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{{基礎情報 過去の国 |
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| 国章幅 = 95 |
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| 国歌 = [[女王陛下万歳|{{lang|en|God Save the King}}]]{{en icon}}<br/>''神よ国王陛下を守り給え''<br/>{{center|[[file:God Save The Queen, Íslands minni, Oben am jungen Rhein, Kongesangen and Rufst du, mein Vaterland (1930s; instrumental).ogg]]}} |
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|国歌追記 = |
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| 位置画像説明 = 大英帝国統治下の経験を有する国・地域。 |
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| 元首等年代始2 = 1952年 |
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| 首相等年代始2 = 1997年 |
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|変遷2 = [[アメリカ合衆国の独立]]を承認 |
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[[File:Arthur Mees Flags of A Free Empire 1910 Cornell CUL PJM 1167 01.jpg|thumb|[[1909年]]当時のイギリス勢力範囲。]] |
[[File:Arthur Mees Flags of A Free Empire 1910 Cornell CUL PJM 1167 01.jpg|thumb|[[1909年]]当時のイギリス勢力範囲。]] |
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'''大英帝国'''︵だいえいていこく、{{lang-en|British Empire}}︶は、[[イギリス]]とその[[植民地]]・[[海外領土]]などの総称である。'''イギリス帝国'''︵イギリスていこく︶、'''[[グレートブリテン]]帝国'''ともいい{{Sfn|平田|2015|p=487 (33)}}{{Sfn|日髙|2016|p=17}}、﹁グレートブリテン﹂︵[[大英]]︶という地名は﹁[[リトルブリテン]]﹂との区別に由来する{{Sfn|Hunter|1995|p=1305}}。{{関連記事|グレートブリテン王国}}
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帝国は時代ごとの性質により、以下のように区分される。 |
帝国は時代ごとの性質により、以下のように区分される。 |
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# [[アイルランド]]や[[北アメリカ大陸]]に入植し、北米植民地および[[カリブ海]][[植民地]]との貿易を中心にした時代。 |
# [[アイルランド]]や[[北アメリカ大陸]]に入植し、[[13植民地|北米植民地]]および[[カリブ海]][[植民地]]との[[貿易]]を中心にした時代。 |
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# [[アメリカ合衆国|アメリカ]]独立から[[アジア]]・[[アフリカ]]に転じて最盛期を築いた[[19世紀]]半ばまでの自由貿易時代。 |
# [[アメリカ合衆国|アメリカ]]独立から[[アジア]]・[[アフリカ]]に転じて最盛期を築いた[[19世紀]]半ばまでの自由貿易時代。 |
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# [[自由貿易]]を維持しつつも[[ドイツ帝国]]など後発工業国の追い上げを受け植民地拡大を行った[[帝国主義]]時代。 |
# [[自由貿易]]を維持しつつも[[プロイセン王国]](後の[[ドイツ帝国]])など後発[[工業国]]の追い上げを受け植民地拡大を行った[[帝国主義]]時代。 |
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# [[20世紀]]に入って各植民地が独自の外交権限を得た[[ウェストミンスター憲章]]以後の時代。 |
# [[20世紀]]に入って各植民地が独自の外交権限を得た[[ウェストミンスター憲章]]以後の時代。 |
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一般に大英帝国と呼ばれるのは、特に3と4の時代である。1と2を﹁第1帝国﹂、3と4を﹁第2帝国﹂と呼び、後者の繁栄を象徴するものとしては[[ケーブル・アンド・ワイヤレス|イースタン・テレグラフ・カンパニー]]︵大東電信会社︶の[[海底ケーブル]]が挙げられる。また大英帝国の植民地支配が世界中に広がったことで[[英語]]が世界の多くの地域で日常語、公用語として用いられるようになった。その結果、英語は事実上の国際語、世界共通語として用いられるようになった<ref>{{Cite Kotobank|word=英語|encyclopedia=百科事典マイペディア|accessdate=2021年2月6日}}</ref>。
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一般に大英帝国と呼ばれるのは、特に3と4の時代である。1と2を﹁第1帝国﹂、3と4を﹁第2帝国﹂と呼び、後者の繁栄を象徴するものとしては[[ケーブル・アンド・ワイヤレス|イースタン・テレグラフ・カンパニー]]︵大東電信会社。後の'''C&W'''︶の[[海底ケーブル]]が挙げられる。また大英帝国の植民地支配が[[世界]]中に広がったことで[[英語]]が世界の多くの地域で日常語、[[公用語]]として用いられるようになった。その結果、英語は事実上の国際語、世界[[共通語]]として用いられるようになった<ref>{{Cite Kotobank|word=英語|encyclopedia=百科事典マイペディア|accessdate=2021年2月6日}}</ref>。
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[[1898年]]当時[[ハリファックス]]から[[ネルソン (ニュージーランド)|ネルソン]]まで世界横断したC&Wのケーブルは、鉱産資源が産出する[[バルパライソ]]-[[ブエノスアイレス]]-[[モンテビデオ]]間、[[ケープタウン]]-[[ダーバン]]間、[[ムンバイ]]-[[チェンナイ]]間、[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ダーウィン]]-[[アデレード]]-[[シドニー]]間の4区間だけ陸上を通った<ref>''A Century of Service Cable and Wireless Ltd. 1868-1968'', Bournehall Press, London, 1969, "The Eastern Associated Telegraph Companies Cable Routes 1898"</ref>。これらの鉱産資源は大英帝国の手中にあり、今日も英米系大企業が利権を維持している。 |
