ウィリアム・グラッドストン
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ウィリアム・グラッドストン William Gladstone | |
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1898年のグラッドストン | |
生年月日 | 1809年12月29日 |
出生地 | イギリス ランカシャーリヴァプール |
没年月日 | 1898年5月19日(88歳没) |
死没地 | イギリス フリントシャーハワーデン |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ卒業 |
所属政党 |
保守党(1832年-1846年) ピール派(1846年-1859年) 自由党(1859年-1895年) |
称号 |
王立協会フェロー (FRS) 王立統計学会フェロー (FSS) |
配偶者 | キャサリン・グラッドストン |
親族 |
初代准男爵サー・ジョン (父) 第2代准男爵サー・トマス (兄) ロバートソン (兄) ジョン・ネイルソン (兄) ウィリアム・ヘンリー (長男) 初代グラッドストン・オブ・ハワーデン男爵 (次男) 初代グラッドストン子爵 (三男) |
サイン | |
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在任期間 |
1868年12月9日 - 1874年2月16日[1] 1880年4月28日 - 1885年6月9日[1] 1886年2月3日 - 1886年7月20日[1] 1892年8月16日 - 1894年3月3日[1] |
女王 | ヴィクトリア |
内閣 |
アバディーン伯爵内閣、第一次パーマストン子爵内閣 第二次パーマストン子爵内閣、第二次ラッセル伯爵内閣 第一次グラッドストン内閣 第二次グラッドストン内閣 |
在任期間 |
1852年12月28日 - 1855年2月22日[2] 1859年6月12日 - 1866年7月[2] 1873年8月3日 - 1874年2月16日[2] 1880年4月28日 - 1882年12月16日[2] |
内閣 | 第二次ピール内閣 |
在任期間 | 1845年11月 - 1846年6月 |
内閣 | 第二次ピール内閣 |
在任期間 | 1843年5月 - 1845年2月3日[3] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
ニューアーク選挙区 オックスフォード大学選挙区 南ランカシャー選挙区 グリニッジ選挙区 ミッドロージアン選挙区[4] |
当選回数 | 26回[5] |
在任期間 |
1832年12月10日 - 1845年 1847年7月29日 - 1865年7月11日 1865年7月11日 - 1868年11月17日 1868年11月17日 - 1880年3月31日 1880年3月31日 - 1895年7月13日[4] |
ウィリアム・ユワート・グラッドストン︵英語: William Ewart Gladstone PC FRS FSS [ˈwɪljəm ˈjuːwɑːt ˈglæd.stən]、1809年12月29日 - 1898年5月19日︶は、イギリスの政治家。
ヴィクトリア朝中期から後期にかけて、自由党を指導して、4度にわたり首相を務めた︵第一次: 1868年-1874年、第二次: 1880年-1885年、第三次: 1886年、第四次: 1892年-1894年︶。
生涯を通じて敬虔なイングランド国教会の信徒であり、キリスト教の精神を政治に反映させることを目指した。多くの自由主義改革を行い、帝国主義にも批判的であった。好敵手である保守党党首ベンジャミン・ディズレーリとともにヴィクトリア朝イギリスの政党政治を代表する人物として知られる。
概要[編集]
スコットランド豪族の末裔である大富豪の貿易商の四男としてリヴァプールに生まれる。イートン校からオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学。同大学在学中にイングランド国教会への信仰心を強めた。1831年に同大学を首席で卒業する。 1832年の総選挙で初当選し、23歳にして保守党所属の庶民院議員となる。二度のサー・ロバート・ピール准男爵内閣︵保守党政権︶において下級大蔵卿︵在職1834年-1835年︶、陸軍・植民地省政務次官︵在職1835年︶、商務庁副長官︵在職1841年-1843年︶、商務庁長官︵在職1843年-1845年︶、陸軍・植民地大臣︵在職1845年-1846年︶を歴任して政治キャリアを積む。商務庁副長官・商務庁長官時代には様々な品目の関税削減・廃止を手がけ、自由貿易推進に貢献した。 1846年の穀物法廃止をめぐる保守党分裂では、穀物自由貿易を奉じるピール派に属して保守党を離党した。保守党から離れたことで経済思想以外も徐々に自由主義化していった。特に1850年秋に訪問した両シチリア王国において過酷な自由主義弾圧を目の当たりにして保守主義に嫌悪感を持つようになった。 1852年には第一次ダービー伯爵内閣︵保守党政権︶の大蔵大臣ベンジャミン・ディズレーリの予算案を徹底的に論破して否決に追い込み、同内閣の倒閣に主導的役割を果たした。続くアバディーン伯爵内閣︵ピール派・ホイッグ党連立政権︶においては大蔵大臣︵在職1852年-1855年︶として入閣し、更に多くの品目の関税廃止を実施して自由貿易を一層推進した。 1855年2月、クリミア戦争の泥沼化で総辞職したアバディーン伯爵内閣に代わって第一次パーマストン子爵内閣︵ホイッグ党政権︶が成立。はじめ同内閣にも大蔵大臣として入閣していたが、首相との方針の食い違いからすぐにも下野した。以降はパーマストン卿の強硬外交を批判した。 第二次ダービー伯爵内閣︵保守党︶期の1859年には保守党政権打倒のためホイッグ党、ピール派、急進派が大同団結して自由党を結成。これに伴いグラッドストンも自由党議員となった。 第二次ダービー伯爵内閣倒閣後の1859年6月に成立した第二次パーマストン子爵内閣︵自由党政権︶には大蔵大臣︵在職1859年-1865年︶として入閣し、英仏通商条約を締結するなどして自由貿易体制を完成させた。また﹁知識に対する税金﹂として批判されていた紙税を廃止した。続く1865年から1866年の第二次ラッセル伯爵内閣︵自由党政権︶では蔵相︵在職1865年-1866年︶留任のうえ、庶民院院内総務を兼務した。選挙法改正の機運が高まる中、自助を確立している上層労働者階級に選挙権を広げる選挙法改正を目指し、保守党庶民院院内総務ディズレーリと激闘したが敗れ、内閣総辞職に追い込まれた。 続く第三次ダービー伯爵内閣︵保守党政権︶で庶民院院内総務ディズレーリが行った第二次選挙法改正には、選挙権が貧民にまで拡大される恐れありとして反対したが、阻止できなかった。1867年末に引退したラッセル伯爵の後継として自由党党首となる。1868年2月に成立した第一次ディズレーリ内閣︵保守党︶に対して、アイルランド国教会廃止を掲げて挑み、11月の総選挙に勝利したことで同内閣を総辞職に追い込んだ。 代わって組閣の大命を受け、第一次グラッドストン内閣を組閣した。内政において様々な改革を実施した。まず先の総選挙での公約通りアイルランド国教会を廃止した。不在地主に理由なく追い出されたり、法外な地代をかけられたアイルランド小作人への補償制度を定めた法律も制定したが、これはほぼ﹁ざる法﹂に終わった。他の欧米諸国と比べて小学校教育普及が遅れていることを念頭に初等教育法を制定して小学校教育の普及を図った。外務省以外の省庁で採用試験を導入し、また軍隊の階級買い取り制度を廃することで、官界や軍における貴族優遇に歯止めをかけた。労働者上層に選挙権が広がったことを念頭に秘密投票制度の導入も行った。労働組合法を制定し、労働組合が賃金と労働時間以外のことを交渉するのを解禁した。一方で外交は不得手で、ドイツ帝国の勃興やロシア帝国のパリ条約黒海艦隊保有禁止条項の一方的破棄などを阻止できず、またアメリカ合衆国に対してもアラバマ号事件で賠償金を支払うことになるなど、相対的にイギリスの地位を低下させた。自由党内の分裂が深刻化し、1874年には所得税廃止を目指して解散総選挙に打って出るも、大英帝国の威信回復を訴えるディズレーリ率いる保守党が勝利し、総辞職を余儀なくされた。 1875年には自由党党首も辞し、半ば引退した生活に入ったが、1875年から1877年にかけてのバルカン半島をめぐる騒乱でディズレーリ政権の親トルコ・反ロシア外交を批判する運動の先頭に立って政治活動を再開した。総選挙を間近にした1879年には﹁ミッドロージアン・キャンペーン﹂を展開し、ディズレーリの第二次アフガン戦争、トランスヴァール共和国併合、ズールー戦争などの帝国主義政策を批判した。 1880年の総選挙で自由党が大勝したため、第二次グラッドストン内閣を組閣した。 アイルランド土地法を改正し、アイルランド小作農の地代を地代法廷で決めるなど小作農保護を強化した。また選挙区割りについて野党保守党に妥協することで第三次選挙法改正を達成し、男子普通選挙に近い状態を実現した。