「川村花菱」の版間の差分
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (opac.ndl.go.jp) (Botによる編集) |
編集の要約なし |
||
(3人の利用者による、間の3版が非表示) | |||
5行目: | 5行目: | ||
| 画像サイズ = |
| 画像サイズ = |
||
| 画像コメント = |
| 画像コメント = |
||
| 本名 = 川村 久輔 <small>かわむら きゅうすけ</small> |
| 本名 = 川村 久輔 <small>(かわむら きゅうすけ)</small> |
||
| 別名義 = |
| 別名義 = |
||
| 出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[牛込区]](現在の[[東京都]][[新宿区]][[牛込]]) |
| 出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[牛込区]](現在の[[東京都]][[新宿区]][[牛込]]) |
||
46行目: | 46行目: | ||
| 備考 = |
| 備考 = |
||
}} |
}} |
||
{{Portal |
{{Portal box|映画|舞台芸術}} |
||
'''川村 花菱'''(かわむら かりょう、[[1884年]][[2月21日]] - [[1954年]][[9月1日]]<ref name="コトバンク">[ |
'''川村 花菱'''(かわむら かりょう、[[1884年]][[2月21日]] - [[1954年]][[9月1日]]<ref name="コトバンク">[https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9D%E6%9D%91%E8%8A%B1%E8%8F%B1-1068136 川村花菱]、『講談社 日本人名大辞典』、[[講談社]]、[[コトバンク]]、2010年1月4日閲覧。</ref>)は、日本の[[劇作家]]、[[演出家]]、[[脚本家]]である。本名は'''川村 久輔'''(かわむら きゅうすけ)<ref name="コトバンク" />。 |
||
== 人物・来歴 == |
== 人物・来歴 == |
||
[[1884年]](明治17年)[[2月21日]]、[[東京府]][[東京市]][[牛込区]](現在の[[東京都]][[新宿区]][[牛込]])に「川村久輔」としてうまれる<ref name="コトバンク" />。父は旧幕臣・官僚の[[川村恵十郎|川村正平]](恵十郎)<ref>[http://bungeikan.jp/domestic/detail/23/ 浅田康夫「横浜市会の新選組生き残り」](日本ペンクラブ電子文藝館)</ref>。 |
[[1884年]](明治17年)[[2月21日]]、[[東京府]][[東京市]][[牛込区]](現在の[[東京都]][[新宿区]][[牛込]])に「川村久輔」としてうまれる<ref name="コトバンク" />。父は旧幕臣・官僚の[[川村恵十郎|川村正平]](恵十郎)<ref>[http://bungeikan.jp/domestic/detail/23/ 浅田康夫「横浜市会の新選組生き残り」](日本ペンクラブ電子文藝館)</ref>。 |
||
旧制・[[早稲田大学]]英文科を卒業する<ref name="コトバンク" />。満24歳となった1908年(明治41年)11月11日、東京・牛込に[[藤沢浅二郎]]が自費で開校した[[東京俳優養成所]]<ref>[ |
旧制・[[早稲田大学]]英文科を卒業する<ref name="コトバンク" />。満24歳となった1908年(明治41年)11月11日、東京・牛込に[[藤沢浅二郎]]が自費で開校した[[東京俳優養成所]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E6%B5%85%E4%BA%8C%E9%83%8E-15182 藤沢浅二郎]、『朝日日本歴史人物事典』、執筆[[藤木宏幸]]、[[朝日新聞出版]]、コトバンク、2010年1月4日閲覧。</ref>の教師となる<ref name="コトバンク" />。 |
