前田利家(読み)マエダトシイエ

デジタル大辞泉 「前田利家」の意味・読み・例文・類語

まえだ‐としいえ〔まへだとしいへ〕【前田利家】

 
15381599  

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「前田利家」の意味・読み・例文・類語

まえだ‐としいえ【前田利家】

 

(一)
 

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「前田利家」の意味・わかりやすい解説

前田利家 (まえだとしいえ)
生没年:1537-99(天文6-慶長4)


1551205926975381退853

 86879092193961989933

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「前田利家」の解説

前田利家

没年:慶長4.閏3.3(1599.4.27)
生年:天文7(1538)
安土桃山時代の武将。利昌の4男,母は竹野氏。尾張国荒子村(名古屋市中川区)生まれ。幼名犬千代。孫四郎のち又左衛門尉。14歳で織田信長の近習となり,19歳のときの合戦では,顔に矢が刺さったまま相手を槍で倒したという。天正3(1575)年信長から越前(福井県)を与えられた柴田勝家の監視役として佐々成政,不破光治と共に同国府中(武生市)に配され,同9年には能登(石川県)一国をあてがわれて国持大名となった。本能寺の変後相対立した柴田勝家,羽柴(豊臣)秀吉とは双方ともに親密な間柄で,賤ケ岳の戦では当初勝家に加担したが,途中で秀吉に降伏した。勝家の自殺後,加賀(石川県)侵攻の先鋒を務めた功で加賀北半を加増され,さらに越中(富山県)の成政を下した功で,同13年嫡子利勝が越中3郡を得,加賀,越中,能登3カ国にわたるのちの加賀藩領の原形ができた。翌年羽柴姓と秀吉の旧官名筑前守を譲られており,秀吉の信頼厚かったことがわかる。ちなみに3女摩阿(加賀殿)は秀吉の側室として聚楽第天守に住み,4女豪は幼時より秀吉の養女となって寵愛された。 天正15年の九州出兵,同18年の関東・奥羽平定に大軍を出して秀吉の全国統一に参加。文禄1(1592)年からの朝鮮侵略では名護屋(佐賀県鎮西町)に駐留し,漢城(ソウル)陥落を聞いて渡海しようとする秀吉を徳川家康と共に諫止したこともある。同4年の豊臣秀次の謀反後,秀吉の次男秀頼の守り役となり,翌慶長1(1596)年には従二位権大納言に進んだ。五大老のひとりとして秀吉政権を支え,秀吉没後の同4年1月,秀吉の制法に背いた家康を追及する先頭に立ったがすぐ和解。その直後妻まつに遺書を代筆させ,まもなく大坂で没,遺言に従い金沢の野田山に葬られた。若いときは派手好みで喧嘩早い「かぶき者」で知られ,老いても流行の細腰の袴をきらい太くしたという。また常に具足櫃にそろばんを入れていた計算上手で,伊達政宗らに金子を融資するなど経済的才覚もあった。<参考文献>岩沢愿彦『前田利家』,『加賀藩史料』1編

(河村昭一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「前田利家」の意味・わかりやすい解説

前田利家
まえだとしいえ
(1538―1599)


()()()()()155120()()()()()()()2450()()819()()23()()284()()()439018()()()()983調()33



1966

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「前田利家」の意味・わかりやすい解説

前田利家【まえだとしいえ】

 
1575()
 

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「前田利家」の意味・わかりやすい解説

前田利家
まえだとしいえ

 
[]7(1538).
[]4(1599).3.3. 
 12 (1569) 1 (70)  11 (83) 13318調  

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「前田利家」の解説

前田利家
まえだとしいえ


153899.3.3

()1575(3)81883()8598(3)8

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「前田利家」の解説

前田利家 まえだ-としいえ

 
15381599 -
()7()4()11()2,2,4()3362()(),
()  

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「前田利家」の解説

前田利家
まえだとしいえ

 
153899

 ()  () 1583 ()   

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「前田利家」の解説

前田利家 (まえだとしいえ)

生年月日:1538年12月25日
安土桃山時代の大名
1599年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の前田利家の言及

【後詰】より


︿1584(12)9 

【越中国】より

…成政は上杉景勝方と抗争をくりかえし,翌年6月には上杉方の越中侵攻の拠点魚津城を陥落させたが,本能寺の変のため成政は富山城に入って上杉方と抗争を続け,越中の制圧にあたった。83年越前北庄の柴田勝家を滅ぼした豊臣秀吉は成政の越中支配を認めたが,成政は秀吉と同心する前田利家と対立したため,83年秀吉に攻められてこれに降伏,所領は新川郡のみとされ,さらに翌々年肥後に転封された。婦負・射水・礪波の3郡は前田利勝(利長)に,新川郡は直轄地として利家に預けられ,前田氏の支配が始まった。…

【五大老】より


︿1598(3)91595(4)西

【関ヶ原の戦】より




 15988︿︿289

【所口】より

…七尾ともいう。1581年(天正9)畠山氏の七尾城に入った前田利家は,翌年七尾湾に面する所口村に小丸山城を計画,旧七尾城下の町人を移して新城下町を経営しようとしたが,83年金沢城へ移ったことから中止された。しかしこの地の軍事的・経済的重要性から町づくりは続けられ,元和期(1615‐24)には町奉行が置かれ所口町のほかに能登全域の治安と流通をも支配した。…

【能登国】より


80 

 1581鹿8

※「前田利家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

タコノキ


12m7cm()...


コトバンク for iPhone

コトバンク for Android