グラッドストンは小英国主義者であり、帝国主義には消極的だったが、オラービー革命が発生したエジプトには派兵し、革命を鎮圧してエジプトを半植民地となした。一方マフディーの反乱が発生したスーダンは放棄を決定し、国民的英雄チャールズ・ゴードン将軍を同地に派遣してスーダン駐屯エジプト軍の撤退の指揮をとらせようとしたが、ゴードンは撤退しようとせずに戦死したため、内閣支持率に大きな打撃を受けた。1885年にアイルランド強圧法を制定しようとしたことにアイルランド国民党が反発してソールズベリー侯爵率いる保守党との連携に動いた結果、議会で敗北して総辞職に追い込まれた。 1885年の総選挙の自由党の勝利、また保守党政権とアイルランド国民党の連携の崩壊により、ソールズベリー侯爵内閣倒閣に成功し、第三次グラッドストン内閣を組閣した。チャールズ・パーネル率いるアイルランド国民党と連携し、アイルランド自治法案を通そうとしたが、党内の反自治派が党を割って自由統一党を結成したため否決された。解散総選挙に打って出るも敗北して退陣した。 退陣後もアイルランド自治を掲げ、1892年の解散総選挙に辛勝したことで第四次グラッドストン内閣を組閣した。再びアイルランド自治法案を提出するも貴族院で否決された。さらに海軍増強に反対したことで閣内で孤立し、1894年に首相職を辞職した。次の総選挙にも出馬することなく、政界から引退した。 1898年5月19日に死去した。生涯[編集]
政治家になるまで[編集]
出生と出自[編集]
幼少期[編集]
グラッドストン家は資本主義の競争に勝ち抜いた中産階級に典型的な自由主義・合理主義・経験主義の家風だった。加えてスコットランドの気風とされる激しい情熱と抽象的理論の重視という家風も持っていた。そのため父は子供たちに対し、どんな些細なことでも慣れ合いで決めずに自由な討論をもって決するよう教育した[27][28][29]。グラッドストンによると、父のこの教育方針のおかげで議論好きになったという[27]。 幼少期にはジョン・バニヤンの﹃天路歴程﹄、ジェームス・リドリーの﹃精霊物語(Tales of the Genii))﹄、ジェーン・ポーターの﹃スコットランド豪族 (The Scottish Chiefs)﹄などの本から影響を受けたという[30]。イートン校[編集]
オックスフォード大学[編集]
ヨーロッパ大陸旅行[編集]
オックスフォード卒業後、兄ジョン・ネイルソン・グラッドストンとともにグランドツアーに出た。古典を多く学び、信心深いグラッドストンはイタリアに憧れを持っており、旅行の中心地もそこだった[80]。 ベルギーのブリュッセルとフランスのパリを経てフィレンツェ、ナポリ、ローマ、ヴェネツィア、ミラノなどイタリア各都市を歴訪した[80]。彼はサン・ピエトロ大聖堂を訪れた際にキリスト教は国教会も非国教徒もカトリックも同一であり、キリスト教を統一したいと願うようになったという[80][81]。 しかしフランス・パリの店が安息日にもシャッターを下ろさないことやイタリアのローマ・カトリック教会の﹁腐敗﹂と﹁非カトリック﹂ぶりには怒りを露わにし、国教会こそが真の国際的キリスト教の一部という確信を強めたという[81]。奇しくもこの翌年からオックスフォード大学の聖職者たちの間で盛り上がり始めるオックスフォード運動と似た結論に達したのであった[82]。保守党時代[編集]
23歳で初当選[編集]
処女演説[編集]
第一次ピール内閣下級大蔵卿[編集]
第一次ピール内閣陸軍・植民地省政務次官[編集]
﹃教会との関係における国家﹄[編集]
下野して時間に余裕ができたグラッドストンは改めて宗教問題に関心を寄せた。1830年代はオックスフォード運動[注釈 8]の影響で宗教問題がイギリスで盛んになっていた時期だった[108]。 この頃、エディンバラ大学神学教授トーマス・チャーマーズは﹁国家は宗教の真理を定める義務を負っているが、全体像だけ決めればよく、細部は神学者に任せるべきである﹂という主張を行っていたが、グラッドストンはこれに強く反発した[105][109]。また自由主義者による無宗教の風潮、アイルランド国教会廃止を狙う勢力の台頭にも脅威を感じ、国教会を守るための執筆を行う決意を固めた[110]。 そうして書きあげた﹃教会との関係における国家 (The State in its Relations with the Church)﹄を1838年秋に出版した[111][112][113]。この著作の中でグラッドストンは﹁国家は人間と同じく一つの宗教を良心として奉じなければならず、それはローマ教会よりも純粋なキリスト教であるイングランド国教会以外はありえない。だから国家は国教会を優遇して援助しなければならない。アイルランド人にも彼らが好むと好まざるとに関わらず、唯一の真理である国教会を信仰させなければならない。教義の比較検討は、チャルマーズが言うような"細部"にあたるものではなく重要なことである。国家はその宗教的良心に照らし合わせて、各教義を比較検討し、真理と虚偽を峻別する義務を負っている。﹂と主張した[111][114]。この本は保守派から好評を博したが、自由主義派からは一顧だにされなかった[115]。保守党党首ながら自由主義的なところがあるピールも﹁こんな下らない本を書いていたら、彼は政治生命を台無しにしてしまうぞ﹂と述べて心配したという[111][116]。結婚[編集]
第二次ピール内閣商務庁副長官[編集]
メルバーン卿の議会における求心力は低下し続け、1841年6月4日には保守党提出の内閣不信任案が1票差で可決された。メルバーン卿はヴィクトリア女王に上奏して解散総選挙に打って出たが、保守党の勝利に終わった。グラッドストンもニューアーク選挙区から圧勝で再選した。メルバーン卿は召集された議会で敗北して総辞職し、代わってピールが組閣の大命を受け、第二次ピール内閣が発足した[125][126]。 グラッドストンはアイルランド担当大臣としての入閣を希望したが、ピールはグラッドストンにその地位を与えたらアイルランド人に国教会を押し付けることに利用するだろうと見ていた。ピールはグラッドストンに神学論争から離れてほしがっており、そのためにも実際的な仕事をさせようと商務庁副長官のポストを与えた[127][128]。商務庁長官は貴族院議員リポン伯爵だったため、グラッドストンが庶民院における商務庁代表者となった[129][130]。グラッドストンは財政には門外漢だったが、この役職に就任したのを機に急速に財政に関する知識を身に付け、その勤勉さでリポン伯爵よりも商務庁の政務に精通するようになった。やがてリポン伯爵を傀儡にして商務庁の経済政策を主導するようになった[131][132]。 ピール内閣の経済政策は関税の引き下げによって殖産興業を促し、その間の一時的な減収は所得税を導入して補う事を基本としていた。そして関税引き下げの具体的内容は商務庁、つまりグラッドストンに一任された[133]。グラッドストンは、与野党の意見を調整して、関税が定められている1200品目のうち750品目もの関税を廃止するか引き下げることに成功した[134][135]。さらに彼は穀物法で保護されている小麦についてもただちに自由貿易に移行させようとしたが、ピール首相が保守党の支持基盤である地主︵保護貿易主義者が多い︶に配慮してブレーキをかけた。結局、小麦についてはスライド制にして段階的自由貿易を目指すことになった[136]。この関税問題を通じてグラッドストンは庶民院で何度も演説することになったため、雄弁家として高く評価されるようになり、﹁小ピール﹂とあだ名されるようになったという[137]。第二次ピール内閣商務庁長官[編集]
1843年5月に商務庁長官を辞任したリポン伯爵の跡を継いで、33歳にして商務庁長官に就任した︵初入閣︶[138][139]。商務庁長官として様々な改革に携わった。 1844年には鉄道法改正を主導した。これによって各鉄道の三等客車の環境が大きく改善し︵それまで三等客車は屋根がなかったり、貨物や家畜と一緒だったりすることが珍しくなかった︶、また三等客車の数も増やされ、庶民が鉄道を利用しやすくなった。この鉄道法改正で導入された新しい三等客車は庶民から﹁議会列車﹂と呼ばれて親しまれたという[140]。 続いて公共職業安定所を設置し、ロンドン港の荷揚げ人足が酒場から徴収される慣習を断ち切った︵この慣習のせいでこれまで失業者はお金を工面して酒場で酒を飲んで酒場の店主に媚を売って仕事をまわしてもらわなければならなかった︶[141]。 1845年初めには更なる関税廃止改革を断行し、450品目もの関税を廃止した[141]。 しかしこの直後の1845年2月3日に商務長官を辞職することになった。ピール首相がアイルランド議員懐柔のためにダブリンのカトリック聖職者養成学校マーヌース学院への補助金を増額させようとしたことが彼の宗教的信念に反したためだった。グラッドストンはそれが避けられない政策であると理解していたが、著書﹃教会との関係における国家﹄がまだ出版中だったので言行不一致と批判されることを憂慮してのことだった。庶民院の演説で辞任理由について個人的な良心の問題であることを強調してなるべくピール首相に迷惑をかけない形で辞任した[139][142][143]。第二次ピール内閣陸軍・植民地大臣[編集]