[[1898年]]当時[[ハリファックス]]から[[ネルソン (ニュージーランド)|ネルソン]]まで世界横断したC&Wの海底ケーブルは、[[資源#鉱産資源|鉱産資源]]が産出する[[バルパライソ]] - [[ブエノスアイレス]] - [[モンテビデオ]]間、[[ケープタウン]] - [[ダーバン]]間、[[ムンバイ]] - [[チェンナイ]]間、[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ダーウィン]] - [[アデレード]] - [[シドニー]]間の4区間だけ陸上を通った<ref>''A Century of Service Cable and Wireless Ltd. 1868-1968'', Bournehall Press, London, 1969, "The Eastern Associated Telegraph Companies Cable Routes 1898"</ref>。これらの鉱産資源は大英帝国の手中にあり、今日も英米系[[大企業]]が[[利権]]を維持している。
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大英帝国は、その全盛期には全世界の陸地と人口の4分の1を版図に収め |
大英帝国は、その全盛期には[[世界の地理|全世界の陸地]]と[[世界人口|人口]]の4分の1を版図に収め、[[帝国の最大領域一覧|世界史上最大の領土面積]]を誇った帝国である{{sfn|中西輝政|1997|p=154}}。当時唯一の[[超大国]]と呼べる地位にあり、[[第一次世界大戦]]終結から[[第二次世界大戦]]までの間は、[[アメリカ合衆国]]と同等の二大超大国であった。第二次世界大戦後、イギリスは各植民地を独立させることで[[イギリス連邦]]を発足させ、超大国の地位から離れた。
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イギリス帝国の終期は諸説あるが、早いものでは[[第一次世界大戦]]後の[[アメリカ合衆国]]の台頭や、ウェストミンスター憲章制定を以て終わりとする説、遅いものでは[[第二次世界大戦]]後の1947年に、最大の植民地である[[イギリス領インド帝国]]が[[インド]]と[[パキスタン]]として独立し、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]のアングロサクソン移民地域も主権国家として独立した時期とする説などがある。 |
イギリス帝国の終期には諸説あるが、早いものでは[[第一次世界大戦]]後の[[アメリカ合衆国]]の台頭や、ウェストミンスター憲章制定を以て終わりとする説、遅いものでは[[第二次世界大戦]]後の[[1947年]]に、最大の植民地である[[イギリス領インド帝国]]が[[インド]]と[[パキスタン]]として独立し、[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]の[[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン]][[移民]]地域も主権国家として独立した時期とする説などがある。
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イギリス最後の植民地は[[香港]]であり<ref group="注釈">そのころまでには島嶼など微小な﹁植民地﹂は海外領土などに位置づけが変更されていた。</ref>、[[1997年]]の[[香港返還]]をもって一般的にイギリスではイギリス帝国の時代は終焉したとされている<ref>Brendon, Piers (2007). The Decline and Fall of the British Empire, 1781–1997. Random House. ISBN 978-0-224-06222-0. p. 660.</ref><ref>"Charles' diary lays thoughts bare". BBC News. 22 February 2006.</ref><ref>Brown, Judith (1998). The Twentieth Century, The Oxford History of the British Empire Volume IV. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-924679-3. Retrieved 22 July 2009. p. 594.</ref><ref>"Britain, the Commonwealth and the End of Empire". BBC News. Retrieved 13 December 2008.</ref><ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/british/modern/endofempire_overview_07.shtml|title=Britain, the Commonwealth and the End of Empire|publisher=BBC News|accessdate=13 December 2008}}</ref>。
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イギリス最後の植民地は[[イギリス領香港|香港]]であり<ref group="注釈">そのころまでには島嶼など微小な﹁植民地﹂は海外領土などに位置づけが変更されていた。</ref>、[[1997年]]の[[香港返還]]をもって一般的にイギリスではイギリス帝国の時代は終焉したとされている<ref>Brendon, Piers (2007). The Decline and Fall of the British Empire, 1781–1997. Random House. ISBN 978-0-224-06222-0. p. 660.</ref><ref>"Charles' diary lays thoughts bare". BBC News. 22 February 2006.</ref><ref>Brown, Judith (1998). The Twentieth Century, The Oxford History of the British Empire Volume IV. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-924679-3. Retrieved 22 July 2009. p. 594.</ref><ref>"Britain, the Commonwealth and the End of Empire". BBC News. Retrieved 13 December 2008.</ref><ref>{{cite web|url=http://www.bbc.co.uk/history/british/modern/endofempire_overview_07.shtml|title=Britain, the Commonwealth and the End of Empire|publisher=BBC News|accessdate=13 December 2008}}</ref>。
