日露戦争(読み)ニチロセンソウ

デジタル大辞泉 「日露戦争」の意味・読み・例文・類語

にちろ‐せんそう〔‐センサウ〕【日露戦争】

 
371904T  

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精選版 日本国語大辞典 「日露戦争」の意味・読み・例文・類語

にちろ‐せんそう‥センサウ【日露戦争】

  1. 明治三七~三八年(一九〇四‐〇五)満州・朝鮮の支配権をめぐって争われた日本とロシアとの戦争。同三七年二月宣戦布告。日本は同年八月以降の旅順攻撃、翌年三月の奉天会戦、五月の日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達していた。一方、ロシアも相続く敗退や国内の革命勃発などによって戦争終結を望むようになり、同三八年九月、アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和条約を締結。

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改訂新版 世界大百科事典 「日露戦争」の意味・わかりやすい解説

日露戦争 (にちろせんそう)


1904-0537-38調

18981896=98西=

 1900︿寿021調

190241030342710使沿39°

 1150km12212沿0411沿1

 190002退退A.M.034278E.I.退

 281083退11

190312128105退614892退38360513

 19055

20100調480000510411

 190412051

 

19053T.57寿使使8102995調50°沿

79調9576520

 1


22241西25272︿12345

 1907121750043400609001925200888︿6


西19Aleksandr Mikhailovich Bezobrazov1855-?190428調

 退051︿305

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日露戦争」の意味・わかりやすい解説

日露戦争
にちろせんそう

1904年(明治37)2月より翌1905年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。

[藤村道生]

国際的背景


()()()()()西()寿()調()19021()


開戦の動因


()190348()10調()()()()

 ()190368()使()退()101219042410


戦争の経過

国力が乏しく長期戦に耐えることのできない日本の戦略は、ヨーロッパの増援を受けないうちに満州のロシア軍を撃滅し、戦況が優勢のうちに英米に依頼して講和することであった。戦費と軍需品も英米に依存していたから、援助を引き出し外債募集に成功するためにも早期に戦果をあげる必要があった。短期決戦と奇襲、英米との協調を軸に対露作戦計画が立案され、宣戦布告に先だつ仁川(じんせん)沖海戦と陸軍の韓国上陸、連合艦隊(司令長官東郷平八郎(とうごうへいはちろう))の旅順港夜襲が強行され、金子堅太郎が講和の斡旋(あっせん)依頼に、また日銀総裁高橋是清(これきよ)が外債募集のためにそれぞれ米、英に派遣された。

 第一軍(司令官黒木為楨(ためもと))は韓国を制圧、その圧力下に2月日韓議定書を結び、ついで8月に第一次日韓協約を締結して事実上の保護国とした。海軍は、黄海(こうかい)の制海権を確保し陸軍を遼東(りょうとう)半島に輸送するため旅順港の封鎖を図り、その一環として広瀬武夫らの決死隊が同港閉塞(へいそく)作戦を強行した。第二軍(司令官奥保鞏(おくやすかた))は5月遼東半島に上陸、南山激戦ののち第一軍、第四軍(司令官野津道貫(のづみちつら))とともに遼陽(りょうよう)決戦を目ざした。旅順要塞(ようさい)攻囲のため第三軍(司令官乃木希典(のぎまれすけ))を編成、以上各軍の統一指揮にあたる満州軍総司令部(総司令官大山巌(いわお))を置き、児玉源太郎(こだまげんたろう)を総参謀長とした。8月、ロシアの旅順艦隊はウラジオストクを目ざして脱走を図ったが、連合艦隊主力はこれを敗走させ(黄海海戦)、第二艦隊(長官上村彦之丞(かみむらひこのじょう))は陽動作戦中のウラジオ艦隊を撃破した(蔚山(うるさん)沖海戦)。第三軍は旅順に対し総攻撃したが兵力の3分の1を失って挫折(ざせつ)。北進軍(第一、二、四軍)ものちに海軍の広瀬中佐とともに軍神として喧伝(けんでん)された橘周太(たちばなしゅうた)中佐以下2万4000の死傷者を出し、遼陽は占領したが戦略目標のロシア野戦軍の殲滅(せんめつ)に失敗し、日本の望んだ早期終戦の可能性は去った。

 ロシアは当初、革命運動に備えて有力な兵団を首都周辺に配置していたが、敗戦は革命的機運を助長するとみて、現役兵の増援とバルチック艦隊の遠征を決定した。10月、ロシア軍の反撃で沙河(さか)会戦が発生、日本軍は苦戦のすえ撃退した。バルチック艦隊の出発で緊急課題となった旅順攻略のため、大本営は予備戦力の全部を投入、児玉総参謀長が直接指揮して二〇三高地(爾霊(にれい)山)を奪取、大きな犠牲を払って翌1905年1月開城に成功した(これまでの半年の戦争で約6万人の戦死者が出ている)。3月、奉天会戦で日本は辛勝したが、ロシア軍の包囲殲滅に失敗し、戦力の限界から講和は急務となった。5月、東郷艦隊は遠征のバルチック艦隊を撃滅し、海軍力を失ったロシアも講和を決意した。

[藤村道生]