||
1912年(明治45年)、[[有楽座 (明治・大正)|有楽座]]で[[土曜劇場]]を設立する<ref name="コトバンク" />。続いて[[新日本劇]]を設立する<ref name="コトバンク" />。1923年(大正12年)、[[日活向島撮影所]]の脚本部に入社している<ref>『日本映画発達史 1 活動写真時代』、[[田中純一郎]]、[[中公文庫]]、1975年11月25日 ISBN 4122002850、p.370.</ref>。同年9月の[[関東大震災]]以降、向島撮影所の京都移転に伴い、京都撮影所の第二部([[現代劇|現代劇部]])に異動している<ref> 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、p.374.</ref>。 |
1912年(明治45年)、[[有楽座 (明治・大正)|有楽座]]で[[土曜劇場]]を設立する<ref name="コトバンク" />。続いて[[新日本劇]]を設立する<ref name="コトバンク" />。1923年(大正12年)、[[日活向島撮影所]]の脚本部に入社している<ref>『日本映画発達史 1 活動写真時代』、[[田中純一郎]]、[[中公文庫]]、1975年11月25日 ISBN 4122002850、p.370.</ref>。同年9月の[[関東大震災]]以降、向島撮影所の京都移転に伴い、京都撮影所の第二部([[現代劇|現代劇部]])に異動している<ref> 『日本映画発達史 1 活動写真時代』、p.374.</ref>。 |
||
60行目: | 60行目: | ||
その後は、[[芸術座]]の脚本部員・興行主事として活動した<ref name="コトバンク" />。代表作とされる戯曲『[[母三人]]』<ref name="コトバンク" />は、1930年(昭和5年)以来、4度映画化された。 |
その後は、[[芸術座]]の脚本部員・興行主事として活動した<ref name="コトバンク" />。代表作とされる戯曲『[[母三人]]』<ref name="コトバンク" />は、1930年(昭和5年)以来、4度映画化された。 |
||
[[1954年]](昭和29年)[[9月1日]]、死去した<ref name="コトバンク" />。満70歳没。没後の1967年(昭和42年)、[[駅前シリーズ]]の[[佐伯幸三]]監督作『[[喜劇 駅前満貫]]』に原案が起用されている。現在著作権の保護期間は満了し、作品のすべてが[[パブリックドメイン]]である。 |
[[1954年]](昭和29年)[[9月1日]]、死去した<ref name="コトバンク" />。満70歳没。没後の1967年(昭和42年)、[[駅前シリーズ]]の[[佐伯幸三]]監督作『[[喜劇 駅前満貫]]』に原案が起用されている。現在著作権の保護期間は満了し、作品のすべてが[[パブリックドメイン]]である。墓所は[[多磨霊園]](3-1-8)。 |
||
== おもなフィルモグラフィ == |
== おもなフィルモグラフィ == |
||
135行目: | 135行目: | ||
[[Category:日本の舞台演出家]] |
[[Category:日本の舞台演出家]] |
||
[[Category:日活の人物]] |
[[Category:日活の人物]] |
||
[[Category:田安家家老平岡家|かりよう]] |
|||
ウィキメディアのカテゴリ |
|||
[[Category:東京都区部出身の人物]] |
[[Category:東京都区部出身の人物]] |
||
[[Category:1884年生]] |
[[Category:1884年生]] |
||
[[Category:1954年没]] |
[[Category:1954年没]] |
||
[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]] |
2023年11月22日 (水) 08:38時点における最新版
かわむら かりょう 川村 花菱 | |
---|---|
本名 | 川村 久輔 (かわむら きゅうすけ) |
