文書など多数を蔵し、真福寺本︵大須文庫︶の名で知られる。大須観音。宝生院。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]岡崎市真福寺町 薬師山
霊鷲山降剣院と号し、本尊は水体薬師如来。天台宗東叡山寛(かん)永(えい)寺︵現東京都︶のもと末寺。従来当山は矢作川の対岸にある白鳳時代創建と伝える四天王寺式伽藍の北(きた)野(の)廃寺が、平安時代に廃絶後移転したとする説があった︵真福寺拾葉集︶。真福寺の名は﹁聖徳太子伝暦備講﹂﹁聖徳太子古今目録抄﹂﹁聖徳太子伝私記裏書﹂などにみえ、私記裏書には
<資料は省略されています>
と飛鳥時代建立を伝えている。古今目録抄は鎌倉時代の成立で著者は法隆寺顕真とあり、内容はほぼ同じである。伝暦備講では太(うず)秦(まさ)︵現京都市︶広(こう)隆(りゆう)寺・信州善(ぜん)光(こう)寺・讃州善(ぜん)通(つう)寺と同じく三州真福寺も本願施主名をもって寺号とすとある。﹁真福寺拾葉集﹂では聖徳太子建立四六ヵ寺の一つで、推古天皇二年としている。その他縁起・由来記︵真福寺文書︶も物部守屋の次男真福が仏寺建立を発願して聖徳太子の許可で建立としている。また大宝元年︵七〇一︶に文武天皇より田園の寄進を受け﹁霊鷲山降剣院真福寺﹂の山号宸筆の額を賜うとしている。
北野廃寺は古絵図︵松応寺文書︶では﹁薬師寺﹂とあり、四天王寺式伽藍の図が描かれている。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]満濃町岸上 寺下
寺(てら)下(した)の丘の上にある。仏光山頂岸院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀三尊。寺伝によると空海の開基という。建永二年︵一二〇七︶讃岐に流された法然が、小(こま)松(つ)庄で八ヵ月間専修念仏の教えを説き、その由縁によって生(しよ)福(うふく)・清(せい)福(ふく)・真福の三福寺が建立され、浄土宗の念仏道場として繁栄した。四条の天(てん)皇(のう)集落に真福寺森という地名が残る。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]西会津町尾野本
松(まつ)尾(お)集落の北東山腹にあり、松尾山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。寺蔵の由緒書や真福禅寺縁起︵宇多川家文書︶などによると、古くは天台寺院であったが、文永五年︵一二六八︶当地の領主宇多河︵宇多川︶氏が鎌倉寿(じゆ)福(ふく)寺の住僧慈心を招いて臨済禅寺に改めて中興し、堂ごとに一体の仏像を安置する七堂を創建したという。康安二年︵一三六二︶八月二四日造立の胎内銘がある木造本師大覚像︵地蔵菩薩坐像として県指定重要文化財︶は一宇の大塔を建立して安置したものといわれ、本堂裏手には同塔のものと思われる礎石があって、現在発掘調査が行われている。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]いわき市江名 天ヶ作
江(え)名(な)の町並南端字天(あま)ヶ作(さく)にあり、江龍山正覚院と称し、高野山真言宗。本尊大日如来。縁起によると、承安元年︵一一七一︶勝祐が恵心作の竜王尊をたずさえて来て、根渡に堂宇を開き正覚院と称したという。明徳四年︵一三九三︶火災にあい、永享三年︵一四三一︶領主平蔵氏が再建、慶安三年︵一六五〇︶現在地に移り、延宝八年︵一六八〇︶本寺の恵(えに)日(ち)寺祐誉が山号・寺号を与えたと伝える。宝永三年︵一七〇六︶吉田源太郎豊之などの寄進により本堂・竜王堂・鐘楼・二階門・庫裏を再建。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]勝央町勝間田
JR姫新線勝(かつ)間(ま)田(だ)駅の北東にある高野山真言宗寺院。宝生山と号し、本尊聖観音。﹁東作誌﹂によると天正︵一五七三―九二︶頃の福田玄蕃かその子孫の開基という。また間(はし)山(たや)高(まこ)福(うふく)寺︵跡地は現英田郡美作町︶の塔頭で天台宗であったが、天正初年間山焼失ののち勝間田の定法という所に移ったとも伝える。定法は坊名。津山藩家老長尾隼人の弟快盈は出家して高野山にのぼり、のち西(さい)北(ほく)条(じよう)郡香(か)々(が)美(み)︵現苫田郡鏡野町︶の円(えん)通(つう)寺に入り、寛文︵一六六一―七三︶頃無住であった天台宗寺院を真言宗に改めるが、当寺もその一つという。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]由岐町木岐 喜多地
