デジタル大辞泉
「陳紹禹」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
ちん‐しょうう‥セウウ【陳紹禹】
(一)中国の政治家。別名、王明。モスクワ留学からの帰国後、中国共産党内の対立で李立三路線に対抗し、一九三一年に総書記に就任。モスクワで客死。︵一九〇七‐七四︶
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
陳紹禹 (ちんしょうう)
Chén Shào yǔ
生没年:1907-74
中国の共産党員。別名王明。安徽省人。武昌の中華大学在学中,学生運動に活躍,1925年中国共産党に入党,同年党からモスクワの中山大学へ留学生として派遣され,27年一時帰国,のち再びソ連に行き,中山大学の党部を掌握して,スターリン派のミフの支持の下に,当時かなり多数を占めていた留学生中のトロツキー派の粛清に奔走した。29年帰国し,モスクワ留学生派の領袖として,李立三路線に反対し,31年1月の党第6期4中全会で李立三ならびに瞿秋白︵くしゆうはく︶らを徹底的に批判して党の指導権を掌握,6月党総書記の地位についた。中国での大衆闘争の経験をほとんどもたぬ若い彼がこの最高地位につけたのは,スターリン,直接にはコミンテルン東方局代表ミフの強力な支持と,レーニン,スターリンの著作に通暁した理論家としての能力による。
当時彼が書いた︿二つの路線の闘争﹀という文献は,35年の遵義︵じゆんぎ︶会議まで党の最高指針とされたが,この間,︿党のボルシェビキ化﹀というスローガンの下で,大衆と密着した経験に富んだ多くの党員が右派としててきびしい打撃を受けた。また李立三の性急な都市武装暴動路線は否定され,紅軍とソビエトの意義は承認されたが,中国革命の長期性と農村から都市を包囲するという中国革命の特殊性は認識されず,極左路線は克服されなかった。31年10月,彼は三たびソ連に行き,コミンテルン執行委員となり,35年抗日統一戦線をよびかける︿八・一宣言﹀を発表,同年のコミンテルン7回大会で︿植民地・半植民地の革命運動ならびに共産党の戦術﹀という演説を行った。38年帰国,延安に入ったが,ソ連防衛という“国際”的責務と中国革命の関係および統一戦線における国民党との関係をめぐって,ソ連防衛より中国革命の勝利を第一義的課題であるとして党の指導権を獲得した毛沢東と鋭く対立した。延安の整風運動は,陳紹禹の影響力の一掃をめざしたものである。建国後,党中央委員,人民政治協商会議全国委員,最高法院人民委員などの要職を歴任したのち,病気療養の名目でソ連に入り,以後帰国することなく,この地で病死した。この間文化大革命と毛沢東路線を強く批判する諸論文を多数発表した。︽王明選集︾全5巻︵1975︶,︽王明回想録︾︵1976︶がある。
執筆者‥小島 晋治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
陳紹禹
ちんしょうう
Chen Shao-yu
[没]1974.3.27. モスクワ
中国の政治家。中国共産党の一時期の最高指導者。筆名は王明,韶王,慕石など。武昌商業大学 (上海大学との説もある) で学生活動家となり,1925~27年モスクワの中山大学に留学し共産党に加入。副学長の P.ミフの指導を受け,卒業後も大学に残ってコミンテルンの活動にも従事。29年秋帰国し中央宣伝部などで活動,李立三路線に反対,李立三を失脚させ,31年1月の四中全会で中央委員,中央政治局長となって,秦邦憲とともに以後35年1月の遵義会議まで続くいわゆる第3次極左路線の指導体制を築いた。31~37年モスクワにコミンテルン駐在の中国共産党代表として滞在。35年8月の八・一宣言で抗日統一戦線への政策転換を主導。37年11月帰国し,統一戦線工作部副部長,国民参政会の共産党代表の一人に選ばれた。国民党との提携を中心とする抗日民族統一戦線を構想したため,毛沢東と対立しはじめ,40年頃から急速に影響力を失った。49年人民共和国成立とともに政務院政治法律委員会副主任,法制委員会主任に任命されたが,54年9月憲法制定に伴う政府改組に際して,すべての政府関係の官職からはずされた。56年9月の八全大会で中央委員に再選されたが名目的なものにすぎなかった。56年モスクワへ行き,文化大革命期の69年3月から文革批判,毛沢東批判を行い,当地で死去。著書に﹃抗日救国政策﹄などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
陳紹禹
ちんしょうう / チェンシャオユー
(1907―1974)