ピール首相は様々な関税の引き下げ・撤廃を行ったが、地主への配慮から穀物法は温存していた。だが、1845年夏以降の不作により、ジャガイモを主食とする貧民が多いアイルランドがジャガイモ飢饉に陥ったことで事情がかわった[144]。ピール首相は、アイルランドの食糧事情を改善するため、野党ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿と声を合わせて穀物法廃止を主張するようになった[145]。 しかし保守党内には地主を中心に穀物自由貿易への反発が根強く、11月にピール内閣は閣内不一致で一度総辞職した。ホイッグ党党首ジョン・ラッセル卿が組閣の大命を受けるも組閣に失敗し、結局ピールが続投することになり、保護貿易主義者のスタンリー卿︵後の第14代ダービー伯爵︶とバクルー公爵を辞職させた自由貿易内閣を組閣した[146][147]。 この際にグラッドストンは辞職したスタンリー卿の後任として陸軍・植民地大臣に就任した[148]。当時のイギリスには途中から入閣した者は一度議員辞職して再選挙しなければならないという法律があったため、庶民院議員を辞職したが、ニューアーク選挙区を支配するニューカッスル公爵が保護貿易主義者であったため、ここでの再立候補を断念し、当面民間人閣僚となった[149][150]。穀物法をめぐる党分裂[編集]
ピールは穀物法廃止法案を提出したが、保守党内反ピール派の筆頭ベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿がピールを﹁イギリス農業を崩壊させようとしている党の裏切り者﹂と糾弾するキャンペーンを行ったため、保守党所属議員の三分の二以上の造反にあった。しかし野党であるホイッグ党と急進派が支持に回ってくれたおかげで、無事庶民院を通過した[151][152][153][注釈 9]。 しかし直後にホイッグ党は、ディズレーリやベンティンク卿ら保守党内反ピール派と連携して、ピールの提出したアイルランド強圧法案を1846年6月29日の庶民院で否決に追い込み、ピール内閣を総辞職に追い込んだ[153][155][156][157]。 この一連の騒動でピールとピールを支持した自由貿易派の保守党議員112人は保守党を離党してピール派を結成することになった。グラッドストンもピールに従って保守党を離党した[158]。ピール派時代[編集]
自由主義化[編集]
ピール内閣総辞職後、ホイッグ党のジョン・ラッセル卿内閣が発足したが、少数与党政権だったので、1847年6月にも解散総選挙となった[159]。この選挙でグラッドストンはオックスフォード大学選挙区から出馬して二位当選を果たした︵以降1868年までこの選挙区から当選を続ける︶[160]。総選挙全体の結果はピール派が60名程度に減ったこと以外、改選前と大きな変化はなく、結局ラッセル内閣は議会の基盤が不安定だが、保守党が分裂しているために政権を維持できるという状態で政権運営を続けることになった[161][162]。 グラッドストンは役職に就けなかった1846年から1852年に至る期間を﹁部分的中絶﹂期と呼んでいるが、彼にとってこの時期は経済政策以外も自由主義思想に近づいていく変化の時期であった[163]。 まず変化したのは宗教に関する認識である。彼はなお国教会を国際キリスト教の中心と認識していたが、現実のイギリス社会では国教会は希薄化する一方だった。政府が国教会に特権を与えて国教会の優位を確保しようとしても、国教会は国の庇護に安住してしまい、内部分裂と弱体化を繰り返す一方だった。そこでグラッドストンは国教会から特権をはく奪して他の宗教・宗派との自由競争を促し、結果的に国教会を発展・強化させることを志向するようになったのである[164]。 グラッドストンはその第一弾として1847年にユダヤ教徒の議会入りを禁じた法律の廃止に信教の自由の観点から賛成した。これはこれまでのグラッドストンの国教会絶対主義の立場から考えれば大きな変化に思われ、選挙区のオックスフォード大学の聖職者からも批判を受けた︵1848年にグラッドストンがオックスフォード大学から法学博士号を送られた際に﹁ユダヤ法のな!﹂というヤジが飛んだという︶[165][166]。 またグラッドストンは1839年の阿片戦争に反対するなど、以前から弱小国イジメをキリスト教の精神に反する暴虐と看做して反対してきたが、自由主義化によってそれが一層顕著になった。1849年のドン・パシフィコ事件をはじめとするパーマストン子爵外相の強硬外交を批判した[167][168][169]。植民地に対する認識も植民地の自治・自弁を推進することで本国の出費を減らし、かつ大英帝国という緩やかな結合を維持してその威光を保とうという後年の小英国主義になっていった[170]。 ただこの時点での彼は自分が自由主義者になったとは認識しておらず、保守党がその﹁悪弊﹂を改めたなら保守党へ戻るつもりでいたという[171]。両シチリア王国の自由主義者弾圧に怒り[編集]
ディズレーリとの初対決[編集]
1851年末から1852年初頭にかけて与党ホイッグ党は首相ラッセルの派閥と外相を解任されたパーマストン卿の派閥に分裂した。1852年2月の議会においてラッセル内閣は、パーマストン卿派と野党保守党の連携によって倒閣された[182][183]。代わって組閣の大命を受けた保守党党首ダービー伯爵はピール派に入閣交渉を持ちかけたが︵この際にグラッドストンに外務大臣の地位が提示された︶、グラッドストンを含むピール派は保守党がいまだ保護貿易主義を明確に放棄していない事を理由に入閣を拒否した[184]。 結局ダービー伯爵は保守党議員のみで少数与党内閣を組閣した。この内閣に大蔵大臣として入閣したのは保守党庶民院院内総務ディズレーリであったが、この人事を聞いたグラッドストンは、妻への手紙の中で﹁私はこれ以上最悪の人選を聞いたことがない﹂と書いている[185]。 ディズレーリはピールを失脚に追い込んだ張本人としてピール派の憎悪の的となっており、ディズレーリが作成する予算案を潰すことはピール派にとって弔い合戦だった[186]。 ディズレーリは1852年12月3日の庶民院に予算案を提出したが、その内容は保護貿易主義と自由貿易主義の折衷をとったものだった。すなわち自由貿易で損害を被ったと主張している地主たちに税法上の優遇措置を与えつつ、その減収分は所得税と家屋税の免税点を下げることによって賄う内容だった[186][187]。 地主優遇と所得税を嫌うグラッドストンにとっては断じて許せない内容であり、12月16日夜から翌日早朝までにかけての庶民院の総括討議においてディズレーリの予算案を徹底的に攻撃して論破した。この討論はこれから長きにわたって続く、グラッドストンとディズレーリの最初の対決となったが、最初の対決はグラッドストンに軍配があがった。グラッドストンの演説後に行われた午前4時の採決では保守党を除く全政党が反対票を投じ、ディズレーリの予算案は否決されたのである[188][189][190]。 グラッドストンはこの勝利によって庶民院における指導的地位を確立した[191]。アバディーン内閣大蔵大臣[編集]
パーマストン外交を批判[編集]
﹃ホメーロスとその時代﹄[編集]
第一次パーマストン内閣期の野党時代にグラッドストンは古代ギリシアの詩人ホメーロスの研究に打ち込んだ。その成果は1858年3月にオックスフォード大学から出版された著書﹃ホメーロスとその時代﹄︵全3巻︶にまとめられた[218][219]。 この著作はホメーロスの著作にはキリスト教の萌芽が見られると主張するものだった︵たとえばゼウス・ポセイドン・ハーデスはキリスト教の三位一体にあたると主張している︶。しかし一般的にはこの著作は荒唐無稽と評価された[220][221]。 グラッドストンがこの本の出版を決意したのはギリシャ正教会とイングランド国教会の統一を希望していたためであるといわれる[222]。 古代ギリシャやホメーロスはグラッドストンが生涯を通じて興味を持っていた分野であり、この後もしばしばこの分野の本を出版する[219]。自由党時代[編集]
自由党の結成[編集]
総辞職したパーマストン子爵内閣の後を受けて、1858年2月25日には保守党政権の第二次ダービー伯爵内閣が成立した。 1859年3月に大蔵大臣・庶民院院内総務ディズレーリが庶民院に提出した選挙法改正法案が否決されたことで解散総選挙となり、保守党があと少しで過半数を獲得できるところまで議席を伸ばした。これに対する野党の危機感とイタリア統一戦争の勃発[注釈 10]による自由主義ナショナリズムの盛り上がりを背景にホイッグ党の二大派閥︵ジョン・ラッセル卿派とパーマストン子爵派︶、ジョン・ブライト率いる急進派、ピール派が合同して自由党が結成された[223][224]。 これによりグラッドストンも自由党議員となった。ダービー伯爵政権は少数与党政権なので野党が一つに団結すれば政権は維持できず、1859年5月にも自由党から内閣不信任案を突き付けられて内閣総辞職に追い込まれた。グラッドストンは自由党議員でありながらこの不信任案に反対票を投じた。グラッドストンは自由党を率いるパーマストン子爵と︵保守党の大部分を占める親オーストリア派を排除した︶保守党少数派を率いるダービー伯爵による連立政権を希望していたためといわれる[225]。第二次パーマストン内閣大蔵大臣[編集]