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== 概要 == |
== 概要 == |
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"empire"あるいは"imperial"という言葉はさらに古くから使われてきたが、一般にイギリス帝国という場合、始まりは[[16世紀]]あるいは[[17世紀]]とされる。その正否は問わないことにしても、国外への拡張という事実のみに着目すると、[[1585年]]の[[ロアノーク島]]への植民が、また、実際に成功し後世への連続性を |
"empire" あるいは "imperial" という言葉はさらに古くから使われてきたが、一般にイギリス帝国という場合、始まりは[[16世紀]]あるいは[[17世紀]]とされる。その正否は問わないことにしても、国外への拡張という事実のみに着目すると、[[1585年]]の[[ロアノーク島]]への植民が、また、実際に成功し後世への連続性を持つという点からすると、[[1607年]]の[[ジェームズタウン (バージニア州)|ジェームズタウン]]建設が、それぞれイギリス帝国の開始点となる。いずれにせよ、イギリス帝国が帝国としての実体を備えるには[[13植民地|北米植民地]]と[[カリブ海]]植民地の設立が一段落する17世紀半ばを待たねばならず、イギリス帝国が﹁[[イングランド]]の帝国﹂でなくなるには[[1707年]]の[[合同法 (1707年)|合同]]を待たねばならない。
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[[ファイル:Free Trade and Protection.jpg|サムネイル]] |
[[ファイル:Free Trade and Protection.jpg|サムネイル]] |
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17世紀から[[18世紀]]にかけての帝国は'''イギリス第1帝国'''あるいは'''旧帝国'''とも呼ばれ、[[19世紀]]以降の帝国、特に19世紀 |
先述の通り、17世紀から[[18世紀]]にかけての帝国は'''イギリス第1帝国'''あるいは'''旧帝国'''とも呼ばれ、[[19世紀]]以降の帝国、特に19世紀半ば以降に完成する'''イギリス第2帝国'''と比べると、 |
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# [[北アメリカ]]およびカリブ海植民地中心 |
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# [[重商主義]]政策による[[保護貿易]] |
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# および[[プロテスタント|プロテスタンティズム]] |
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これらによる紐帯の3点を特徴としている。<br /> |
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[[航海条例]]︵航海法︶や[[特許]]会社の[[独占]]など、重商主義的政策による保護貿易は、脆弱であった[[イギリスの経済|イギリス経済]]と植民地経済を保護すると同時に結びつける役割を果たした。また、[[名誉革命]]以降のイギリスは、国内外の[[カトリック教会|カトリック]]勢力を潜在敵と見なしており、当時の帝国は[[フランス]]、[[スペイン]]といったカトリックの大国を'''[[仮想敵国]]'''とした﹁プロテスタントの帝国﹂と考えられていた。
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[[ファイル:British_America.png|サムネイル|[[イギリスによるアメリカ大陸の植民地化]]]] |
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19世紀半ばになるとドイツ、アメリカといった後発工業国の経済的追い上げを受け、また、フランスやドイツ帝国︵後の[[ドイツ国]]︶の勢力伸張もあり、イギリスは再度、植民地獲得を伴う公式帝国の拡大を本格化した。[[インド帝国]]の成立を以て完成する新帝国は﹁イギリス第二帝国﹂とも呼ばれる。[[帝国主義]]の時代とも言われるこの時期ではあるが、イギリスは自由貿易の方針を堅持していた。ドイツなどの保護関税政策に対し、イギリスにも同様の政策が求められなかった訳ではない。19世紀末から[[20世紀]]初頭にかけて、イギリス帝国内での特恵的[[関税]]の導入を求める運動がイギリス産業界から起こされ、[[1887年]]に始まる植民地代表を集めた帝国会議でも度々議題にあがったが、結局、この種の保護政策は[[第二次世界大戦]]前の[[ブロック経済]]の時期まで導入されることはなかった。
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[[第一次世界大戦]]はイギリス帝国再々編の転機となった。大戦前より、各植民地、特に[[白人]][[自治領|自治植民地]]の経済力は向上し、発言権も増していたが、大戦中の[[総力戦]]体制は植民地からの一層の協力を必要とするとともに、その影響力をより大きなものとした。[[1926年]]の[[帝国会議]]では自治植民地に本国と対等の地位が認められ、[[1931年]]の[[ウェストミンスター憲章]]に盛り込まれた。これ以降、イギリス帝国は﹁[[イギリス連邦]]﹂の名で呼ばれることが多くなるが、﹁帝国会議﹂の名称はそのままであった。その後、この名称は第二次世界大戦後まで続き、[[1947年]]に﹁イギリス連邦会議﹂へと変更される。
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⚫ | 19世紀半ばになるとドイツ、アメリカといった後発工業国の経済的追い上げを受け、またフランスや[[ドイツ]]の勢力伸張もあり、イギリスは再度、植民地獲得を伴う公式帝国の拡大を本格化した。[[インド帝国]]の成立を以て完成する新帝国はイギリス第二帝国とも呼ばれる。[[帝国主義]]の時代とも言われるこの時期ではあるが、イギリスは自由貿易の方針を堅持していた。ドイツなどの保護関税政策に対し、イギリスにも同様の政策が求められなかった訳ではない。19世紀末から[[20世紀]]初頭にかけて、イギリス帝国内での特恵的[[関税]]の導入を求める運動がイギリス産業界から起こされ、[[1887年]]に始まる植民地代表を集めた帝国会議でも度々議題にあがったが、結局、この種の保護政策は[[第二次世界大戦]]前の[[ブロック経済]]の時期まで導入されることはなかった。 |
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また[[インド独立運動|インド独立]]を期に、イギリス連邦加盟国家に﹁王冠への忠誠﹂が要求されなくなるなど、イギリス帝国は植民地を放棄し、名実ともにイギリス連邦へと姿を変えることとなった。
