タンザニア
- タンザニア連合共和国
- Jamhuri ya Muungano wa Tanzania (スワヒリ語)
United Republic of Tanzania (英語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:Uhuru na Umoja
(スワヒリ語: "自由と統一") - 国歌:Mungu ibariki Afrika(スワヒリ語)
神よ、アフリカに祝福を -
公用語 スワヒリ語(国語、公用語)、英語(公用語)[1] [2] 首都 ドドマ 最大の都市 ダルエスサラーム - 政府
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大統領 サミア・スルフ・ハッサン 副大統領 フィリップ・ムパンゴ 首相 カシム・マジャリワ - 面積
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総計 945,087km2(30位) 水面積率 6.2% - 人口
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総計(2022年) 63,852,892[3]人(23位)(ザンジバルを含む) 人口密度 67.6人/km2 - GDP(自国通貨表示)
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合計(2020年) 148兆5221億1100万[4]タンザニア・シリング - GDP(MER)
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合計(2020年) 644億300万[4]ドル(71位) 1人あたり 1110.37(推計)2[4]ドル - GDP(PPP)
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合計(2020年) 1696億8900万[4]ドル(74位) 1人あたり 2925.615(推計)[4]ドル
独立
- タンガニーカ
- ザンジバル
- 合併イギリスより
1961年12月9日
1963年12月19日
1964年4月26日通貨 タンザニア・シリング(TZS) 時間帯 UTC(+3) (DST:なし) ISO 3166-1 TZ / TZA ccTLD .tz 国際電話番号 255 3 -
- ^ Tanzania Goverment Portal :languages タンザニア連合共和国政府 2019年1月1日閲覧
- ^ 各国・地域情勢 国名:タンザニア連合共和国(United Republic of Tanzania) 外務省 2019年1月1日閲覧
- ^ “Tanzania”. ザ・ワールド・ファクトブック. 2022年8月8日閲覧。
- ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年10月17日閲覧([1])
註1: データは本土のみ
註2: 立法府の議事堂はドドマ、その他の政府官庁はダルエスサラーム
註3: ケニアとウガンダから掛ける場合は 007
概要[編集]
タンザニアは東アフリカ大陸部のタンガニーカとインド洋島嶼部のザンジバルから構成され、ザンジバルは中央政府から強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。 また、アフリカでも有数の大自然に恵まれ、文化的にもスワヒリ語を国語とし、アフリカ在来の言語が大きな役割を果たしている数少ない国家である。国名[編集]
正式名称は、スワヒリ語で Jamhuri ya Muungano wa Tanzania︵ジャムフリ・ヤ・ムウンガーノ・ワ・タンザニア︶。英語で United Republic of Tanzania︵ユナイテッド・リパブリック・オブ・タンザニア︶。通称、Tanzania︵タンザニア︶。 日本語の表記は、タンザニア連合共和国。通称、タンザニア。漢字表記は、坦桑尼亜。 国名はタンザニアを構成するために併合したタンガニーカ︵Tanganyika︶とザンジバル︵Zanzibar︶の名前に、かつてアフリカ南部で栄えたアザニア文化︵Azania︶の名前を複合して1964年に命名された。歴史[編集]
有史以前[編集]
バンツー系の民族移動[編集]
紀元前10世紀ごろ、現在のカメルーンに相当する地域からバントゥー系民族がタンザニアの森林部に移住した︵en:Bantu expansion︶。イスラームの到来[編集]
7世紀にアラビア半島でイスラーム教が成立したあと、アラブ人やペルシア人が東アフリカのインド洋沿岸部に渡来し、スワヒリ文明を築きあげた。10世紀ごろから16世紀初頭にかけて、タンザニアにはキルワ島やマフィア島、バガモヨなどのスワヒリ都市が栄えた。ポルトガル領時代[編集]
1498年にポルトガル王国の航海者ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓し、インド洋におけるポルトガルの覇権が始まった。ポルトガルは1505年にキルワ王国を滅ぼしたあと、東アフリカの各地を制圧した。オマーン帝国時代[編集]
アラブ勢力の拡大にともない、ポルトガル勢力はオマーンによって1698年に現在のタンザニア領から駆逐され、南方のモザンビーク島にまで撤退した。その後、19世紀に入るとオマーン帝国︵アラビア語: الإمبراطورية العمانية︶のサイイド・サイード王が在地のマズルイ家から島嶼部と沿岸地方を自らの勢力圏に置き、1830年代にザンジバルに王宮ストーンタウンを建設し、帝国の本拠地を移した。1856年にサイイド・サイード王が死亡したあと、本国のオマーン・スルタン国とは別にサイイド・マージドがザンジバルのスルターンに即位するとザンジバル・スルタン国︵Sultanate of Zanzibar、1856年 - 1964年︶が成立し、引き続きクローヴなどの香辛料の交易や奴隷貿易で栄え、この時代にザンジバルは東アフリカ最大の奴隷市場となった。19世紀後半には、ザンジバル出身のスワヒリ商人ティップー・ティプが現在のコンゴ民主共和国東部に相当するタンガニーカ湖にまで勢力を伸ばし、内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となった。彼はデイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーの探険も助けた。イギリス・ドイツ植民地時代[編集]
