金子堅太郎(読み)カネコケンタロウ

デジタル大辞泉 「金子堅太郎」の意味・読み・例文・類語

かねこ‐けんたろう〔‐ケンタラウ〕【金子堅太郎】

 
18531942  

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精選版 日本国語大辞典 「金子堅太郎」の意味・読み・例文・類語

かねこ‐けんたろう【金子堅太郎】

 

(一)
 

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改訂新版 世界大百科事典 「金子堅太郎」の意味・わかりやすい解説

金子堅太郎 (かねこけんたろう)
生没年:1853-1942(嘉永6-昭和17)


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「金子堅太郎」の解説

金子 堅太郎
カネコ ケンタロウ


肩書
法相,農相,日米協会初代会長

別名
号=渓水

生年月日
嘉永6年2月4日(1853年)

出生地
筑前国福岡(福岡県)

学歴
ハーバード大学法律学科〔明治11年〕卒

経歴
明治4年藩主とともに岩倉具視使節団に同行して渡米、ハーバード大学で学ぶ。11年帰国後、大学予備門講師、元老院権少書記官となり、制度取調局で伊藤博文のもと大日本帝国憲法起草に参画。18年第1次伊藤内閣の首相秘書官、枢密院議長秘書官。22年議会制度調査のため渡米。23年帰国、貴族院書記官長、農商務次官から第3次伊藤内閣で農商務相。33年第4次伊藤内閣の司法相。同年立憲政友会創立に参加。37年日露戦争開戦と同時に秘密大使として渡米、ルーズベルト大統領相手の戦時諒解工作に当たり、日露講和を有利に導いた。39年から枢密顧問官。大正6年初代日米協会会長。昭和9年伯爵。10年天皇機関説に反対し、軍部革新派に協力した。

受賞
ハーバード大学名誉法学博士号〔明治32年〕

没年月日
昭和17年5月16日

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20世紀日本人名事典 「金子堅太郎」の解説

金子 堅太郎
カネコ ケンタロウ

明治期の政治家,伯爵 法相;農相;日米協会初代会長。



生年
嘉永6年2月4日(1853年)

没年
昭和17(1942)年5月16日

出生地
筑前国福岡(福岡県)

別名
号=渓水

学歴〔年〕
ハーバード大学法律学科〔明治11年〕卒

主な受賞名〔年〕
ハーバード大学名誉法学博士号〔明治32年〕

経歴
明治4年藩主とともに岩倉具視使節団に同行して渡米、ハーバード大学で学ぶ。11年帰国後、大学予備門講師、元老院権少書記官となり、制度取調局で伊藤博文のもと大日本帝国憲法起草に参画。18年第1次伊藤内閣の首相秘書官、枢密院議長秘書官。22年議会制度調査のため渡米。23年帰国、貴族院書記官長、農商務次官から第3次伊藤内閣で農商務相。33年第4次伊藤内閣の司法相。同年立憲政友会創立に参加。37年日露戦争開戦と同時に秘密大使として渡米、ルーズベルト大統領相手の戦時諒解工作に当たり、日露講和を有利に導いた。39年から枢密顧問官。大正6年初代日米協会会長。昭和9年伯爵。10年天皇機関説に反対し、軍部革新派に協力した。

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朝日日本歴史人物事典 「金子堅太郎」の解説

金子堅太郎

 
17.5.16(1942)
6.2.4(1853.3.13)
,,,3(1870),4,使1878,寿187811,,,,()17調,,,,,,,(190405),,,9(1934)<参考文献>  
()
 

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「金子堅太郎」の意味・わかりやすい解説

金子堅太郎
かねこけんたろう
(1853―1942)

明治時代の官僚、政治家。伯爵。嘉永(かえい)6年2月4日生まれ。福岡藩出身。1871年(明治4)藩主黒田長知(くろだながとも)に随行して渡米、1878年ハーバード大学法律学科を卒業して帰国。同級に後の大統領セオドア・ルーズベルトがいた。伊藤博文(いとうひろぶみ)の知遇を得、1885年総理大臣秘書官となり、ついで枢密院議長秘書官から貴族院議員になる。この間、明治憲法の調査起草にあたり、とくに衆議院議員選挙法や貴族院令など付属法の起草に貢献。1898年第三次伊藤内閣の農商務相、1900年(明治33)第四次伊藤内閣の司法相を歴任した。1906年枢密顧問官となり、自ら「憲法の番人」と称していた。維新史料編纂会(へんさんかい)総裁として歴史の編纂にもあたった。昭和17年5月16日没。

[佐々木克]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金子堅太郎」の意味・わかりやすい解説

金子堅太郎
かねこけんたろう

 
[]6(1853).2.4. 
[]1942.5.16. 
4 (1871)  1878859821900使  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「金子堅太郎」の解説

金子堅太郎
かねこけんたろう


1853.2.41942.5.16

1890(23)34981906

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百科事典マイペディア 「金子堅太郎」の意味・わかりやすい解説

金子堅太郎【かねこけんたろう】

 
187118781880︿()  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金子堅太郎」の解説

金子堅太郎 かねこ-けんたろう

1853-1942 明治-昭和時代前期の官僚,政治家。
嘉永(かえい)6年2月4日生まれ。明治18年首相秘書官となり,翌年から伊藤博文のもとで井上毅(こわし)・伊東巳代治(みよじ)とともに憲法起草に参画。第3次伊藤内閣の農商務相,第4次伊藤内閣の法相をつとめた。貴族院議員。昭和17年5月16日死去。90歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。ハーバード大卒。号は渓水。

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旺文社日本史事典 三訂版 「金子堅太郎」の解説

金子堅太郎
かねこけんたろう

1853〜1942
明治〜昭和期の政治家
福岡藩出身。明治初年,藩留学生として渡米し法律学を学ぶ。帰国後元老院大書記官に就任。伊藤博文のもとで井上毅・伊東巳代治らと大日本帝国憲法起草に尽力。のち伊藤内閣の農商務相・法相,枢密顧問官などを歴任した。

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367日誕生日大事典 「金子堅太郎」の解説

金子 堅太郎 (かねこ けんたろう)

生年月日:1853年2月4日
明治時代の伯爵;官僚;政治家。首相秘書官
1942年没

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世界大百科事典(旧版)内の金子堅太郎の言及

【速記】より

…そののち速記の利用分野は口述(矢野竜渓《経国美談》),講演(外山正一《漢字廃すべき論》),地方議会(埼玉県会)などに及んだが,とくに三遊亭円朝述《怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)》(1884)に始まる講談速記(速記本)は広く世人に親しまれ,また言文一致の推進力ともなった。当時の最大の目標は帝国議会の速記であったが,これも金子堅太郎(初代貴族院書記官長)の英断によって第1議会(1890)から実現し,日本憲政史の大きな誇りとなった。そのため田鎖には1894年には藍綬褒章(らんじゆほうしよう),96年には年金300円終身下賜ということまで行われた。…

※「金子堅太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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