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== 名称 == |
== 名称 == |
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[[フランス植民地帝国]]などの講学上の呼称ないし俗称と異なり、British Empireは英国の本土のみを指すUnited Kingdomに対して、本国と植民地を含めた全領域を指す語としてイギリス政府により公式に用いられた。 |
[[フランス植民地帝国]]などの講学上の呼称ないし俗称と異なり、British Empireは英国の本土のみを指すUnited Kingdomに対して、本国と植民地を含めた全領域を指す語としてイギリス政府により公式に用いられた。 |
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日本では永らく﹁大英帝国﹂の訳語が使われてきたが、現在、[[歴史学]]で多く用いられるのは﹁イギリス帝国﹂という表現である。ほかにも、もと[[イングランド]]の[[ポルトガル語]]形に由来する﹁イギリス﹂という曖昧かつ﹁正しくない﹂とされ得る表現で[[ウェールズ]]・[[スコットランド]]・[[アイルランド]]も包含した連合王国︵および植民地︶を指すことを避け、より原語に忠実な﹁ブリテン帝国﹂も使われ始めている。また単に﹁帝国﹂とも呼ばれる場合もある。﹁大英帝国﹂という語も書籍の標題などでは従来と変わらずに使われるが、本文中では基本的に常に鉤括弧を付けて﹁大英帝国﹂と表記される{{efn|name="kondo"|Britishの訳語にない﹁大﹂の字をなぜつけるのかという問題意識が近年台頭してきている<ref>[[#近藤2006|近藤(2006)]]、p.8。</ref>。たとえば﹃大英帝国の伝説﹄︵法政大学出版局︶の原書タイトルは''Myth and National Identity in Nineteenth-Century Britain''で |
[[日本]]では永らく﹁大英帝国﹂の訳語が使われてきたが、現在、[[歴史学]]で多く用いられるのは﹁イギリス帝国﹂という表現である。ほかにも、もと[[イングランド]]の[[ポルトガル語]]形に由来する﹁イギリス﹂という曖昧かつ﹁[[誤用|正しくない]]﹂とされ得る表現で[[ウェールズ]]・[[スコットランド]]・[[アイルランド]]も包含した連合王国︵および植民地︶を指すことを避け、より原語に忠実な﹁ブリテン帝国﹂も使われ始めている。また、単に﹁帝国﹂とも呼ばれる場合もある。﹁大英帝国﹂という語も書籍の標題などでは従来と変わらずに使われるが、本文中では基本的に常に鉤括弧を付けて﹁大英帝国﹂と表記される{{efn|name="kondo"|British の訳語にない﹁大﹂の字をなぜつけるのかという問題意識が近年台頭してきている<ref>[[#近藤2006|近藤(2006)]]、p.8。</ref>。たとえば﹃大英帝国の伝説﹄︵法政大学出版局︶の原書タイトルは ''Myth and National Identity in Nineteenth-Century Britain'' で、直訳すれば﹃19世紀ブリテンの国民意識と伝説﹄となり、大英の文字はない。}}。
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学問以外の領域では標題に限らず、特にイギリス帝国全盛期以降を指して「大英帝国」が一般的に使われている。また「大英帝国」から派生して"British"の訳として「大英」の語がしばしば用いられている。最も有名な例では"the British Museum"に対応する「[[大英博物館]]」、および同博物館図書室が独立し成立した"the British Library"を指す「[[大英図書館]]」が挙げられる。一方で"the British Council"は「[[ブリティッシュ・カウンシル]]」と呼ばれ、"British Commonwealth"は学問・非学問領域を問わず「[[イギリス連邦]]」「英連邦」と呼ばれており、"British"に対応する訳語は必ずしも固定されていない。 |
学問以外の領域では標題に限らず、特にイギリス帝国全盛期以降を指して「大英帝国」が一般的に使われている。また「大英帝国」から派生して "British" の訳として「大英」の語がしばしば用いられている。最も有名な例では"the British Museum"に対応する「[[大英博物館]]」、および同博物館図書室が独立し成立した"the British Library"を指す「[[大英図書館]]」が挙げられる。一方で"the British Council"は「[[ブリティッシュ・カウンシル]]」と呼ばれ、"British Commonwealth"は学問・非学問領域を問わず「[[イギリス連邦]]」「英連邦」と呼ばれており、"British"に対応する訳語は必ずしも固定されていない。 |
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"British Empire"の訳語として「大英帝国」が使われ始めた細かい経緯ははっきりしていない。大まかな経緯としては、Great Britain(大ブリテン)を「大英」と訳したものであると考えられるが、Great Britainはもともとは島([[グレートブリテン島]])の名前であり、このGreatは別名小ブリテンの[[ブルターニュ]]([[フランス]])と区別してのことである。これが転じて大英帝国と呼ばれるようになったのは歴史意識が背景にあるとの指摘{{efn|name="kondo"}}があり、これによれば"Great Britain"と"British Empire"が結合した背景には[[文明開化]]期から[[日英同盟]]締結時にかけての、西洋、特にイギリスを文明の中心と考える見方があるという。またそれに加え、「大英帝国」と「[[大日本帝国]]」という日英同盟を仲立ちとして対比される構図も「大英帝国」という語が定着した背景として無視できない<ref>[[#近藤1998|近藤(1998)]]、pp.5-20。</ref>。 |
"British Empire" の訳語として﹁大英帝国﹂が使われ始めた細かい経緯ははっきりしていない。大まかな経緯としては、Great Britain︵大ブリテン︶を﹁大英﹂と訳したものであると考えられるが、Great Britain はもともとは島︵[[グレートブリテン島]]︶の名前であり、この Great は別名小ブリテンの[[ブルターニュ]]︵[[フランス]]︶と区別してのことである。これが転じて大英帝国と呼ばれるようになったのは歴史意識が背景にあるとの指摘{{efn|name="kondo"}}があり、これによれば "Great Britain" と "British Empire" が結合した背景には[[文明開化]]期から[[日英同盟]]締結時にかけての、[[西洋]]、特にイギリスを[[文明]]の中心と考える見方があるという。またそれに加え、﹁大英帝国﹂と﹁[[大日本帝国]]﹂という日英同盟を仲立ちとして対比される構図も﹁大英帝国﹂という語が定着した背景として無視できない<ref>[[#近藤1998|近藤(1998)]]、pp.5-20。</ref>。
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中国語圏においても大英帝国と呼ばれている<ref>[http://baike.baidu.com/view/97492.htm 大英帝国] 百度百科</ref>。 |