第二次ラッセル内閣庶民院院内総務[編集]
ディズレーリの第二次選挙法改正をめぐって[編集]
自由党党首に就任[編集]
1867年12月に自由党党首ラッセル伯爵が76歳の高齢を理由に党首職を辞した[268][269][270]。当時首相を務めないと党首を名乗れない慣習があったので、正式な就任ではないが、実質的にグラッドストンが党首となった[268]。 この頃、アイルランド独立を目指す秘密結社フェニアンの暴動がイングランドで多発していた[271]。アイルランド問題の解決が政治の緊急の課題となり[269]、グラッドストンはアイルランド国教会の廃止、アイルランド教会の国教会からの分離を党の目玉公約とすることを決定した[268][272]。 30年前の著書﹃教会との関係における国家﹄の中でアイルランド人がどう思おうが、国教会が唯一の真理なので押し付けるべきと主張していた彼が自由主義化の果てにとうとうこのような結論に達したのだった[273]。アイルランド国教会廃止を公約[編集]
第一次グラッドストン内閣[編集]
アイルランド国教会廃止[編集]
1869年2月に新議会が招集された。グラッドストンは早速アイルランド国教会廃止法案を庶民院に提出した[289]。自由党はアイルランド国教会問題を争点にして総選挙に勝利したのだから、庶民院でこの法案を止められる者はなく、法案は100票以上の大差をもって各読会を通過した[290]。 問題は保守党が恒常的に多数を占める貴族院だった。さすがに総選挙で勝利した法案に表立って逆らうのは貴族院でも難しい情勢だったが、それでも貴族院︵とりわけ利害関係のある聖職者議員︶は条件闘争を行い、教会の財産問題をめぐって何度も庶民院への差し戻しを行った[291][292]。だがジョン・ブライトが﹁貴族院がいつまでも頑固な態度を続けるなら、彼らは不利な立場に追いやられるかもしれない﹂と貴族院改革を臭わせる脅迫を行ったのが功を奏して、決定的な修正をされることなく、1871年になって法案は貴族院を通過した[292][293]。 この法案の成立によりアイルランド国教会は公的地位を喪失して自由教会となった[289][294]。アイルランド人が教会税を納める必要もなくなった[295]。また国教会の残余財産900万ポンドは国教会廃止により損害を被った者への補償に充てることとなった[289]。アイルランド小作農への補償制度[編集]
当時のアイルランドは、イングランド産業を害さないように農業以外の産業が育たないよう法律で様々な規制がかけられており、ほぼ農業のみで成り立っていたが、アイルランド農地のほとんどは17世紀の清教徒革命以来、イングランド人の不在地主の所有であり、アイルランド人はその下で高い地代を支払う小作農として働き、貧しい生活を余儀なくされていた[294][296][297]。アイルランド人小作人が土地に付加価値︵開墾して新田を作ったり、小屋を建設するなど︶を付けると、不在地主は土地の価値が上がったとして地代を吊り上げ、小作人が地代支払い不能になると、それを理由に小作人を土地から追いだし、残された土地の付加価値は不在地主がただで手に入れるということが横行していた[297][298]。 グラッドストンはこの問題にも切りこみ、1870年2月にアイルランド土地改革法案を提出した[299]。この法案は地主の抵抗に遭いながらも[300]、保守党党首ディズレーリがこの法案を対決法案としなかったこともあって[301]、法案は決定的な修正がされることなく通過した[300]。 この法律により地主が小作人から理由なく土地を取り上げた場合には地主は小作人に法定の地代相当額を補償金として支払わねばならなくなった。また地代未納を理由とする強制立ち退きの場合であっても裁判所が﹁地代が法外﹂と認定した場合には補償の対象となった。また小作人が土地に付加した価値の補償も義務付けたが、これについては強制立ち退きの理由の有無を問わないものとされた[302]。 だが地代未納を理由とした強制立ち退きの際の﹁法外な地代﹂に相当するかどうかの裁判所の判定は地主寄りになりやすく、また小作人が土地に付加した価値への補償についても地主は予め小作人との契約でその分の金額を徴収するようになり、支払わないケースが一般的になった。したがってこの法律はほとんど﹁ざる法﹂に終わった[302]。小学校教育の普及[編集]
軍隊・官僚制度の改革[編集]
1870年には外務省を除く全省庁で採用試験制度を導入した。これによって官僚の中心は貴族から高学歴エリート︵当時は大学の門が狭かったので大卒者も結局貴族が多かったが︶へと変貌していった[311]。外務省だけ除かれたのは外相クラレンドン伯爵が強硬に反対したためだった[312]。 またグラッドストンは、普仏戦争に圧勝したプロイセン軍を見て、軍隊改革の必要性も感じていた。当時のイギリス軍では将校の階級を買い取ることができ、貴族が次男・三男の就職先としてよく購入していた。この制度のせいで軍の能率が悪くなっていると感じたグラッドストンはこの制度を廃止する決意を固めた。陸相カードウェルがこれを陸軍統制法案として議会に提出したが、貴族や軍人の保守党議員、また自由党ホイッグ派︵貴族が多い︶が激しく反発し、議事妨害さえ行った[313]。結局法案は庶民院は通過したものの、貴族院で否決された[314]。 グラッドストンは将校階級買い取り制度の法的根拠がジョージ3世の勅令だったことを利用して、ヴィクトリア女王を説得して、彼女の勅令をもって強引にこの制度を廃止した[312][313]。これに対して野党保守党党首ディズレーリは﹁政府が窮境を免れるために女王陛下の勅令を利用するとは非立憲的である﹂と批判したが[314]、この点は党内の急進派からも批判され、党内の亀裂が広がった[312]。秘密投票制度の確立[編集]
当時のイギリスの選挙投票は口頭で公開式に行われたので、有力者に脅迫されて有権者の投票行動が操られることが多かった[315]。そのため秘密投票制度への移行を求める議論もあったが、一方で秘密投票反対論も根強かった。というのも当時一般に選挙権は﹁国民の権利﹂ではなく貴族と中産階級だけに許された﹁特権﹂と認識されており、特権階級が特権︵=責任︶を秘密裏に行使することは論理的に問題があると考えられたからである[315][316]。 だがグラッドストンは労働者上層まで選挙権を得た今、彼らが雇用主に脅迫されて投票を縛られることがないよう秘密投票に変更すべきと考えており[316][317]、1871年に秘密投票法案を議会に提出した。法案は庶民院を通過したものの、保守党が多数の貴族院に審議不十分として差し戻された。しかし解散をちらつかせて、保守党を脅迫したことで︵彼らは自由党政権の支持率回復の恐れがあるこの法案での解散総選挙をしたくなかった︶、翌1872年に秘密投票法案を可決させることに成功した[318]。 秘密投票制度の確立によって、とりわけアイルランド農民が地主に投票行動を操られなくなり、アイルランド国民党が庶民院に進出してくるきっかけとなった[319]。労働組合法[編集]
イギリスでは1825年に﹁賃金・労働時間について、暴力や脅迫を用いずに平和的に雇用主と交渉する労働組合﹂については合法化されていた。これに該当するか否かの判断は裁判所の裁量に任されており、裁判所ははじめ労働組合寄りの判決を出してきたが、労働組合が成長してきた1860年代から労働組合を抑えこもうと雇用主寄りの判決を出すことが多くなった。これに労働者上層部の不満が高まっていた[320]。 これに対応してグラッドストンは1871年に労働組合法を制定し、賃金と労働時間の交渉だけでなく、どんな目的の交渉であっても労働組合がストライキを行うことは合法とした。ただしピケッティング︵スト破り防止︶の活動は禁止した。そのためストライキがスト破りによって骨抜きにされてしまう危険をはらんだままだった[321]。 ピケッティングは後にディズレーリ政権下で合法化されることになる[322]。ドイツとロシアの脅威[編集]
アラバマ号事件[編集]
アメリカ南北戦争中、南軍がイギリスで建造した偽装巡洋艦アラバマ号が、2年にわたって大西洋上で北軍の船を攻撃した。これについて戦後アメリカ大統領ユリシーズ・グラントは、アラバマ号をはじめとする偽装巡洋艦はすべてイギリスで建造された物であり、イギリスの港から出撃し、その操縦員はイギリス人であることが多かった点を指摘し、イギリスに賠償を要求した[329]。 これに対してグラッドストンは1872年に保守党のスタッフォード・ノースコートとオックスフォード大学国際法教授モンタギュー・バーナードをアメリカ首都ワシントンに派遣し、交渉に当たらせた。その結果、イギリス政府は賠償金を支払うことになったが、その金額はアメリカ政府が初めに要求した額の三分の一に減じることができた[329]。 国際道理上、アラバマ号の与えた損害は、イギリスが賠償すべきものであり、それを三分の一まで減額できたことはイギリス外交の勝利といえたが、国内世論はこれを外交的失態と看做す論調が多く、グラッドストン批判が強まった[330]。アイルランド大学改革に失敗[編集]
権威の低下[編集]
