日本歴史地名大系 「龍興寺」の解説
龍興寺
りゆうこうじ
[現在地名]館林市高根
現高たか根ねの南部、国道一二二号と平行して北西に走る東武伊勢崎線の北側にある。妙高山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏。文永一一年︵一二七四︶高根院賢叟休心大居士の開基という。また開山は徳治元年︵一三〇六︶大拙祖能禅師で当時高根寺と称したともいう︵邑楽郡誌︶。嘉暦三年︵一三二八︶四月八日の三善貞広寄進状案︵長楽寺文書︶にみえる﹁高根郷内弘願寺﹂は、境内の規模・位置などから当寺の前身と考えられる。同状に添えられたとみられる寺領注文案︵同文書︶では、貞広相伝の所領である佐さぬ貫き庄内の高根郷・鳴なる島しま郷・羽はね継つぐ郷、江え矢や田だ郷︵現邑楽郡板倉町︶、千せん津づ井い郷︵現同郡明和村︶、赤あか岩いわ郷︵現同郡千代田町︶、鉢はち形がた郷、料りよ米うまい保︵現太田市︶と、下野国羽はね田だ郷︵現栃木県佐野市︶の名田畠が弘ぐが願ん寺に寄せられている。
龍興寺
りようこうじ
龍興寺
りゆうこうじ
[現在地名]騎西町上崎
騎西町の西端を流れる見沼代用水︵星川︶の東岸に位置する。臨済宗円覚寺派。大光山と号し、本尊は釈迦如来。延宝六年︵一六七八︶に住僧大渓の作成した記録には大同元年︵八〇六︶の創建と記されていたが定かではない。中興開山は曇芳といい、永享八年︵一四三六︶没。曇芳は鎌倉公方足利持氏の伯父と伝えられている︵風土記稿︶。曇芳が持氏の伯父であったかどうかは不明だが、少なからず関係はあったとみられ、持氏の孫にあたる足利政氏は、当寺が持氏の位牌所であるため材室良西堂に寺領を安堵、足利義氏も当寺住持虎渓に寺領として上かみ崎さき村を安堵したという︵龍興寺文書︶。また、寛文五年︵一六六五︶住職昌意の作成した由緒書上︵同文書︶によると、当寺には持氏らの石塔三基を安置していることが記載されている。
龍興寺
りようこうじ
龍興寺
りゆうこうじ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報