[[中国語圏]]においても大英帝国と呼ばれている<ref>[http://baike.baidu.com/view/97492.htm 大英帝国] 百度百科</ref>。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 植民地以前・帝国の伝統 === |
=== 植民地以前・帝国の伝統 === |
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[[イングランド]]王権が帝国を名乗り始めるのは、植民地獲得よりも大きくさかのぼる。欧州における「帝国」(インペリウム)のもともとの意味は、教皇などの王国外権力から独立していること、ならびに複数の国・勢力を支配下に治めていることである。イングランドにとってのインペリウムにあたるのは、[[スコットランド]]の併呑と宗教改革である。[[七王国]]時代、アングロサクソンの有力な王たちは、他部族を支配するうえで「アングル人の帝国」を名乗り、時折自らを皇帝と称した{{efn|10世紀の[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]はそのひとりである<ref>[[#アーミテイジ2005|アーミテイジ(2005)]]、p.39。</ref>。}}。[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]時代、「イングランドは帝国である」と1533年に宣言した(上告禁止法)のは、教皇の権力をイングランドから除くことを目的にしていた。こうしたインペリウムは、ヨーロッパ各地で教皇から独立せんとするために、または近隣勢力を征服するための大義名分として機能した。スコットランドを併合して「グレイト・ブリテンの帝国」を築こうという主張は伝統的にイングランドのなかで存在していた。 |
[[イングランド]]王権が帝国を名乗り始めるのは、植民地獲得よりも大きくさかのぼる。欧州における「帝国」(インペリウム)のもともとの意味は、[[教皇]]などの王国外権力から独立していること、ならびに複数の国・勢力を支配下に治めていることである。イングランドにとってのインペリウムにあたるのは、[[スコットランド]]の併呑と宗教改革である。[[七王国]]時代、アングロサクソンの有力な王たちは、他部族を支配するうえで「アングル人の帝国」を名乗り、時折自らを皇帝と称した{{efn|10世紀の[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]はそのひとりである<ref>[[#アーミテイジ2005|アーミテイジ(2005)]]、p.39。</ref>。}}。[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]時代、「イングランドは帝国である」と1533年に宣言した(上告禁止法)のは、教皇の権力をイングランドから除くことを目的にしていた。こうしたインペリウムは、ヨーロッパ各地で教皇から独立せんとするために、または近隣勢力を征服するための大義名分として機能した。スコットランドを併合して「グレイト・ブリテンの帝国」を築こうという主張は伝統的にイングランドのなかで存在していた。 |
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=== 北米・カリブ海植民地進出 === |
=== 北米・カリブ海植民地進出 === |
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=== ドミニオンの誕生 === |
=== ドミニオンの誕生 === |
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[[File:British Empire 1921.png|thumb|400px|right|1921年のイギリス帝国の版図。]]
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[[File:British Empire 1921.png|thumb|400px|right|1921年のイギリス帝国の版図。]]
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[[ファイル:British Empire flag RMG L0088.tiff|サムネイル|この{{仮リンク|イギリス帝国の旗|en|British Empire flag}}は、ドミニオンの紋章を組み合わせて、それらの台頭する地位を表しています。]] |
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20世紀初頭には、イギリス帝国の領域は過去最大となったものの、アメリカやドイツの追い上げによって国力の優位は次第に小さなものとなっていった。こうしたなか、特に[[白人]]が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、[[自治領]]︵ドミニオン︶とするようになっていった。最初のドミニオンはカナダで、1867年、[[英領北アメリカ法]]によって3つのイギリス北米植民地が連邦を組んだ際にドミニオンと称するようになった。ついで1901年には6つの植民地が連邦を組んだオーストラリア連邦が自治領化し、[[1907年]]にはニュージーランドと[[ニューファンドランド]]が、[[1910年]]には南アフリカの4植民地を連邦化した[[南アフリカ連邦]]が、それぞれ自治領化した。これらの自治領との連携を深めるため、1887年から開催されてきたそれまでの植民地会議を1907年に帝国会議と改称し、帝国会議に出席できる自治領は従属的なニュアンスを持つ﹁植民地﹂︵Colony︶ではなく﹁ドミニオン﹂︵Dominion︶と正式に称されるようになった。[[第一次世界大戦]]においてはすべてのドミニオン・植民地が参戦したが、この戦いにおいて大きな協力をしたドミニオンは発言権を強め、[[1917年]]には各ドミニオンの代表が参加した帝国戦時内閣が開催された。しかし、戦闘に対する決定権はあくまでもイギリス戦時内閣が握っていた。第一次世界大戦が[[1919年]]に終了すると帝国の支配体制は揺らぎはじめ、[[1921年]]には連合王国の一員でありながらかねてより独立の動きが強かった[[アイルランド]]が独立戦争の末ドミニオンの地位を獲得した。各ドミニオンはさらに独立傾向を強め、[[1926年]]の帝国会議では[[アイルランド自由国]]と[[アフリカーナー]]主体の南アフリカ連邦が帝国離脱を要求。これをうけて、イギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成された。
