デジタル大辞泉
「老舎」の意味・読み・例文・類語
ろうしゃ〔ラウシャ〕【老舎】
﹇1899~1966﹈中国の小説家・劇作家。本名、舒(じょ)慶(けい)春(しゅん)。字(あざな)は舎予。1938年の中華全国文芸界抗敵協会成立時に主任となり、第二次大戦後は北京市文連主席となったが、文化大革命中に自殺。軽妙で風刺をこめた筆致で、革命期の混乱を描いた。小説﹁駱駝祥子﹂﹁四世同堂﹂、戯曲﹁茶館﹂など。ラオ=ショー。
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ろうしゃラウシャ【老舎】
(一)中国の作家。本名舒慶春。処女作﹁老張的哲学﹂でユーモア作家として注目された。のち﹁駱駝祥子﹂、長編三部作﹁四世同堂﹂を書き、解放後は戯曲﹁龍鬚溝﹂﹁茶館﹂などで評判をとった。︵一八九九‐一九六六︶
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老舎
ろうしゃ / ラオショー
(1899―1966)
中国の小説家、劇作家。満州旗人の出身で、本名は舒慶春(じょけいしゅん)。1900年父は八か国連合軍との戦いで戦死、母の手ひとつで北京(ペキン)の貧しい路地裏に育つ。18年北京師範学枚を卒業、教職について家計を支える。24年ロンドン大学東方学院に中国語教師として赴任、5年滞在する間に﹃張(チャン)さんの哲学﹄︵1926︶など長編3編を発表、独自のユーモアと風刺の作風で知られる。30年帰国後、済南の斉魯(せいろ)大学、34年から青島(チンタオ)の山東大学で教鞭(きょうべん)をとりつつ多くの長・短編小説を精力的に執筆。長編﹃猫城記(もうじょうき)﹄︵1933︶、﹃離婚﹄︵1933︶、代表作﹃駱駝祥子(ロートーシアンツ)﹄︵1936︶、短編集﹃趕集(かんしゅう)﹄︵1934︶、﹃桜海集(おうかいしゅう)﹄︵1935︶、﹃蛤藻集(こうそうしゅう)﹄︵1936︶などが著名。抗日戦中は中華全国文芸界抗敵協会の責任者となり、機関誌﹃抗戦文芸﹄の刊行や抗日大衆文芸の創作に活躍、また日本軍占領下の北京を描いた大作﹃四世同堂﹄︵三部作。1945~50︶を書く。
新中国成立後は劇作に転じ、﹃龍鬚溝(りゅうしゅこう)﹄︵1950︶で北京人民芸術家の称号を受けたほか、﹃茶館(ちゃかん)﹄︵1957︶、﹃神拳(しんけん)﹄︵1961︶など約20編の劇作があり、中国新劇界に大きな足跡を残す。彼の作風は、大衆文芸の技法を小説や新劇に生かし、ユーモアとペーソスを交えた戯作者(げさくしゃ)的饒舌(じょうぜつ)の裏に、貧しい庶民生活のみごとな活写、冷静な現実認識、民族主義的情熱、強烈な庶民的正義心などがあって、広範な読者の心をとらえた。1966年8月24日文化大革命が始まってまもなく、彼は北京市文連主席として紅衛兵の迫害を受け非業の死を遂げた。
﹇伊藤敬一﹈
﹃﹃老舎小説全集﹄全10巻︵1982~83・学習研究社︶﹄▽﹃黎波訳﹃老舎珠玉﹄︵1982・大修館書店︶﹄
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老舎 (ろうしゃ)
Lǎo Shè
生没年:1899-1966
中国の作家,劇作家。本名舒慶春,字は舎予。北京の貧しい満州旗人の家に生まれた。幼時に父を失うなど苦しい少年時代を送るなかで,下層庶民に対する同情の目を培われた。北京師範学校卒業後,数年の教員生活をへて,1924年にイギリスに渡る。6年間の留学中に,︽張さんの哲学︾,︽趙子曰︵いわ︶く︾,︽二馬︵二人の馬さん︶︾などの知識人の生きざまをほろにがいユーモアで描いた長編をつぎつぎに発表,ユーモア作家として文壇に独自の地歩を築く。帰国後は,斉魯大学,山東大学などで教鞭をとるかたわら,︽猫城記︾︽離婚︾︽牛天賜︾などを発表するが,やがて貧しい人力車夫の悲惨な生涯を描いた長編︽駱駝の祥子︾を世に問い,下層庶民への愛と暗い現実に対する鋭い批判とによって,批判的リアリズムの方向に新境地をひらいた。抗日戦争中は武漢にあって中華全国文芸界抗敵協会で指導的役割を果たすいっぽう,︽残霧︾などの戯曲をも手がけた。
1946年,招かれて渡米。アメリカ滞在中に,親子4代が同居する北京の大家庭の人々の日本軍占領下における生活を描いた100万字にのぼる三部作︽四世同堂︾を発表。新中国成立直後に帰国し,北京の貧民窟の変貌と新生を描いて新中国をたたえた戯曲︽竜鬚溝︵りゆうしゆこう︶︾によって,北京市から人民芸術家の称号を贈られた。このほか,名作︽茶館︾をはじめとする20編をこえる戯曲を執筆するとともに,相声︵しようせい︶や弾詞︵だんし︶のような大衆芸能の復興と発展に不滅の功績を残し,また中国作家協会副主席,北京市文聯主席などの要職にもついた。文化大革命では,党と毛沢東に反対したとして紅衛兵からつるしあげられ,やがて死体となって発見されたが,その死の真相はいまなお不明。78年6月に名誉回復がおこなわれた。80年末から,比較的完全な作品集として︽老舎文集︾が人民文学出版社から刊行中である。