中国の政治家。別名王明。安徽(あんき)省の生まれ。上海(シャンハイ)大学卒業後、共産党に入党、1925年からモスクワの中山大学に留学し、校長︵兼コミンテルン代表︶ミフの薫陶を受けた。1930年、共産党内で路線対立があり、ロシア留学生派を結集して李立三(りりっさん)路線に対抗、毛沢東(もうたくとう)をも抑えて1931年の四中全会で党の指導権を握り、総書記の地位︵~1935︶についた。彼の路線は都市工作重点型でコミンテルンの指示によるところが多い。1931年モスクワに行き、1938年に帰国、その後は党内の影響力が落ちたが、1945、1956年と党中央委員に選任され、モスクワで客死した。
﹇加藤祐三﹈
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
陳紹禹【ちんしょうう】
中国の政治家。安徽(あんき)省の人。別名王明。中国共産党に入党しソ連に留学。李立三(りりつさん)コースを批判し,1931年党総書記となり実権を把握。都市工作重点主義をとり,1935年の遵義会議まで極左路線を指導。抗日戦中は右翼日和見主義に傾く。解放後は中央委員となったが,失脚説もある。
→関連項目抗日戦争
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
陳紹禹(ちんしょうう)
Chen Shaoyu
1904~74
中国現代の政治家。建国前の中国共産党の指導者。安徽(あんき)省六安の人。別名王明。1925年共産党に入党。ソ連留学後,留ソ派という派を形成。李立三(りりつさん)を批判して総書記となり,コミンテルン中国代表となった。のち﹁右翼日和見(ひよりみ)主義者﹂として批判されて失脚した。56年よりモスクワに在住し,ソ連の立場から毛沢東を激しく批判した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の陳紹禹の言及
【紅軍】より
…紅軍の兵力も最高30万に達した。しかしコミンテルンの意向を背景に正規戦を主張する王明(陳紹禹),博古(秦邦憲)ら留ソ派と対立して,毛沢東が軍の指導権を奪われたこと,蔣介石が第5次作戦でトーチカを築いてじり押しに包囲圏を縮める作戦をとったことによって,紅軍は34年10月瑞金を放棄して︿[長征]﹀を余儀なくされた。 貴州,雲南,四川など11省を迂回した紅軍は35年10月第1陣の第1方面軍が陝西北部に到着,新たな根拠地をつくったが,総兵力は3万に減っていた。…
【抗日戦争】より
… 当初,中共党内には深刻な路線の対立があった。コミンテルンを背景にもつ陳紹禹(王明)らは,国民党の抗日の積極性とソ連,イギリス,アメリカの国際的支援の効果を過大に評価し,日本の軍事的経済的実力を過小に評価し,戦争は短期間で勝利するとみた(速勝論)。したがって国民政府の正規軍が抗日の主力であり,中共の軍隊は蔣介石の統一指揮に服すべきだとして独自の遊撃戦略に反対した。…
【抗日民族統一戦線】より
…一二・九運動,[西安事件]によって蔣介石も討共優先の政策の転換をよぎなくされ,国共再合作が実現した。このなかで中共党内には蔣介石集団の抗日の積極性を高く評価し,中共指導下の軍隊も国民党の統一指導にゆだねるべきだとする陳紹禹(王明)ら――その背景にはコミンテルンがあった――の有力な主張があった。これに対し毛沢東らは,蔣介石ら英米派の大地主・大ブルジョア集団は抗日陣営のなかの右翼頑迷派であり,抗日の主力とはなりえない,抗日は中国の民族革命=反帝反封建革命の一環であり,労働者,農民に依拠し,民族ブルジョアなど中間階級をまきこみ,大衆的な武装抵抗の運動となってはじめて勝利できる,統一戦線の拡大強化のためには︿独立自主﹀の原則をつらぬき,軍と抗日根拠地に対する中共の指導権を断固として保持すべきである,国民党に対しては︿連合﹀して抗日戦争を進めるとともに,人民大衆の動員をはばむ反人民的側面とは︿闘争﹀せねばならず,またそうしてこそ統一=合作は守りうる,との立場をとった。…
【中国共産党】より
…中共がこれを李立三の戦術的誤謬として処置したのに対し,コミンテルンは右翼的路線の誤りだとして中共指導部の改組に乗り出した。31年1月,[陳紹禹](王明)らソ連留学生出身者が中共中央を掌握し,右翼偏向との闘争を呼号して,ソ連の経験と理論を教条的に中国革命に持ちこんできた(第3次極左路線)。彼らは中間勢力を主敵として対処し,〈満州事変〉後の愛国運動の高揚からみずからを孤立させ,党内では派閥を固め,無原則な党内闘争,反革命粛清を拡大して中共の団結と戦闘力をみずから弱めた。…
※「陳紹禹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」