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20世紀初頭には、イギリス帝国の領域は過去最大となったものの、アメリカやドイツの追い上げによって国力の優位は次第に小さなものとなっていった。こうしたなか、特に[[白人]]が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、[[自治領]]︵ドミニオン︶とするようになっていった。最初のドミニオンはカナダで、1867年、[[英領北アメリカ法]]によって3つのイギリス北米植民地が連邦を組んだ際にドミニオンと称するようになった。ついで1901年には6つの植民地が連邦を組んだオーストラリア連邦が自治領化し、[[1907年]]にはニュージーランドと[[ニューファンドランド]]が、[[1910年]]には南アフリカの4植民地を連邦化した[[南アフリカ連邦]]が、それぞれ自治領化した。これらの自治領との連携を深めるため、1887年から開催されてきたそれまでの植民地会議を1907年に帝国会議と改称し、帝国会議に出席できる自治領は従属的なニュアンスを持つ﹁植民地﹂︵Colony︶ではなく﹁ドミニオン﹂︵Dominion︶と正式に称されるようになった。[[第一次世界大戦]]においてはすべてのドミニオン・植民地が参戦したが、この戦いにおいて大きな協力をしたドミニオンは発言権を強め、[[1917年]]には各ドミニオンの代表が参加した帝国戦時内閣が開催された。しかし、戦闘に対する決定権はあくまでもイギリス戦時内閣が握っていた。第一次世界大戦が[[1919年]]に終了すると帝国の支配体制は揺らぎはじめ、[[1921年]]には連合王国の一員でありながらかねてより独立の動きが強かった[[アイルランド]]が独立戦争の末ドミニオンの地位を獲得した。各ドミニオンはさらに独立傾向を強め、[[1926年]]の帝国会議では[[アイルランド自由国]]と[[アフリカーナー]]主体の南アフリカ連邦が帝国離脱を要求。これをうけて、イギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成された。
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== パクス・ブリタニカ時代の帝国臣民と人の移動 == |
== パクス・ブリタニカ時代の帝国臣民と人の移動 == |
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イギリス帝国の住民(帝国臣民)は人種・肌の色を問わず、帝国内での自由な移動・居住を保証された<ref name="イギリス帝国の歴史 アジアから考える 秋田茂著p186">イギリス帝国の歴史 アジアから考える 秋田茂著p186</ref>。この移動と居住の自由は同時代の植民地帝国や近代国家にみられない特性であり、非ヨーロッパ系住民でも自己利害のために有効に活用できた<ref name="イギリス帝国の歴史 アジアから考える 秋田茂著p186"/>。インド独立運動の指導者として高名な[[マハトマ・ガンジー|ガンジー]]も3年間ロンドンに留学し、法廷弁護士の資格を取得している。その後ガンジーは南アフリカのナタールへと渡りインド系労働者の権利擁護に尽力した。当時ナタールでは3万5000人のインド系住民が帝国臣民として居住していた<ref>イギリス帝国の歴史 アジアから考える 秋田茂著p185</ref>。1860年代以降ナタールではインド系年季契約労働者が導入され現地のプランテーション経済を支えていた。またインド系商人も南アフリカ内部の流通業に進出、現地経済を支えた。帝国内部での自由な移動と居住の保証が大英帝国隆盛の大きな要因となった。しかし20世紀になると白人系植民地では[[白人至上主義]]が台頭。移民の排斥が進むとともに帝国内での自由な移動が阻害され、帝国は世界帝国としての特性を失っていくことになる。 |
イギリス帝国の住民(帝国臣民)は人種・肌の色を問わず、帝国内での自由な移動・居住を保証された<ref name="イギリス帝国の歴史 アジアから考える 秋田茂著p186">イギリス帝国の歴史 アジアから考える 秋田茂著p186</ref>。この移動と居住の自由は同時代の植民地帝国や近代国家にみられない特性であり、非ヨーロッパ系住民でも自己利害のために有効に活用できた<ref name="イギリス帝国の歴史 アジアから考える 秋田茂著p186"/>。インド独立運動の指導者として高名な[[マハトマ・ガンジー|ガンジー]]も3年間ロンドンに留学し、法廷弁護士の資格を取得している。その後ガンジーは南アフリカのナタールへと渡りインド系労働者の権利擁護に尽力した。当時ナタールでは3万5000人のインド系住民が帝国臣民として居住していた<ref>イギリス帝国の歴史 アジアから考える 秋田茂著p185</ref>。1860年代以降ナタールではインド系年季契約労働者が導入され現地のプランテーション経済を支えていた。またインド系商人も南アフリカ内部の流通業に進出、現地経済を支えた。帝国内部での自由な移動と居住の保証が大英帝国隆盛の大きな要因となった。しかし20世紀になると白人系植民地では[[白人至上主義]]が台頭。移民の排斥が進むとともに帝国内での自由な移動が阻害され、帝国は世界帝国としての特性を失っていくことになる。 |
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File:British empire 1886.jpg|[[ウォルター・クレイン]]「イギリス帝国地図」(1886)『グラフィック』1886年7月24日号付録 |
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File:British Empire 1897.jpg|1897年発行の世界地図 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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*{{Cite book|first=Trevor Owen|last=Lloyd|title=The British Empire 1558–1995|publisher=Oxford University Press|year=1996|isbn=0-19-873134-5|url=https://books.google.co.jp/books?id=gIBgQgAACAAJ&redir_esc=y&hl=ja|ref=Lloyd1996|accessdate=22 July 2009}} |
*{{Cite book|first=Trevor Owen|last=Lloyd|title=The British Empire 1558–1995|publisher=Oxford University Press|year=1996|isbn=0-19-873134-5|url=https://books.google.co.jp/books?id=gIBgQgAACAAJ&redir_esc=y&hl=ja|ref=Lloyd1996|accessdate=22 July 2009}} |
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*{{cite book|last=Louis|first=Roger|title=The British Empire in the Middle East, 1945-1951: Arab Nationalism, the United States, and Postwar Imperialism|year=1986|publisher=Oxford University Press|isbn=9780198229605|pages=820|url=https://books.google.co.jp/books?id=ATQQ0FMS1FQC&pg=PA718&lpg=PA718&redir_esc=y&hl=ja|ref=Louis1986|accessdate=24 August 2012}} |