生年月日 | 1884年2月21日 |
没年月日 | 1954年9月1日(70歳没) |
出生地 |
![]() |
職業 | 劇作家、演出家、脚本家 |
ジャンル | 新派、現代劇映画 |
主な作品 | |
戯曲 『母三人』 『露のあとさき』 |
人物・来歴[編集]
1884年︵明治17年︶2月21日、東京府東京市牛込区︵現在の東京都新宿区牛込︶に﹁川村久輔﹂としてうまれる[1]。父は旧幕臣・官僚の川村正平︵恵十郎︶[2]。 旧制・早稲田大学英文科を卒業する[1]。満24歳となった1908年︵明治41年︶11月11日、東京・牛込に藤沢浅二郎が自費で開校した東京俳優養成所[3]の教師となる[1]。 1912年︵明治45年︶、有楽座で土曜劇場を設立する[1]。続いて新日本劇を設立する[1]。1923年︵大正12年︶、日活向島撮影所の脚本部に入社している[4]。同年9月の関東大震災以降、向島撮影所の京都移転に伴い、京都撮影所の第二部︵現代劇部︶に異動している[5]。 1932年︵昭和7年︶からは松竹蒲田撮影所で、尾崎紅葉の﹃金色夜叉﹄、徳富蘆花の﹃不如帰﹄、菊池幽芳の﹃乳姉妹﹄といった通俗小説の脚本化に携わった。 その後は、芸術座の脚本部員・興行主事として活動した[1]。代表作とされる戯曲﹃母三人﹄[1]は、1930年︵昭和5年︶以来、4度映画化された。 1954年︵昭和29年︶9月1日、死去した[1]。満70歳没。没後の1967年︵昭和42年︶、駅前シリーズの佐伯幸三監督作﹃喜劇 駅前満貫﹄に原案が起用されている。現在著作権の保護期間は満了し、作品のすべてがパブリックドメインである。墓所は多磨霊園(3-1-8)。おもなフィルモグラフィ[編集]
サイレント初期はクレジットが存在せず、不明な作品がある。特筆以外はすべて原作。 1923年 ●﹃小さき救ひ﹄ : 監督細山喜代松、脚本不明、国活巣鴨撮影所 ●﹃神への道﹄ : 監督細山喜代松、日活向島撮影所 - 脚本・原作 ●﹃嵐する前﹄ : 監督細山喜代松、日活向島撮影所 - 脚本・原作 1924年 ●﹃島の哀れ﹄ : 監督細山喜代松、日活京都撮影所第二部 - 脚本・原作 1930年 ●﹃母三人﹄ : 監督阿部豊、脚本木村千疋男、日活太秦撮影所 1932年 ●﹃金色夜叉﹄ : 監督野村芳亭、原作尾崎紅葉、共同脚本松崎博臣、松竹蒲田撮影所 - 脚本 ●﹃不如帰﹄ : 監督木村恵吾、原作徳富蘆花、潤色八尋不二、新興キネマ - 脚本 ●﹃乳姉妹﹄ : 監督野村芳亭、原作菊池幽芳、共同脚本久米芳太郎、松竹蒲田撮影所 - 脚本 1933年 ●﹃琵琶歌﹄ : 監督・脚本野村芳亭、原作大倉桃郎、松竹蒲田撮影所 - 新釈 ●﹃後の生さぬ仲﹄ : 監督寿々喜多呂九平、脚本山内英三、新興キネマ ●﹃女夫浪﹄ : 監督曾根純三、原作田口掬汀、脚本上島量、新興キネマ - 潤色 ●﹃母三人 前篇﹄ : 監督曾根純三、脚本八尋不二、新興キネマ ●﹃母三人 後篇﹄ : 監督曾根純三、脚本八尋不二、新興キネマ ●﹃上州土産百両首﹄ : 監督井上金太郎、脚本木村富士夫、松竹下加茂撮影所 1934年 ●﹃子を持つ処女﹄ : 監督上野真嗣、脚本小諸遊、新興キネマ 1935年 ●﹃唐人お吉﹄ : 監督冬島泰三、脚本川口松太郎、新興キネマ東京撮影所 1936年 ●﹃三つの愛﹄ : 監督曽根千晴、脚本陶山密、新興キネマ東京撮影所 1937年 ●﹃初島田﹄ : 監督伊奈精一、脚本如月敏、新興キネマ東京撮影所 1940年 ●﹃遙かなる弟﹄ : 監督矢倉茂雄、脚本矢倉茂雄・岸松雄、東宝映画京都撮影所 ●﹃女の街﹄ : 監督今井正、脚本岸松雄・山崎謙太、東宝映画京都撮影所 ●﹃妻の友情﹄ : 監督伊賀山正徳、脚本笠原良三、日活多摩川撮影所 1949年 ●﹃母三人﹄ : 監督小石栄一、脚本館岡謙之助、大映東京撮影所 1958年・没後 ●﹃母三人﹄ : 監督久松静児、脚本井手俊郎、東京映画 1967年・没後 ●﹃喜劇 駅前満貫﹄ : 監督佐伯幸三、脚本藤本義一、東京映画 - 原案ビブリオグラフィ[編集]
国立国会図書館蔵書[6]。註[編集]
外部リンク[編集]
- Karyo Kawamura - IMDb(英語)
- 川村花菱 - 日本映画データベース
- 川村花菱 - KINENOTE
- 川村花菱 - allcinema