執筆者‥吉田 富夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
老舎
ろうしゃ
Lao She
[没]1966.8.24. 北京
中国の小説家,劇作家。本名,舒慶春。字,舎予。ロンドン大学に留学中に創作の筆をとりはじめ,﹃張さんの哲学﹄ (1926) を﹃小説月報﹄に発表して好評を博し,続けて﹃趙子曰 (チャオズユエ) ﹄ (1927) ,﹃二馬﹄ (1929) ,帰国後は﹃離婚﹄ (1933) ,﹃牛天賜伝﹄ (1934) などの長編を書き,1936年には代表作﹃駱駝祥子 (ロートシャンズ) ﹄を発表,その間,短編の作も多い。抗日戦争中は宣伝活動に従事しつつ執筆を続け,1945~51年に占領下の北京を描いた長編﹃四世同堂﹄を発表。 1946年渡米,1949年解放直後の北京に帰り,戯曲﹃方珍珠﹄﹃竜鬚溝 (ロンシュイコウ) ﹄を書いた。人民芸術家の称号を受け,中国作家協会副主席の要職について社会的,文化的活動を続けたが,文化大革命できびしく批判されて迫害を受け,太平湖で死体となって発見された。死の真相は明らかでない。四人組失脚後,名誉回復された。
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老舎(ろうしゃ)
Lao She
1899~1966
中国現代の作家。北京の満洲旗人の出身。ロンドン留学当時から創作を始め,北京とその市民に深い愛情を示す作品を著した。特に﹃駱駝祥子﹄や﹃四世同堂﹄の写実主義は高く評価された。1946年渡米するが,中華人民共和国成立後,周恩来らの呼びかけで帰国。新中国の変貌ぶりに感動し,﹃龍鬚溝﹄﹃茶館﹄などの戯曲を発表,﹁人民芸術家﹂の称号を与えられた。文化大革命が始まると,文芸界の権威として標的にされ,紅衛兵の暴行を受け,死体となって発見された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
老舎【ろうしゃ】
中国の作家。本名舒慶春。英国留学後,作家生活に入り,︽駱駝の祥子︾︽四世同堂︾が代表作。故郷北京の庶民生活への濃い愛着が特色。多作家で解放後は戯曲家に転じ,︽茶館︾などを発表したが,文化大革命で批判され,その死は自殺とも他殺とも伝えられる。1978年名誉回復。
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老舎
ろうしゃ
Lǎo Shě
中国の小説家
北京生まれ。1924年ロンドン大学に留学し,帰国後つぎつぎと作品を発表。民衆への深い愛情と,民衆の苦しみに対する怒りが作品の基調。代表作は﹃駱駝祥子﹄﹃四世同堂﹄﹃方珍珠﹄﹃竜鬚溝﹄など。1952年に人民芸術家の称号をうけ,その後も活躍していたが,文化大革命で批判され自殺。1978年に名誉回復がなされた。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
老舎 (ろうしゃ)
生年月日:1899年2月3日
中国の小説家,劇作家
1966年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の老舎の言及
【小説月報】より
…当初の主編者は[茅盾](ぼうじゆん)。特集や増刊号も刊行し,とくにロシア,東欧などの外国文学の翻訳紹介と国内の新文学作品の批評に力を注ぎ,また老舎や巴金など新人作家を世に送り出すなど,新文学運動に大きな役割を果たした。32年,上海事変により廃刊のやむなきにいたった。…
【中国文学】より
…しかし,こうした左翼文学運動には党員のセクト的傾向が終始つきまとい,いわゆる〈自由人〉や〈第三種人〉を標榜するリベラルな文学者をおしなべて〈敵〉として攻撃・排除したことで,みずから戦線を狭くしていったことも認めなければならない。 この時期はまた,茅盾(ぼうじゆん),老舎,巴金,丁玲,曹禺など,のちの中国文学を担う文学者たちが,つぎつぎと世に出た時代であった。なかでも茅盾《子夜》(1931),巴金《家》(1930),李劼人(りかつじん)《死水微瀾》,老舎《駱駝の祥子》(1937)などは,中国文学が世界に通用する本格的ロマンを持ち始めたことを示した。…
【竜鬚溝】より
…中国の新劇名。老舎が人民芸術家の称号をえた1951年の作品。北京の貧民街にあった不潔きわまるどぶ川を,苦しい財源の中から衛生運動として新政府が改修工事に着手することをめぐって,新旧の社会や人物を対立させ,社会主義の優越性を強調した内容で,解放まもない新中国の生気が最も感じられる代表的劇。…
※「老舎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」