*{{cite book|last=Louis|first=Roger|title=The British Empire in the Middle East, 1945-1951: Arab Nationalism, the United States, and Postwar Imperialism|year=1986|publisher=Oxford University Press|isbn=9780198229605|pages=820|url=https://books.google.co.jp/books?id=ATQQ0FMS1FQC&pg=PA718&lpg=PA718&redir_esc=y&hl=ja|ref=Louis1986|accessdate=24 August 2012}} |
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* [[イギリスの海外領土]] |
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* [[イギリス連邦]] |
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* [[イギリス連邦王国]] |
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* [[ヴィクトリア (イギリス女王)]] |
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* [[グレート・ゲーム]] |
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* [[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]] |
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* [[コモンウェルス・ゲームズ]] |
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* [[第二次百年戦争]] |
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* [[太陽の沈まない国]] |
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* [[パクス・ブリタニカ]] |
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* [[帝国の最大領域一覧]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2024年6月16日 (日) 12:35時点における最新版
- 大英帝国
- British Empire
-
←
←
←諸説あり - 諸説あり ↓ (国旗) (国章) - 国歌: God Save the King
神よ国王陛下を守り給え
大英帝国統治下の経験を有する国・地域。-
公用語 英語 首都 ロンドン - 国王
-
1607年 - 1625年 ジェームズ1世 1952年 - 1997年 エリザベス2世 - 首相(事実上)
-
1721年 - 1742年 ロバート・ウォルポール 1997年 - 1997年 トニー・ブレア - 変遷
-
ジェームズタウン植民地設立 1607年 アメリカ合衆国の独立を承認 1781年 インド帝国成立 1857年 ウェストミンスター憲章 1931年 インド独立 1947年 香港返還 1997年
通貨 イギリス・ポンド 現在 イギリス
アイルランド
イエメン
イスラエル
イラク
インド
スリランカ
バングラデシュ
パキスタン
ミャンマー
オマーン
シンガポール
香港
マレーシア
ウガンダ
エジプト
エスワティニ
ガーナ
ガンビア
ケニア
ザンビア
シエラレオネ
ジブチ
ジンバブエ
スーダン
タンザニア
ナイジェリア
ナミビア
ブルンジ
マラウイ
ルワンダ
レソト
アメリカ合衆国
カナダ
アンティグア・バーブーダ
グレナダ
ジャマイカ
セントクリストファー・ネイビス
セントビンセント・グレナディーン
セントルシア
ドミニカ国
トリニダード・トバゴ
バルバドス
バハマ
ガイアナ
ベリーズ
オーストラリア
ニュージーランド
パプアニューギニア
-
先代 次代 イングランド王国
スコットランド王国
アイルランド王国
イギリス
アイルランド共和国
香港
カナダ
オーストラリア
ニュージーランド
ニューファンドランド自治領
南アフリカ連邦
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/32/Arthur_Mees_Flags_of_A_Free_Empire_1910_Cornell_CUL_PJM_1167_01.jpg/220px-Arthur_Mees_Flags_of_A_Free_Empire_1910_Cornell_CUL_PJM_1167_01.jpg)
概要[編集]
"empire" あるいは "imperial" という言葉はさらに古くから使われてきたが、一般にイギリス帝国という場合、始まりは16世紀あるいは17世紀とされる。その正否は問わないことにしても、国外への拡張という事実のみに着目すると、1585年のロアノーク島への植民が、また、実際に成功し後世への連続性を持つという点からすると、1607年のジェームズタウン建設が、それぞれイギリス帝国の開始点となる。いずれにせよ、イギリス帝国が帝国としての実体を備えるには北米植民地とカリブ海植民地の設立が一段落する17世紀半ばを待たねばならず、イギリス帝国が﹁イングランドの帝国﹂でなくなるには1707年の合同を待たねばならない。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/46/Free_Trade_and_Protection.jpg/220px-Free_Trade_and_Protection.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/75/British_America.png/220px-British_America.png)
名称[編集]
フランス植民地帝国などの講学上の呼称ないし俗称と異なり、British Empireは英国の本土のみを指すUnited Kingdomに対して、本国と植民地を含めた全領域を指す語としてイギリス政府により公式に用いられた。 日本では永らく﹁大英帝国﹂の訳語が使われてきたが、現在、歴史学で多く用いられるのは﹁イギリス帝国﹂という表現である。ほかにも、もとイングランドのポルトガル語形に由来する﹁イギリス﹂という曖昧かつ﹁正しくない﹂とされ得る表現でウェールズ・スコットランド・アイルランドも包含した連合王国︵および植民地︶を指すことを避け、より原語に忠実な﹁ブリテン帝国﹂も使われ始めている。また、単に﹁帝国﹂とも呼ばれる場合もある。﹁大英帝国﹂という語も書籍の標題などでは従来と変わらずに使われるが、本文中では基本的に常に鉤括弧を付けて﹁大英帝国﹂と表記される[注釈 2]。 学問以外の領域では標題に限らず、特にイギリス帝国全盛期以降を指して﹁大英帝国﹂が一般的に使われている。また﹁大英帝国﹂から派生して "British" の訳として﹁大英﹂の語がしばしば用いられている。