イギリス・ベルギー植民地時代[編集]
第一次世界大戦がドイツの敗北で終結したことによりドイツ領東アフリカは解体され、大半はイギリスの委任統治領タンガニーカ準州となり、東北部のルアンダ=ウルンディはベルギーの委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域︵ウガンダ、ケニア、タンガニーカ、ザンジバル︶を支配することとなり、これらには関税同盟が敷かれ、ドイツ領東アフリカルピーに代えて共通通貨東アフリカ・シリングが導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設され、そのひとつはヴィクトリア湖のムワンザにまで延長された。 1939年に第二次世界大戦が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは8万7,000人が出征した[1]。東アフリカ部隊は東アフリカ戦線でイタリア軍と、ビルマ戦線で日本軍との戦いを繰り広げ、インパール作戦で日本軍が対峙したイギリス軍には多くのアフリカ人のアスカリが存在した。独立と連合[編集]
タンザニア革命党[編集]
1977年にそれまで別組織だったTANUとアフロ・シラジ党︵ASP︶が統合し、タンザニア革命党が成立し、国内でも一党制に移行した。 1978年にそれまで対立していたウガンダのアミン大統領がタンザニアに侵攻するとこれを撃退し、タンザニア軍はウガンダの首都カンパラを攻略してアミン失脚の一因となった︵ウガンダ・タンザニア戦争︶。こうした政策によってタンザニアはアフリカ内外で第三世界を指導する国家の一角としての信望を集めたが、その一方で1970年代に入ると親西側的なケニアのジョモ・ケニヤッタとの対立で自らの理想を体現した東アフリカ共同体は消滅し、旱魃による農業の衰退や、ウジャマー村の建設の失敗が各地で報告され、経済面でウジャマー社会主義の失敗が明らかになった。 1980年代に入ると第二次石油危機の影響もあって経済の衰退は深刻化し、日用品や飲料水の不足に起因する国民の不満が高まる中、1985年11月にニエレレは引退を発表した。経済の自由化[編集]
後任には与党タンザニア革命党からザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニが就任し、ムウィニの下でIMFの勧告を受け入れるなど経済の自由化が進められ、また複数政党制が認められて民主化が行われた。1995年に就任したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ大統領の時代には、1994年に民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げた。 1998年8月7日にはアルカイーダによって首都ダルエスサラームの駐タンザニアアメリカ合衆国大使館が攻撃される、アメリカ大使館爆破事件が発生した。 2005年にはジャカヤ・キクウェテが大統領に就任し、2015年にはジョン・マグフリが大統領に就任した。政治[編集]
元首[編集]
立法[編集]
ザンジバル[編集]
連合共和国政府とは別に、ザンジバルには独自の自治政府であるザンジバル革命政府および議会が存在し、ザンジバルの内政を担っている。統治権が及ぶのはザンジバル島の3州、およびペンバ島の2州である。ザンジバルの大統領はザンジバル住民の直接選挙で選出され、任期は5年である。ザンジバル議会は一院制で定数81議席。議員の任期は5年で、81議席中50議席はザンジバル住民の直接選挙により選出される。2021年現在のザンジバル大統領はタンザニア革命党 (CCM) のフセイン・ムウィニ︵第8代︶。強力な自治政府であり、大陸からザンジバル島に渡る場合でも、入国管理手続きが存在する。タンガニーカの独自政府は存在しない。 一方で、ザンジバルにおいては首都のあるウングジャ島とペンバ島の間に対立がある。ペンバ島はザンジバル革命の時に旧政権側を支持したため、革命政権によって冷遇を受けた。この対立は民主化後でも続いており、ウングジャ島でタンザニア革命党が強い一方、ペンバ島はタンザニア最大野党・市民統一戦線の地盤となっている。ザンジバル経済はペンバ島でおもに栽培されるクローブの輸出を柱としているため、経済面での貢献に比してペンバ島が政治面で冷遇を受けていることがさらにこの対立を増幅している。国際関係[編集]
日本との関係[編集]
国家安全保障[編集]
タンザニア人民防衛軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成され、総人員は約2万7,000人である。兵制は志願制を採用している。2005年にはGDPの0.2%が軍事に支出された[15]。
地理[編集]
地方行政区分[編集]
主要都市[編集]
経済[編集]
1980年代中盤まで、タンザニアはジュリウス・ニエレレ大統領の下ウジャマー社会主義を標榜し、ウジャマー村と呼ばれる集団農場を中心とした社会主義経済を目指していた。しかし旧来の社会制度をまったく無視したこの方式は失敗に終わり、生活必需品の供給すら滞る状態となった。1985年にニエレレの後を継いだアリ・ハッサン・ムウィニ大統領は、IMFの勧告を受け入れ、貿易制限の緩和などを行い自由経済へと舵を切った。以後タンザニア経済は緩やかに回復へと向かい、1995年に就任したベンジャミン・ムカパ大統領の行った国営企業の民営化など政府セクターの民間への移動と、南アフリカ共和国などからの投資の拡大により、1995年から2005年までの経済成長率は平均5%を記録した。
農業[編集]
鉱工業[編集]
観光[編集]
タンザニアの観光業は成長を続けている。タンザニアにおける観光業はGDPの17.5%を占め、外貨収入の25%を占めており、金の輸出に次いで第2位の外貨獲得産業となっている。[16]2004年にタンザニアに入国した観光客数は58万3,000人であり、1995年の2倍に達した[17]。さらに2016年には観光客数は128万4,279人となっており、増加の一途を辿っている[16]。観光客の目的はンゴロンゴロ保全地域やセレンゲティ国立公園などでのサファリ、キリマンジャロへの登山、ザンジバル島のストーン・タウンなど歴史遺産やザンジバルでのビーチリゾートなど多岐に渡っている。