八幡神社の鎮座する山の麓にある。神護山功徳院と号する。真言宗大覚寺派。本尊は阿弥陀如来。開創の時期は不明ながら、康正二年︵一四五六︶二月の宥染願文案︵二階堂氏文書︶に﹁阿州日輪之庄岐々之村 新福寺﹂とあり、当寺と考えられる。大永年間︵一五二一―二八︶将軍足利義稙の臣仁木某の息子快秀が中興したといわれる。境内に鎌倉時代末期の作とみられる宝篋印塔︵相輪は欠失︶がある。源頼政の墓と伝えられ、よりまささんとよばれているが、源頼綱の後裔が当地に定住し、先祖の供養塔として建立したと考えられている。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]武蔵村山市中藤一丁目
龍華山清(しよ)浄(うじ)光(ようこう)院と号し、真言宗豊山派。本尊は薬師如来。山城醍醐寺三(さん)宝(ぼう)院末であった。和銅三年︵七一〇︶行基により創建されたが、承久二年︵一二二〇︶落雷により焼失したと伝え、正応三年︵一二九〇︶龍性によって再興されたという。天正一九年︵一五九一︶一一月に寺領二〇石を与えられ︵寛文朱印留︶、元和三年︵一六一七︶の徳川秀忠朱印状︵西角井家文書︶も伝わる。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]新見市上熊谷
塩(しお)城(き)山麓の字土(ど)居(い)にある。如意山と号し、本尊釈迦如来、臨済宗永源寺派。神(じん)応(のう)寺︵現阿哲郡神郷町︶開山高庵芝丘の開創。高庵は開山に師の曇瑞道慧を迎え、自らは二世となった︵﹁曇瑞道慧禅師伝﹂﹁瑞石歴代雑記﹂ほか︶。寺伝によれば以後、臨済禅の寺として栄え、末寺一三ヵ寺を数えたという。その後寺勢が衰えたが、永禄年間︵一五五八―七〇︶塩(しお)城(きや)山(ま)城主多治部景治の外護を得て再興された。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]広神村今泉
曹洞宗、曹渓山と号し、本尊薬師如来。寺伝では文明二年︵一四七〇︶法山謙正の創建。﹁温古之栞﹂によると、本尊は謙正が燕(つば)堂(めどう)道を通行中渇を覚えたので、近くの曹(そう)渓(けい)ヶ池の清水を汲んだところ、水底に白毫の光を見て発見したものと伝える。現在この池は当寺飲用水になっている。寛永一一年︵一六三四︶四月一七日付の高田藩からの寺領高一石の寄進状︵真福寺蔵︶がある。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]清洲町朝日
稲生山と号し、真言宗智山派。本尊薬師如来。この寺はもと落(おち)合(あい)村︵現春日村︶にあったが、本寺の七(ななつ)寺が朝(あさ)日(ひ)村より慶長一六年︵一六一一︶に名古屋へ替地となったので、その跡地へ移ったものという︵徇行記︶。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]西春町宇福寺 天神
天神山と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。康正元年︵一四五五︶正(しよ)眼(うげん)寺︵現小牧市︶の三世天先祖命︵長禄二年没︶の開山、吟庵の開基にかかり、もと祖命の隠居所であったが後に寺号を付したものという。
真福寺
しんぷくじ
[現在地名]小牧市久保一色 新田屋敷
天安山と号し、臨済宗。本尊は如意輪観音。﹁徇行記﹂に﹁此寺ノ開基ハ富田長者トイヘル人ニテ、其年紀ハ不知、開山ハ丹羽郡楽田村永泉寺開山ノ弟子匡周和尚ナリ﹂とあり、万治元年︵一六五八︶に一(いし)色(き)地区から現在の久(く)保(ぼ)地区に移転したことも記されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
真福寺【しんぷくじ】
別称宝生院,通称大須観音。名古屋市中区大須2丁目の繁華街にある真言宗智山派の寺。本尊は木造正観音菩薩立像。14世紀に伊勢神宮の能信が,中島郡大須︵現在岐阜県羽島郡︶に建立し,その別当を兼ねて内外の古書籍を集めた。徳川家康はその書籍の散逸をおそれ,現地に移建させた。大須本・真福寺本として知られる28点の貴重書がそれで,︽古事記︾︽将門記︾︽日本霊異記︾や︽続本朝往生伝︾など数種の往生伝がある。
→関連項目大須|長岡荘
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
真福寺 (しんぷくじ)
名古屋市中区にある真言宗智山派の寺。山号は北野山宝生︵ほうじよう︶院。当初は大須庄︵現,岐阜県羽島市︶にあり,伝空海作の観音像を本尊としたので大須観音ともよばれる。14世紀中ころ伊勢神官度会︵わたらい︶行家の子能信が創建,後村上天皇勅願所となり,1612年︵慶長17︶徳川家康の命で現在地に移された。経蔵の大須文庫には能信以来の貴重な古典籍が多く,国宝の︽古事記︾︽漢書食貨志︾,重要文化財の︽将門記︾︽尾張国解文︾などは有名である。
執筆者‥速水 侑
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例