最も有名な例では"the British Museum"に対応する﹁大英博物館﹂、および同博物館図書室が独立し成立した"the British Library"を指す﹁大英図書館﹂が挙げられる。一方で"the British Council"は﹁ブリティッシュ・カウンシル﹂と呼ばれ、"British Commonwealth"は学問・非学問領域を問わず﹁イギリス連邦﹂﹁英連邦﹂と呼ばれており、"British"に対応する訳語は必ずしも固定されていない。 "British Empire" の訳語として﹁大英帝国﹂が使われ始めた細かい経緯ははっきりしていない。大まかな経緯としては、Great Britain︵大ブリテン︶を﹁大英﹂と訳したものであると考えられるが、Great Britain はもともとは島︵グレートブリテン島︶の名前であり、この Great は別名小ブリテンのブルターニュ︵フランス︶と区別してのことである。これが転じて大英帝国と呼ばれるようになったのは歴史意識が背景にあるとの指摘[注釈 2]があり、これによれば "Great Britain" と "British Empire" が結合した背景には文明開化期から日英同盟締結時にかけての、西洋、特にイギリスを文明の中心と考える見方があるという。またそれに加え、﹁大英帝国﹂と﹁大日本帝国﹂という日英同盟を仲立ちとして対比される構図も﹁大英帝国﹂という語が定着した背景として無視できない[13]。 中国語圏においても大英帝国と呼ばれている[14]。歴史[編集]
植民地以前・帝国の伝統[編集]
イングランド王権が帝国を名乗り始めるのは、植民地獲得よりも大きくさかのぼる。欧州における﹁帝国﹂︵インペリウム︶のもともとの意味は、教皇などの王国外権力から独立していること、ならびに複数の国・勢力を支配下に治めていることである。イングランドにとってのインペリウムにあたるのは、スコットランドの併呑と宗教改革である。七王国時代、アングロサクソンの有力な王たちは、他部族を支配するうえで﹁アングル人の帝国﹂を名乗り、時折自らを皇帝と称した[注釈 3]。ヘンリー8世時代、﹁イングランドは帝国である﹂と1533年に宣言した︵上告禁止法︶のは、教皇の権力をイングランドから除くことを目的にしていた。こうしたインペリウムは、ヨーロッパ各地で教皇から独立せんとするために、または近隣勢力を征服するための大義名分として機能した。スコットランドを併合して﹁グレイト・ブリテンの帝国﹂を築こうという主張は伝統的にイングランドのなかで存在していた。北米・カリブ海植民地進出[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b8/Surrender_of_Lord_Cornwallis.jpg/220px-Surrender_of_Lord_Cornwallis.jpg)
アジア進出[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/36/British_Indian_Empire_1909_Imperial_Gazetteer_of_India.jpg/220px-British_Indian_Empire_1909_Imperial_Gazetteer_of_India.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/89/Destroying_Chinese_war_junks%2C_by_E._Duncan_%281843%29.jpg/250px-Destroying_Chinese_war_junks%2C_by_E._Duncan_%281843%29.jpg)
アフリカ進出[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ec/Punch_Rhodes_Colossus.png/220px-Punch_Rhodes_Colossus.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2b/ColonialAfrica_ja.png/240px-ColonialAfrica_ja.png)
オセアニア進出[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/76/Captainjamescookportrait.jpg/160px-Captainjamescookportrait.jpg)
ドミニオンの誕生[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b8/British_Empire_1921.png/400px-British_Empire_1921.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/British_Empire_flag_RMG_L0088.tiff/lossy-page1-220px-British_Empire_flag_RMG_L0088.tiff.jpg)
ウェストミンスター憲章以降・衰退期[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/36/Hongkong_-_Blick_%C3%BCber_den_Victoria_Harbour.jpg/220px-Hongkong_-_Blick_%C3%BCber_den_Victoria_Harbour.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/51/Commonwealth_of_Nations.svg/250px-Commonwealth_of_Nations.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8e/British_Overseas.png/250px-British_Overseas.png)
パクス・ブリタニカ時代の帝国臣民と人の移動[編集]
イギリス帝国の住民︵帝国臣民︶は人種・肌の色を問わず、帝国内での自由な移動・居住を保証された[29]。この移動と居住の自由は同時代の植民地帝国や近代国家にみられない特性であり、非ヨーロッパ系住民でも自己利害のために有効に活用できた[29]。インド独立運動の指導者として高名なガンジーも3年間ロンドンに留学し、法廷弁護士の資格を取得している。その後ガンジーは南アフリカのナタールへと渡りインド系労働者の権利擁護に尽力した。当時ナタールでは3万5000人のインド系住民が帝国臣民として居住していた[30]。1860年代以降ナタールではインド系年季契約労働者が導入され現地のプランテーション経済を支えていた。またインド系商人も南アフリカ内部の流通業に進出、現地経済を支えた。帝国内部での自由な移動と居住の保証が大英帝国隆盛の大きな要因となった。しかし20世紀になると白人系植民地では白人至上主義が台頭。移民の排斥が進むとともに帝国内での自由な移動が阻害され、帝国は世界帝国としての特性を失っていくことになる。関連図像[編集]
-
ウォルター・クレイン「イギリス帝国地図」(1886)『グラフィック』1886年7月24日号付録
-
1897年発行の世界地図
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
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- 石井摩耶子『イギリス帝国』 - コトバンク
- 『大英帝国』 - コトバンク
- British Empire