反戦運動


19043()()()()190516


講和

日本の依頼を受けたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、6月両国に講和を勧告。8月ポーツマスで講和会議が開かれた。日本の小村寿太郎(じゅたろう)全権は戦費賠償金を要求したが、ウィッテ全権は再戦すればロシア必勝の形勢にある満州戦線の実状を背景に拒否した。結局日本は、朝鮮における優越権、遼東半島租借権、東清鉄道南満支線、南樺太(からふと)、沿海州漁業権を得ることとなった。それは日本政府が絶対的必要条件としたものをすべて満足させ、さらに南樺太という相対的必要条件の一部さえ満たしていた。しかし償金がなく戦後の生活も困難であるとみた国民の一部は、ポーツマス条約調印日の9月5日、講和反対の国民大会を開き、日比谷焼打(ひびややきうち)事件に戦争中の不満を吐き出した。

[藤村道生]

戦争の影響


19101906()



1959

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百科事典マイペディア 「日露戦争」の意味・わかりやすい解説

日露戦争【にちろせんそう】

 
190015190368190428104810335900019051330()5T.89寿調
2  

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日露戦争」の意味・わかりやすい解説

日露戦争
にちろせんそう

 
190405 ()  1898 ()  1896 1891 1904 18941904 1903
1904285258101482894退10 190511323352597 A.N.退527 ()  Z.P. 190410
調190581095 ()  108 31.8t3791  

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「日露戦争」の解説

日露戦争(にちろせんそう)


19042810810()051135810()()95調1

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日露戦争」の解説

日露戦争
にちろせんそう

1904~05年(明治37~38)に韓国および満州の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。日清戦争後,韓国ではロシアの進出により日本の勢力は後退し,満州でもロシアは1896年以降東清鉄道敷設,旅順・大連租借など急速に進出した。99年義和団の乱がおこるやロシアは満州占領を継続し,日本はこれに対抗して1902年日英同盟を結んで立場を強化し,対露交渉にのぞんだが決裂した。04年2月,日本軍は仁川に上陸,仁川・旅順港のロシア艦隊を奇襲攻撃,2月10日宣戦布告した。第1軍は韓国を北進し鴨緑江(おうりょっこう)の戦に勝ち,遼東半島に上陸した第2軍も南山で苦戦したが,第3軍に旅順攻略を委ね第4軍とともに北上した。第1・2・4軍は遼陽の会戦に勝利したが,黒溝台の戦などで苦戦を続けた。旅順攻撃も総攻撃の繰り返しで犠牲は多大であったが,ようやく05年1月に占領し,日本軍は全力で奉天においてロシア軍主力に決戦を挑み占領。しかし兵力・弾薬を消耗し尽くし,日本はアメリカの仲介による講和に期待した。5月ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本艦隊に敗北するや,T.ローズベルト米大統領が講和に乗りだし,9月5日ポーツマスで講和条約が調印された。これにより日本は韓国を保護国化し,南満州を勢力範囲とした。日本の動員兵力は約108万人,戦費20億余円,うち12億円は内外債であった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「日露戦争」の解説

日露戦争
にちろせんそう

1904年2月から翌年9月まで行われた,満州・朝鮮をめぐる日本とロシアとの戦争
日清戦争後,朝鮮支配の確立と満州進出をめざす日本と,義和団事件に乗じて満州を占領し,さらに朝鮮進出を企てたロシアとの対立が激化し,日本はロシアの極東での南下策に脅威を感じたイギリスに接近し,1902年日英同盟を結んだ。アメリカもまた日本に好意的であった。この国際環境を背景に1904年2月日本はロシアと開戦し,奉天会戦・日本海海戦などでロシアを圧倒したが,戦力の消耗と大きな経済的負担に苦しんだ。ロシアもツァーリズムの矛盾激化に伴う革命勢力が増大し,第1次ロシア革命などに悩まされ,アメリカ大統領T.ローズヴェルトの仲介の下に,1905年9月ポーツマス条約を結び,戦争を終結させた。この結果,日本は朝鮮における優越権,旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道に関する諸権利,南樺太を得て大陸進出政策を強化し,アメリカ・イギリスとの利害対立が生じた。ロシアは極東での南下策を阻まれたため,ほこ先をバルカンに転じてドイツ・オーストリアとの対立を深め,ドイツの躍進に脅かされていたイギリスに接近,国際関係に大きな変化を生んだ。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「日露戦争」の解説

日露戦争
にちろせんそう

 
190437'05
'02'042 '053 '051=91020  

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防府市歴史用語集 「日露戦争」の解説

日露戦争

 1904年(明治37年)日本とロシアの間で起きた戦争で、主に中国大陸が戦場となりました。日本は有利に戦いをすすめましたが、犠牲も多く、人も物資も戦争を続けていくのには限界があったため、翌年、アメリカのルーズベルト大統領のはたらきかけにより、両国の間に条約が結ばれて戦争は終わりました。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

世界大百科事典(旧版)内の日露戦争の言及

【海軍】より

…海軍力では全体ではロシアが優勢だったが,日本側が新鋭艦を多く擁し,訓練・戦法にも優れ,連合艦隊は日本海海戦でロシア艦隊に大勝利を収めた。日露戦争後,日本海軍はアメリカを仮想敵国として大規模な軍備拡張に向かった。各国による建艦競争が始まると,軍艦の国産化を達成した日本は八八艦隊の実現をめざした。…

【朝鮮駐劄軍】より

…日露戦争開戦直後に編成され,日韓併合を経て日本による植民地支配の時期を通じて朝鮮に駐屯した日本の陸軍。日朝修好条規締結(1876)後,日本の陸軍部隊が朝鮮に常駐したのは,1882年壬午軍乱後結ばれた済物浦条約にもとづき,ソウルに駐屯した守備隊をはじめとする。…

【日韓併合】より


18962使 1904

※「日露戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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