「中央新聞」の版間の差分
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[[1883年]](明治16年)1月22日から発行された[[小新聞]]の『[[絵入朝野新聞]]』(既存競合紙の『[[朝野新聞]]』とは別物)は、[[1889年]](明治22年)5月5日、号数を通計しながら『江戸新聞』と名を変えた<ref>[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000011054836-00 東京中新聞]、[[国会図書館]]</ref>。 |
[[1883年]](明治16年)1月22日から発行された[[小新聞]]の『[[絵入朝野新聞]]』(既存競合紙の『[[朝野新聞]]』とは別物)は、[[1889年]](明治22年)5月5日、号数を通計しながら『江戸新聞』と名を変えた<ref>[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000011054836-00 東京中新聞]、[[国立国会図書館|国会図書館]]</ref>。 |
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[[1890年]](明治23年)6月、後に[[衆議院議長]]になる[[大岡育造]]が江戸新聞を買収して『東京中新聞』と改名し、さらに1891年8月16日、『中央新聞』とした。紙面は大岡の政治的足取りにつれ、[[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]→[[帝国党]]→[[立憲政友会]]のそれぞれ機関紙的に編集された。当時の政友会は[[伊藤博文]]が総裁で、東京では競合紙の『[[國民新聞]]』も政友会の機関紙然としていたが、[[日本帝国主義]]・[[軍国主義]]の源流となる[[対外硬|対外強硬論]]を主張した國民新聞よりも、本紙の方が政友会色が強かった。この時代の本紙の発行部数は、1896年(明治29年)が7万部、1903年には4.1万部だったと言う<ref>片山、1989年、p.164、212</ref>。{{see also|大岡育造#経歴・人物}} |
[[1890年]](明治23年)6月、後に[[衆議院議長]]になる[[大岡育造]]が江戸新聞を買収して『東京中新聞』と改名し、さらに1891年8月16日、『中央新聞』とした。紙面は大岡の政治的足取りにつれ、[[国民協会 (日本 1892-1899)|国民協会]]→[[帝国党]]→[[立憲政友会]]のそれぞれ機関紙的に編集された。当時の政友会は[[伊藤博文]]が総裁で、東京では競合紙の『[[國民新聞]]』も政友会の機関紙然としていたが、[[日本帝国主義]]・[[軍国主義]]の源流となる[[対外硬|対外強硬論]]を主張した國民新聞よりも、本紙の方が政友会色が強かった。この時代の本紙の発行部数は、1896年(明治29年)が7万部、1903年には4.1万部だったと言う<ref>片山、1989年、p.164、212</ref>。{{see also|大岡育造#経歴・人物}} |
2024年5月17日 (金) 14:57時点における最新版
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中央新聞 THE CHUWO SHIMBUN | |
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種類 | 日刊紙 |
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事業者 |
(合資会社中央新聞社→) 株式会社中央新聞社 |
本社 |
(東京府東京市京橋区銀座4-9[1]→) (東京府東京市京橋区山城町10番地→) (東京府東京市芝区芝公園五号地→) 東京府東京市麹町区内山下町1-5 (現・東京都千代田区内幸町1-1-3) |
創刊 | 1891年(明治24年)8月16日 |
廃刊 | 1944年(昭和19年)5月30日 |
前身 |
絵入朝野新聞 (1883年1月22日 - 1889年5月4日) 江戸新聞 (1889年5月4日 - 1890年6月) 東京中新聞 (1890年6月 - 1891年8月15日) |
言語 | 日本語 |