アイルランド大学法案の否決を受けてグラッドストンは総辞職を表明した。これを受けてヴィクトリア女王は保守党党首ディズレーリに組閣の大命を与えたが、総選挙を経ず少数党のまま政権に付きたくなかったディズレーリは拝辞した[338]。これに対してグラッドストンは内閣への信任決議相当の政府法案が否決された場合には、野党第一党は後継として組閣するのが義務であると述べてディズレーリの態度を批判した[338][339]。 結局グラッドストンが首相に留任したが、その間も自由党はますます分裂した。ホイッグ派は先の軍隊・官僚制度の改革に不満を高めており、一方急進派は初等教育法や労働組合法の不十分に不満を持っていた[340]。グラッドストンの権威は日に日に弱まり、1873年8月にはマッチ税導入の失敗の責めを負って大蔵大臣ロバート・ローが辞職したが、後任が決まらずグラッドストンが大蔵大臣を兼務している[2][341]。党の内部分裂の深刻さから、そのうち他の閣僚からも辞職者が出るだろうと噂された[341]。 一方ディズレーリは、グラッドストンの﹁弱腰外交﹂を批判して国民の愛国心を煽り、総選挙に備えていた[342][343]。総選挙惨敗、退陣[編集]
グラッドストンは財政が黒字になっていたことから念願の所得税廃止に乗り出そうとしたが、閣内から所得税を廃止できるほど十分な黒字ではないとの反論を受けた。反対閣僚たちは総選挙で有権者の信任を得ない限り、自分たちの省庁は予算削減には応じないという態度を取った[344]。これに対してグラッドストンは1874年1月23日に﹁自由党の復活を国民に問う﹂として解散総選挙を発表した[345]。閣内不一致の件は秘匿されていたため、世間には突然の解散総選挙のように見え、与党議員さえも仰天したという[344]。 選挙戦中、グラッドストンは所得税廃止をスローガンにしたが、党勢はふるわなかった[346]。自由党の分裂状態に加え、自由党の支持基盤の一つであるアイルランド有権者が秘密投票制度の確立によって自由党ではなくアイルランド国民党を支持するようになったためである[347]。 1874年2月に行われた解散総選挙の結果は、自由党254議席、保守党350議席、アイルランド国民党57議席だった[348]。この敗北を受けてグラッドストンはディズレーリ前内閣に倣って新議会招集を待たずに総辞職した。ディズレーリが組閣の大命を受け、第二次ディズレーリ内閣が発足した[349]。自由党党首引退[編集]
反トルコ運動を主導[編集]
当時バルカン半島はイスラム教国オスマン帝国の統治下にあり、キリスト教徒スラブ人に対して重い特別税が課されるなど圧政が行われていた。1875年7月にはヘルツェゴビナとボスニアのスラブ人がトルコに対して蜂起した。この蜂起で汎スラブ主義が高まり、1876年4月にはブルガリアのスラブ人も蜂起し、続いて同年6月にはトルコ宗主権下のスラブ人自治国セルビア公国とモンテネグロ公国がトルコに宣戦布告した。最大のスラブ人国家ロシアも資金と義勇兵を送ることでこの一連のスラブ人蜂起を支援した。これに対抗してトルコ軍はブルガリアで1万2000人を超える老若男女を大量虐殺した[355][356]。
1876年6月23日付けの﹃デイリー・ニューズ﹄がこの虐殺を報道したことでイギリス世論はトルコに対して急速に硬化した[357][358][359]。ディズレーリ首相は、バルカン半島がロシアの手に堕ちることでイギリスの地中海の覇権が失われることを恐れており、終始親トルコ的態度をとったが、彼のそのような態度は世論の激しい批判を集めた[360][361][362][363]。
グラッドストンは以前よりバルカン半島問題について﹁トルコがこれ以上暴政を続ける事も、ロシアがスラブ人自治を装って支配することも﹃貪欲(Greed)﹄であるから許されない。ヨーロッパ各国の監視の下に本当の意味でのスラブ人自治を達成しなければならない﹂という見解を示していた[364]。ハワーデン城で半ば引退した生活を送っていたグラッドストンだったが、クリミア戦争の頃から閣僚だった政治家としてバルカン半島を救う責任を感じて政治活動を再開した[360]。
早速反トルコ・パンフレット﹃ブルガリアの恐怖と東方問題﹄の執筆を開始し、9月6日にこれを出版した[365]。グラッドストンはその中で﹁人類の中でも反人間の最たる見本がトルコ人だ。我が国の凶悪犯、あるいは南海の食人種でさえも、トルコ人がブルガリアで犯した虐殺を聞いて戦慄しない者はいないだろう。我々が取るべき道は、トルコ人の悪行と手を切り、バルカン半島からトルコ人を追い出すことだ。﹂と主張した[366]。このパンフレットは9月末までに24万部を売りきっている[365]。
グラッドストンは反トルコ運動の象徴的人物となり、イギリス中の反トルコ論者がハワーデン詣し、そこでグラッドストンからブルガリアで行われている虐殺についての講義を受けた[367]。グラッドストンの地元であるリヴァプールでは特に反トルコ機運が盛り上がり、シェークスピアの﹃オセロ﹄の上演で﹁トルコ人は溺死した﹂というセリフが出るや、観客が総立ちになり、拍手喝采に包まれたという[366][368]。
露土戦争をめぐって[編集]
セルビアが敗北するとロシアは危機感を強め、1877年4月にトルコに宣戦布告して露土戦争を開始した[369][370][371]。しかしロシア軍の侵攻はプレヴェンでトルコ軍によって5か月も阻まれた[369]。
この間、イギリスの国内世論もだんだんトルコに同情的になっていった[372]。だがグラッドストンの反トルコの立場は揺らがず、1877年5月には﹁トルコを支援しないこと、バルカン半島諸民族の独立を支援すること、ヨーロッパ列強が足並みをそろえてトルコに圧力をかけること﹂を求める動議を議会に提出したが、反応はよくなかった。自由党党首ハーティントン侯爵は自由党議員全員にこの動議に賛成させたものの[373]、彼も内心では﹁グラッドストンは反トルコ思想の行きすぎでロシアの侵略的な野望に盲目になり過ぎている﹂と考えていた[374]。結局この動議は与党保守党の反対で否決されている[375]。世論のグラッドストンへの反感も強まり、﹁ロシアの手先﹂と罵られて、家に投石を受ける事件も発生した[374]。
ロシアは英国が参戦してくる前にトルコにサン・ステファノ条約を締結させた。この条約でエーゲ海まで届く範囲でロシア衛星国大ブルガリア公国が樹立された。ディズレーリはこれに反発し、英露関係が緊張する中、1878年6月にベルリン会議が開催された。会議にはディズレーリ自らが出席して強硬な姿勢を貫いた結果、大ブルガリア公国は分割され、ロシアのエーゲ海進出は防がれた。この外交的成功でディズレーリの名声は高まった[376][377]。このベルリン条約の批准が議会にかけられた際、グラッドストンはギリシャの要求を無視したものであること、また女王大権を利用して議会に諮らず独断で結んだ条約であることを批判する動議を提出したが、この動議は否決された[378]。
ミッドロージアン・キャンペーン[編集]
総選挙に大勝、再び首相へ[編集]
第二次グラッドストン内閣[編集]
アイルランド小作農保護強化[編集]
第三次選挙法改正[編集]
アフガニスタン保護国化[編集]
ロシアの中央アフリカ進出を恐れたインド総督リットン伯爵がディズレーリ前政権に開始させた第二次アフガニスタン戦争はイギリスの勝利に終わったが、この戦争を批判していたグラッドストンはリットン伯爵を﹁戦争の元凶﹂と看做して更迭し、リポン侯爵を後任のインド総督に任じた[441]。 グラッドストンは、1880年7月にアフガニスタン王アブドゥッラフマーン・ハーンとの間に﹁アフガンはイギリス以外の国と外交関係をもたない、イギリスはアフガンの内政に干渉しない、他国がアフガンに侵攻した際にはイギリス軍がアフガンを支援する﹂ことを約定した[442]。ロシアは第二次アフガニスタン戦争を見てアフガニスタン支配を諦めたようだったが、ヴィクトリア女王はなおもロシアがアフガニスタンに野望を持っていると確信していたので、アフガニスタンから英軍を撤退させることには反対の立場であり、グラッドストンはその説得に苦労した[443]。 アブドゥッラフマーン・ハーンはロシアの侵略からアフガンを守るにはイギリスの庇護下にあらねばならないという現実をよく理解していた。そのため彼は在位中一貫してイギリスとの約束を守って外交は全てイギリスに任せ、群雄割拠状態の国内を統一する事に努めたので両国関係は極めて安定していた[444]。トランスヴァール独立を容認[編集]
オラービー革命とエジプト出兵[編集]
スーダンの反乱・ゴードン将軍の死[編集]
植民地獲得競争の時代へ[編集]
