「伊良子清白」の版間の差分
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[[1945年]](昭和20年)に戦火を避けるため三重県[[度会郡]][[七保村]]打見(現・度会郡大紀町打見)に[[疎開]]<ref name="鳥羽">鳥羽市教育委員会生涯学習課社会教育係"[http://www.city.toba.mie.jp/shakai/documents/irakoseihaku.pdf 伊良子清白(いらこせいはく)]"(2011年5月6日閲覧。)</ref>、翌1946年(昭和21年)に同地で没した。 |
2013年9月16日 (月) 06:43時点における版
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医業のかたわら詩を書き、河井醉茗、横瀬夜雨と並ぶ文庫派の代表的詩人。詩集は﹃孔雀船﹄。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/73/Poetry_monument_of_Irako_Seihaku.JPG/250px-Poetry_monument_of_Irako_Seihaku.JPG)
伊良子清白の詩碑︵正法寺︶
●鳥取県八頭郡河原町曳田 正法寺
ふるさとの谷間の歌は
続きつゝ断えつゝ哀し
大空のこだまの音と
地の底のうめきの声と
交りて調は深し
●三重県鳥羽市小浜町城山
水底の泥を逆上げ
かきにごす海の病
そゝり立つ波の大鋸
過げとこそ船をまつらめ
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ce/House_of_Irako_Seihaku_in_Toba.jpg/250px-House_of_Irako_Seihaku_in_Toba.jpg)
伊良子清白の家
清白が鳥羽で医師を開業していた頃に診療所兼住居としていた家が﹁伊良子清白の家﹂として三重県鳥羽市鳥羽一丁目の赤福鳥羽支店の隣に移築され、一般公開されている[3]。この家は1979年︵昭和54年︶に鳥羽市小浜町から多気郡大台町に移築されたが、2009年︵平成21年︶に再び鳥羽の地へ戻った[3]。
経歴
鳥取県八上郡曳田村大字曳田︵現在の鳥取市河原町曳田︶に医師伊良子政治、ツネの長男として生まれた。父政治は郡家町大門の医師岡田道叔の次男だが、1875年︵明治8年︶7月に曳田村にいた伊良子春郊の長女つねと結婚し、伊良子の姓を名乗った。母つねは、清白が生まれて満1歳にもならない、1878年︵明治11年︶9月5日に死去した[2]。 1899年京都府立医学校︵現在の京都府立医科大学︶卒業。東京日本赤十字病院に勤務する。 1906年に唯一の詩集﹃孔雀船﹄を刊行、浜田、大分 台湾、京都を経て、1922年︵大正11年︶三重県志摩郡鳥羽町小浜︵現・鳥羽市小浜町︶で開業した。 1945年︵昭和20年︶に戦火を避けるため三重県度会郡七保村打見︵現・度会郡大紀町打見︶に疎開[3]、翌1946年︵昭和21年︶に同地で没した。 1980年︵昭和55年︶生地であり、名作﹁漂泊﹂の舞台である曳田の正法寺境内に、同作の第4連を山本嘉将が筆にした詩碑が建立された。文献
詩集 ●孔雀船︵初版‥左久良書房、1906年、岩波文庫、1938年、数度復刊︶ 全集 ●伊良子清白全集︵全2巻、平出隆編、岩波書店、2003年6月︶ 伝記 ●平出隆 ﹃伊良子清白﹄︵新潮社、2003年10月︶史料
伊良子清白詩碑
伊良子清白の家
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ce/House_of_Irako_Seihaku_in_Toba.jpg/250px-House_of_Irako_Seihaku_in_Toba.jpg)
脚注
- ^ 『鳥取県百傑伝』81頁に「暉造の名をもって“少年文庫”にあらわれ、のちに、すずしろのやの雅号で“文庫”に投じた清白が、三十四年八月の“文庫”から清白をせいはくにあらためた。一般に清白をすずしろというむきもあるのだが」とある
- ^ 『鳥取県百傑伝』76-77頁
- ^ a b c 鳥羽市教育委員会生涯学習課社会教育係"伊良子清白(いらこせいはく)"(2011年5月6日閲覧。)
参考文献
- 『鳥取県百傑伝』 、1970年、76-82頁
- 『鳥取県大百科事典』(編集:新日本海新聞社・「同」編集委員会)、1984年 71-72頁