交通[編集]
鉄道[編集]
水運[編集]
水運は、タンガニーカとザンジバル間で活発であるほか、ビクトリア湖やタンガニーカ湖に国際フェリーが就航しており、ケニアやウガンダ、コンゴ民主共和国とを結んでいる。沿岸ではいまだにダウ船での輸送も行われている。航空[編集]
空運はかつて国営のタンザニア航空の独占であったが、自由化により中小の航空会社が多く設立されるようになった。
国民[編集]
民族[編集]
言語[編集]
宗教[編集]
教育[編集]
保健[編集]
医療[編集]
治安[編集]
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人権[編集]
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マスコミ[編集]
タンザニアにはメディア評議会が存在しており、評議会は1995年に開設された。2003年に成立した「タンザニア通信規制法」により、放送ライセンスを監督する「タンザニア通信規制当局」が創設されている。
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文化[編集]
食文化[編集]
文学[編集]
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音楽[編集]
美術[編集]
南部に居住するマコンデ人のシェタニ︵精霊︶をモチーフとした黒檀の彫刻はタンザニアの美術において特筆される。現代タンザニアを代表する画家、ジョージ・リランガもシェタニをモチーフに絵画や彫刻を製作した。その他にもタンザニアで発展を遂げたポップアートとして、エドワード・サイディ・ティンガティンガが1960年代に大成したティンガティンガ派絵画の存在が挙げられる。
映画[編集]
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世界遺産[編集]
タンザニア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、自然遺産が4件存在する。
文化遺産[編集]
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キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群(文化遺産)
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ザンジバル島のストーン・タウン(文化遺産)
国立公園・国立保護区[編集]
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ンゴロンゴロ保全地域(複合遺産)
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セレンゲティ国立公園(自然遺産)
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セルース猟獣保護区(自然遺産)
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キリマンジャロ国立公園(自然遺産)
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
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1月1日 | 元日 | Mwaka Mpya | |
1月12日 | ザンジバル革命記念日 | Mapinduzi ya Zanzibar | 1964年、ザンジバルで革命 |
4月26日 | 統合記念日 | Muungano wa Tanganyika na Zanzibar | 1964年、タンガニーカとザンジバルが統合 |
5月1日 | 労働者の日 | Sikukuu ya Wafanyakazi | メーデー |
7月7日 | 産業の日 | Saba Saba | |
8月8日 | 農業の日 | Nane Nane (Siku ya Wakulima) | |
10月14日 | ニエレレの日 | Kumbukumbu ya Mwalimu Nyerere | タンザニア初代大統領/1999.10.14没 |
12月9日 | 独立記念日 | Uhuru na Jamhuri | 1961年、タンガニーカ独立 |
12月25日 | クリスマス | Kuzaliwa Kristo | |
12月26日 | ボクシング・デー | Siku ya Kupeana Zawadi |
スポーツ[編集]
サッカー[編集]
オリンピック[編集]
著名な出身者[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
●岡倉登志編﹃ハンドブック現代アフリカ﹄明石書店、2002年12月。 ●砂野幸稔﹁アフリカ文化のダイナミズム﹂﹃ハンドブック現代アフリカ﹄岡倉登志編 明石書店、2002年12月。 ●宮本正興﹁アフリカの言語 その生態と機能﹂﹃ハンドブック現代アフリカ﹄岡倉登志編 明石書店、2002年12月。 ●栗田和明、根本利通﹃タンザニアを知るための60章﹄明石書店、2006年7月。 ●吉田昌夫﹃世界現代史14アフリカ現代史II──東アフリカ﹄︵1990年2月第2版︶山川出版社。関連項目[編集]
●タンザニア関係記事の一覧 ●タンザニア国家エイズ対策プログラム外部リンク[編集]
- ウィキメディア・コモンズには、タンザニアに関するメディアがあります。
- 政府
- タンザニア連合共和国政府 (英語)
- タンザニア大使館 (日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - タンザニア (日本語)
- 観光
- タンザニア政府観光局 (英語)
- ウィキトラベル旅行ガイド - タンザニア (日本語)
- ウィキボヤージュには、タンザニア(英語)に関する旅行情報があります。
- その他
- タンザニアのウィキメディア地図 (英語)
- タンザニアに関連する地理データ - オープンストリートマップ
- 地図 - Google マップ
- 『タンザニア』 - コトバンク
- タンザニア - Curlie(英語) (英語)