イギリスのエジプト占領でエジプトにおける利権を排除されたフランスはイギリスへの不満を高めていた。これを見たドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは、フランスが対独復讐を忘れ、かつイギリスと対立を深めるよう、フランス首相ジュール・フェリーを誘導してフランスに本格的な植民地政策に乗り出させた[500]。 ヨーロッパ諸国の連帯を重視するグラッドストンは1884年6月にエジプト問題について話し合うロンドン会議を開催して英仏の利害関係調整にあたろうとしたが、ドイツがフランスに支持を与えたため、会議は満足な成果を上げられなかった[501]。この結果を見てグラッドストンも今やドイツの支持が無ければ国際協調は成り立たないと認識した。そのためグラッドストンはドイツのニューギニア併合を認めるなど親独的な態度をとる事が多くなっていった[500]。 こうしたグラッドストンの中途半端な態度は、フランスやドイツの本格的なアフリカ大陸進出を招き、アフリカ分割は一気に加熱していくことになった[461][468]。 1884年11月にはベルギー国王レオポルド2世が領有権を主張するコンゴをめぐってビスマルクがベルリン会議を開催した[502]。この会議でヨーロッパ列強はコンゴにおける利害関係を調整しながら、今後の植民地分割のルールを策定した[503]。 これ以降全世界規模で欧米日など列強諸国が表向き協調しつつ、競争して植民地獲得に乗り出すという帝国主義時代が本格的に到来することになった[468]。保守党とアイルランド国民党の連携で総辞職[編集]
アイルランド強圧法の期限が1885年8月に迫る中、グラッドストン政権は強圧法の延長論に傾いていたが、商務相ジョセフ・チェンバレンら新急進派閣僚がそれに反対し、閣内分裂状態に陥った[504][505]。 一方保守党は強圧法廃止を約束してアイルランド国民党に接近を図った[504][505]。アイルランド国民党はアイルランド自治への最大限の譲歩を手に入れることが目的なので、譲歩する意思があるなら保守党政権でも自由党政権でも構わなかったのでこれに応じた[506]。 1885年6月8日に保守党が提出した予算案修正案にアイルランド国民党議員が賛成したことで修正案が可決された。この敗北を受けて第二次グラッドストン内閣は総辞職することとなった[506][507]。政権はすっかりグダグダしていたので、グラッドストンたちは総辞職の口実ができたことを喜びさえしたという。総辞職を阻止するための手段も何ら取らなかった[507]。 ソールズベリー侯爵に大命があったが、保守党は依然として少数党なので、ソールズベリー侯爵はグラッドストンの協力を条件に求めたが、それが無理そうだと分かると大命を拝辞し、グラッドストンを再度首相に任じるべきことを奏上した。しかしグラッドストンも拝辞したので、結局総選挙まで女王が二人の関係を斡旋するという条件でソールズベリー侯爵が首相に就任した[508][509]。 6月24日、グラッドストンが国璽の引き渡しのためにウィンザー城を訪問した際、ヴィクトリア女王は伯爵位を与えると申し出たが、グラッドストンは生涯庶民院に奉仕したいと奉答して拝辞した[510][511]。女王は以前からグラッドストンに伯爵位を与えて貴族院へ移し、﹁人民のウィリアム﹂の牙を削ぎたがっていたのだが、グラッドストンの﹁議会政治の本道は庶民院にあり﹂という強い信念は梃子でも動かなかった[512]。アイルランド自治の決意[編集]
政権奪還へ[編集]
1885年11月から総選挙が開始された。自由党が大勝した後の総選挙であるから自由党が議席を落とすことが予想されたが、ジョゼフ・チェンバレンとその腹心のジェス・コリングスによる小作人に﹁3エーカーの土地と一頭の牛﹂を与えようというキャンペーンが功を奏し[521]、自由党が322議席、保守党が251議席、アイルランド国民党が86議席をそれぞれ獲得した[522][523]。自由党は保守党より優位の状態を保ったが、過半数は割り、アイルランド国民党がキャスティング・ボートを握ることとなった[522][524]。保守党は少数党のままなので敗れた形だが、ソールズベリー侯爵は自由党の過半数割れを口実にして政権に留まった[525][526]。また自由党が過半数割れしたことで保守党は選挙前よりアイルランド国民党との連携に固執しなくなった[526]。 1886年1月21日に議会が招集され、政府は施政方針演説でアイルランドに対して強圧法案と土地改革法案の二点セット、つまり﹁飴と鞭﹂で臨むことを表明した[527][528]。強圧法案に反発したアイルランド国民党はアイルランド自治を主張するグラッドストンの自由党と結び、1月26日に施政方針演説の修正動議を可決させ、ソールズベリー侯爵内閣を総辞職に追い込んだ[525][526]。しかしアイルランド問題に揺れているのは自由党も同じであり、ホイッグ派のハーティントン侯爵らはこの修正動議に反対票を投じてグラッドストンに造反している[528]。第三次グラッドストン内閣[編集]
チェンバレンの不満[編集]
ハーティントン侯爵やブライトの協力が期待できない以上、チェンバレンを重用すべきだったが、グラッドストンはそれにも失敗した。 チェンバレンは植民地大臣としての入閣を希望していたが、グラッドストンは﹁議員生活10年の政治家に植民地相は格が高すぎる﹂として拒否し、自治大臣職を彼に与えた[533][534][注釈 16]。 またグラッドストンは緊縮のため、政務次官の一律減俸を行ったが、チェンバレンは先の総選挙の﹁3エーカーの土地と一頭の牛﹂キャンペーンの功労者であるジェス・コリングスの俸給まで減らされることに反発した[536]。 さらにグラッドストンは後述するアイルランド自治法案の起草に熱中する余り、チェンバレンが作成した地方自治法案を閣議でまったく取り上げようとしなかった[537]。このようなことが重なってチェンバレンの不満は高まっていった。アイルランド自治法案[編集]
総選挙敗北、退陣[編集]
1886年6月から7月にかけて総選挙が行われた[551]。グラッドストンはアイルランド自治を訴えて精力的に演説を行ったが[551]、そのアイルランド一辺倒は有権者から選挙の関心を奪った[515]。 選挙の投票率は低く、保守党が316議席、自由党が196議席、自由統一党が74議席、アイルランド国民党85議席をそれぞれ獲得した[549][550][552]。自由党の惨敗だったが、得票総数で見ると野党︵保守党と自由統一党︶との差は10万票に過ぎず、議席に大きな差が出たのは小選挙区制度のマジックであった[553]。 ともかくこの議席差では政権運営は不可能であり、グラッドストン内閣は7月30日には総辞職した[554]。保守党政権のアイルランド弾圧との戦いとパーネル危機[編集]
ニューカッスル綱領と総選挙辛勝[編集]
1880年代後半は、長引く不況で失業者が増える中、労働者問題が注目されていた時期である。1888年にはマッチ工場の女工たちがストライキを起こし、その悲惨な労働環境を訴えて世間の注目を集めた。1889年にはガス労働者や湾岸労働者がストライキを起こし、労働組合を結成した[572]。 こうした情勢の中、﹁伝統的な自由放任主義は限界にきており、社会政策への取り組みが必要だ﹂という主張が多くなされるようになった[573]。古風な自由主義者であるグラッドストンは自由放任主義の修正に消極的だったが、側近たちからの忠告でしぶしぶアイルランド自治法以外にも労災の雇用者責任や労働時間の制限などの公約を盛り込んだニューカッスル綱領を作成した[573][574]。 1892年6月末に解散総選挙となった。選挙の結果、自由党が274議席、保守党が269議席、アイルランド国民党︵パーネル派・反パーネル派合わせて︶が81議席、自由統一党が46議席を獲得した[575][576][577]。グラッドストンはアイルランド自治派︵自由党とアイルランド国民党︶が100議席以上の差をつけて反アイルランド自治派︵保守党と自由統一党︶に勝つと予想していたが、実際には40議席差の辛勝となった[575]。第四次グラッドストン内閣[編集]
再度アイルランド自治法案[編集]
内閣成立後、再びアイルランド担当大臣として入閣したジョン・モーリーとともにアイルランド自治法案の作成を開始した。この法案作成の作業中、グラッドストンはモーリーに﹁私の健康状態はまだ悪くはないが、目と耳が悪くなりすぎている。早晩私は辞職することになるだろう﹂と弱気を漏らしたという[580]。 1893年3月に法案を議会に提出した。今回のアイルランド自治法案は第三次内閣時の法案に修正を加えたもので、アイルランド人を連合王国議会から排除せず、80名の枠でアイルランド人が連合王国議会に議員を送り込むことを認めたものだった[580]。 相変わらずアイルランド自治に反対していたチェンバレンが反対運動の先頭に立った。またチェンバレンの息子であるオースティンが先の総選挙で初当選しており、アイルランド自治法案反対の処女演説を行った。グラッドストンはオースティンの処女演説を褒めてやり、それに嬉しくなったチェンバレンが思わずグラットストンにペコリと頭を下げる一幕があった[581]。 結局、法案は庶民院を通過したものの、貴族院で419票対41票という圧倒的大差で否決された[582][583]。 これに対してグラッドストンは解散総選挙を考えたが、先のニューカッスル綱領の公約がほとんど実現できてないことから閣内から反対論が相次ぎ、グラッドストンも断念した[584]。海軍増強に反対して閣内で孤立[編集]
総辞職、政界引退[編集]
グラッドストンは閣内をまとめることはもはや不可能と判断し、辞職を決意した。1894年2月10日にその旨を閣僚たちに発表し、女王にも間接的に上奏した[586]。3月1日に最後の閣議を開き、﹁諸君らとは一つの公的問題で意見が違えども、私的交友関係はこれからも続けていきたい﹂という主旨の短い話をした後﹁諸君らに神の御恵みがあらんことを﹂と述べてさっさと退出した。グラッドストンの辞任表明に閣僚たちは涙を流しながらも、グラッドストンが出ていった出口とは別の出口から退出したという[587]。 またその日の午後に庶民院で最後の演説を行い、﹁貴族院は庶民院が必死で作り上げた法案を修正するのではなく全滅させることに精を出している。このような状況がいつまでも許されるべきではない﹂として貴族院批判・貴族院改革の必要性を訴えた[588]。 1894年3月3日にウィンザー城に参内し、ヴィクトリア女王の引見を受けた。女王はザクセン=コーブルク=ゴータ公になったばかりの次男アルフレートの年金を継続してくれたことに感謝の意を示し、また掛かり付けの眼医者の話をし、他はグラッドストン夫人に対するねんごろなお言葉を下賜して引見を終えた[589][590][591]。グラッドストンの国家に対する貢献を評価するようなお言葉は一切なかった[590][591][592][593]。 また女王は退任する首相に対して後任の首相は誰が良いと思うか下問するのが慣例になっており[590]、グラッドストンも下問を予想してスペンサー伯爵を推そうと思っていたのだが、女王の下問はなかった[594]。女王はお気に入りの外務大臣ローズベリー伯爵に独断で大命を与えた[590]。自由党内や世論は大蔵大臣ウィリアム・ヴァーノン・ハーコートを推す声が多かったので、この女王の独断に強く反発した[595]。 世論のハーコート人気が高まり、ローズベリー伯爵の権威は失墜していった。結局ローズベリー伯爵は1895年6月に内閣信任相当と言えるほどではない、つまらない法案の否決を理由にさっさと総辞職して保守党のソールズベリー侯爵に政権を譲ってしまった[596]。第三次内閣を発足させたソールズベリー侯爵はただちに解散総選挙に打って出て勝利し、1902年まで政権を担当することになる[597]。 一方政界引退を決意していたグラッドストンはその総選挙に出馬しなかった。ここにグラッドストンの64年にも及んだ議会生活にピリオドが打たれたのである[598]。引退後[編集]
晩年の政治活動[編集]
グラッドストンは1894年夏から始まったオスマン帝国によるアルメニアでの大虐殺に強い怒りを感じ、20年前と同様に再びトルコ批判運動の先頭に立った。庶民院議員辞職後もその活動は続けた。1896年9月にリヴァプールで行った演説では、トルコ皇帝アブデュルハミト2世を﹁大量殺人犯﹂として糾弾した。この演説が大衆の前で行った彼の最後の演説となった[599][600]。 相変わらずトルコは大英帝国の生命線であり、首相である保守党党首ソールズベリー侯爵も自由党党首ローズベリー伯爵もトルコ批判にはまるで耳を課さなかった。グラッドストンは﹁私に1876年の時の身体があれば、もっと強力にトルコに闘争を挑めるのだが﹂と口惜しがった[600]。 1897年1月末からフランスのカンヌで過ごすことが増えた[601]。同年3月にはカンヌを訪問したヴィクトリア女王の引見を受けた。この時、女王は78歳、グラッドストンは88歳だった。すっかり老衰して性格的にも丸くなっていたグラッドストンに、女王は思わず自ら手を差し伸べた[602][603]。 女王の即位60周年記念式典の最中の同年7月10日にはハワーデン城で大英帝国植民地首相らと会談に及んだ[601]。死去[編集]
選挙歴[編集]
選挙日 | 回數 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 順位 | 当落 | 選數 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1832.12.10 | 11 | ニューアーク区 | トーリー党 | 887 | 36.78% | 01位 | 01選 | 23歳 | |
1835.02.06 | 12 | 保守党 | 資料なし | 02選 | 26歳 | ||||
1837.08.18 | 13 | 03選 | 28歳 | ||||||
1841.07.22 | 14 | 633 | 38.20% | 04選 | 32歳 | ||||
1847.08.26 | 15 | オックスフォード 大学区 |
997 | 28.31% | 02位 | 05選 | 38歳 | ||
1852.07.31 | 16 | 1,108 | 34.25% | 06選 | 43歳 | ||||
1857.03.27 | 17 | 資料なし | 01位 | 07選 | 48歳 | ||||
1859.04.28 | 18 | 自由党 | 08選 | 50歳 | |||||
1865.07.24 | 19 | 南ランカシャー区 | 8,786 | 17.36% | 03位 | 09選 | 56歳 | ||
1868.12.21 | 20 | グリニッジ区 | 資料なし | 01位 | 10選 | 59歳 | |||
1874.02.17 | 21 | 5,968 | 25.97% | 02位 | 11選 | 65歳 | |||
1880.04.27 | 22 | ミッドロージアン区 | 1,579 | 53.57% | 01位 | 12選 | 71歳 | ||
1885.12.10 | 23 | 7,879 | 70.52% | 13選 | 76歳 | ||||
1886.07.27 | 24 | 資料なし | 14選 | 77歳 | |||||
1892.07.26 | 25 | 5,845 | 53.13% | 15選 | 83歳 |
人物[編集]
宗教的情熱[編集]
グラッドストンは敬虔な国教徒だった。地元にある時は毎朝教会への礼拝を行い、安息日には勤行を欠かさなかった。また積極的に宗教奉仕活動に参加した[616]。
彼には﹁人間の幸せの永続的基盤は、一つだけである。それは宗教的確信をもつことである﹂という断固たる持論があった[617]。
ベンジャミン・ディズレーリを徹底的に嫌ったのも、彼に宗教的情熱の欠如とそれに伴うシニカルな日和見主義を見たからである[618][619]。
仕事するグラッドストンを描いた絵
グラッドストンはオックスフォード大学時代に神からの使命を果たすために必要なものとして﹁1. 愛の精神、2. 自己犠牲の精神、3. 誠実の精神、4. 活力﹂の4つが重要だという宗教的確信を得た[620]。このうちの﹁活力﹂がグラッドストンの病的なまでの勤勉性につながった。グラッドストンの日記には﹁私は仕事をするか、死ななければならない﹂と書かれている[621]。
グラッドストンの友人であるサー・ジェームズ・グラハム准男爵は﹁グラッドストンは他人が16時間かけて行う仕事を4時間で達成する。そして16時間働く。﹂と評したことがある[622][623]。このグラッドストンの勤勉ぶりは生涯変わらず、彼は晩年にも13時間から14時間は働いていたという[622]。
時間を有意義に使いたいと願っていた彼は、しばしば急いでいるようにも見えたという[622]。
グラッドストンを描いた絵︵ジョン・エヴァレット・ミレー画︶
グラッドストンは﹁政府が持つ金は少なければ少ないほど良い﹂という﹁小さな政府﹂論の断固たる信奉者であった[633]。政府に金が有り余っていると軍拡に使われ、帝国主義外交に乗り出すと懸念したためである[633]。
政府が小さいと軍備だけではなく、社会保障も小さくなるが、グラッドストンは大衆の自助の促進を目指す古風な自由主義者であるから、社会保障は﹁自助ではなく国家への依存をもたらし、精神主義ではなく物質主義をもたらす﹂と看做しており、基本的に必要無いと考えていた[634]。
グラッドストンを嫌ったヴィクトリア女王
グラッドストンはヴィクトリア朝の首相たちの中でもパーマストン子爵と並んでヴィクトリア女王から最も嫌われた首相である。
ヴィクトリア女王とグラッドストンの関係は、第一次グラッドストン内閣の時からギクシャクしていた。王配アルバートの薨去以来喪に服して公務にほとんど出席していなかったヴィクトリア女王に対してグラッドストンが公務への復帰を強く要求したからである[639]。女王は退位をちらつかせてでも、この要請を拒否した[640]。
女王がグラッドストンに決定的な嫌悪感を抱いたのは、第二次ディズレーリ内閣の時である。ヴィクトリアが熱烈に支持していたディズレーリの帝国主義外交や露土戦争をめぐる親トルコ・反ロシア外交をグラッドストンが徹底的に批判したためである[639]。この頃女王は長女ヴィッキーへ宛てた手紙の中で﹁グラッドストン氏は狂人のように進撃しています。私は代議士の中で、これほど愛国心が欠如し、不謹慎な人物を他に知りません。﹂という激しい憎しみを露わにしている[639]。
グラッドストンには君主は象徴としてのみ政体の根幹にあるべきという持論があり、とりわけディズレーリ政権がヴィクトリア女王を政治の場に引っ張り出すことを憂慮していた[641]。ただしグラッドストンは決して君主制廃止論者ではない。﹁でしゃばりの君主﹂の出現によって君主制廃止に向かうのでは、という懸念からそういう主張をしていたのである。彼は﹁以前の私なら、この地の君主制は幾百年も続いていくと確信できたが、私のその自信も前内閣が君主を政治外交の第一線に引きずりまわしたことで揺らぎつつある﹂と語っている[641]。
64年間イギリス政界で働いてきたグラッドストンの引退にあたって女王は、国家への貢献の労をねぎらうような言葉は何もかけなかった。グラッドストンは55年前のシチリアでロバに乗った時のことを思い出し、﹁私は数十時間もロバの背中で揺られていた。ロバは私に不都合なことは何もしなかったし、私のために長時間仕事をしてくれた。だが何故か私はそのロバに何の好感も持つことができなかった。この時の私とロバの関係が、女王と私の関係である﹂と語った[642]。
勤勉[編集]
雄弁[編集]
グラッドストンは雄弁家で知られた[624]。議場での演説以外に言論の場があまりなかった19世紀イギリスでは雄弁は政治家にとって重要な能力であった[625]。 グラッドストンは声に深みがあり、声の調子の変化に富んでいるなど演説家として先天的な才能を持っていたが[626]、﹁熱心と努力と知識がなければ何人も大雄弁家にはなれない﹂というキケロの名言を胸に刻んで、弁論術を磨くための努力も怠らなかった[627][628]。 グラッドストンは後輩に演説の仕方を伝授した書簡の中で﹁1、用語は平易で簡潔な物を選ぶこと、2、句は短く切ること、3、発音の明瞭、4、批評家や反対者の論評を待たずに予め自分で論点を考証すること、5、論題について熟考して消化し、適切な語が迅速に出てくるよう心がけること、6、聴衆を感動させるには思考を論題に集中し、常に聴衆を見守ること﹂と書いている。もっともこのうち1と2についてはグラッドストン自身もあまり守っていなかった[628][629]。 壇上における態度も雄弁に彩りを添えていた。その身振りは豪放ながらも自然であり、粗暴な印象や誇張しているような印象は与えなかったという[628][630]。 ビスマルクはディズレーリを高く評価する一方、グラッドストンのことは﹁教授﹂と呼んで馬鹿にしていたが、﹁たかが大演説家に過ぎないグラッドストンの如き無能な政治家﹂と評したことがあり、これをそのまま読むならグラッドストンの雄弁はビスマルクも認めるところであったことになる[631][632]。小さな政府[編集]
小英国主義[編集]
グラッドストンは﹁領土を貪ることは全人類の呪い﹂と称し、非膨張論を唱え、小英国主義を支持していた[635]。小英国主義とは﹁イギリスは世界最強の海軍力を背景にした自由貿易によって今や世界中どこにでも資源調達地と市場を作れるのだから、わざわざ巨額の防衛費と維持費をかけてまで植民地を領有する必要がない﹂とする考えであり、自由主義者の中でもマンチェスター学派によって盛んに支持されていた考えである[636]。 ただ首相となったグラッドストンが、実際に小英国主義の理念にのっとった外交政策を打ち出すのは稀だった。第一次グラッドストン内閣時の1870年にニュージーランドから撤兵したこと、1872年にフィジー諸島併合論を却下したこと、第二次内閣の1884年にスーダン放棄を決定したことぐらいに留まる。グラッドストンが首相になった頃にはすでに小英国主義への疑問がイギリス中で噴出していたからである[637]。自由貿易と平和主義[編集]
領土拡張ではなく自由貿易拡大を目指し、自由貿易を破壊する戦争は可能な限り回避することがグラッドストンの外交目標だった[637]。 イギリスで自由貿易によって最も利潤をあげたのはランカシャーの綿工業であるが、彼らは貿易業者が地中海、インド洋、大西洋を渡って輸入してきた綿花を買って、綿製品に加工し、それを輸出していたから、綿工業にとって海上の平和はまさに死活問題だった。マンチェスター学派に属するグラッドストンはその代弁者だったのである[637]。 グラッドストンは、戦争を回避するためには軍拡を阻止することと、イギリスが﹁栄光ある孤立︵Splendid Isolation︶﹂と﹁ヨーロッパ協調︵Concert of Europe︶﹂の立場を維持することの2点が重要と考えていた。それはイギリスの相対的有利の時代にあっては、成果を上げる時もあった[638]。 しかしイギリスの相対的有利の時代が終わり、列強諸国の帝国主義と軍拡競争が過熱していく時代にあっては、うまく機能しなくなった[328]。第四次内閣の頃には平和主義はすっかり時代遅れの思想と化しており、全閣僚が軍拡を求める中、首相グラッドストンただ一人が軍拡に反対し続ける有様となっていた。そしてそれが原因で失脚し、政界を去ることとなった[585]。ヴィクトリア女王との関係[編集]
ダーウィンと進化論について[編集]
グラッドストンとダーウィンは同じ年に生まれている。グラッドストンの組織した反トルコ集会にダーウィンが名を連ねていた関係でグラッドストンがダーウィンの家を訪問したことがあった[643]。ダーウィンの家は代々ホイッグ党︵自由党︶であり、ダーウィン自身も自由党を指導するグラッドストンを深く尊敬していたので、この訪問に非常に感動した様子だったという[644]。一方グラッドストンの方はダーウィンにそれほど関心をもっておらず、彼の生前に進化論を話題にしたことも、彼とそれについて語り合ったこともなかった[645]。 第三次内閣総辞職後、グラッドストンは科学雑誌﹃ナインティーンス・センチュリー﹄への寄稿文や著書﹃盤石の聖書﹄ ︵1890年︶ の中で聖書の内容を疑おうとする者を批判した。﹃創世記﹄にある地球の変化や生物出現の順番は地質学的にも証明されているのだと主張していた[646]。進化論に対する彼の態度は曖昧だが、全てをキリスト教の精神に支配されている彼にそれを容認することはできなかったと思われる[647]。その他[編集]
家族[編集]
- 長男ウィリアム・ヘンリー・グラッドストン (William Henry Gladstone, 1840-1891) 政治家
- 長女アグネス・グラッドストン (Agnes Gladstone, 1842-1931) エドワード・ウィッカム夫人
- 次男スティーブン・エドワード・グラッドストン (Stephen Edward Gladstone, 1844-1920) 国教会牧師
- 次女キャサリン・ジェシー・グラッドストン (Catherine Jessy Gladstone, 1845-1850)
- 三女メアリー・グラッドストン (Mary Gladstone, 1847-1927) ハリー・ドリュー夫人
- 四女ヘレン・グラッドストン (Helen Gladstone, 1849-1925)
- 三男ヘンリー・ネヴィル・グラッドストン (Henry Neville Gladstone, 1852-1935) 実業家。ハワーデンの初代グラッドストン男爵に叙される。
- 四男ハーバート・ジョン・グラッドストン (Herbert John Gladstone, 1854-1930) 政治家。初代グラッドストン子爵に叙される。
イギリスでのグラッドストン[編集]
グラッドストンの公式伝記を書いたのは、彼の内閣でアイルランド担当大臣だったジョン・モーリーである。これに並ぶとされる評伝は長らく登場しなかったが、リチャード・シャノンが1982年に出版した評伝とグラッドストンの日記を全14巻で編集したコリン・マシューが1997年に出版した評伝が高く評価されている[656]。労働党の政治家であるロイ・ジェンキンスもグラッドストンの伝記を著している[657]。 現代の英国政治家の中にもグラッドストンは生き続けている。1997年から10年にわたり英国首相を務めたトニー・ブレアは﹁トニー・グラッドストン﹂というあだ名が付けられるほどグラッドストンを深く尊敬していた。ならず者国家が人権を侵害するのを黙って見ているわけにはいかないという彼の考えは、ブルガリア人を大虐殺するトルコに対するグラッドストンの1876年の闘争を模範とした物であった。2010年に出版されたブレアの回顧録にも諸所にグラッドストンの影響がみられる[658]。日本でのグラッドストン[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 1829年時のイギリス警察官の初任給は週に1ポンド1シリングであり、年収にすると60ポンド以下である。つまり60万ポンドという額は1万人の警察官の初任給に匹敵する[9]。
(二)^ この暴動は官憲によって徹底的に鎮圧され、複数の黒人が拷問の末に殺された。また暴動に協力したとされた白人宣教師ジョン・スミスも拷問の末に殺されたが、後にスミスは冤罪であることが判明し、父ジョンは庶民院でホイッグ党から追及を受けた。それに対して父は﹁スミスは革命家のように行動してるからああなったのだ。奴隷制度は有史以来存在するものであり、場所によっては神が認めているものだ。植民地の奴隷のことなどより本国の下層階級の者の生活改善を考える方が大事である﹂と答弁している[25]。
(三)^ パブリックスクールとは上流階級の子弟が入学する全寮制中等教育学校である。イートン校はそのパブリックスクールの中でも最名門校だった。基本的には貴族の子弟しか入れないが、最上層中産階級の子弟も少数ながら入学できた。グラッドストンもその一人だった[31]。イートン校では、当時も現在も学生たちに紳士であることを自覚させるため、シルクハットと燕尾服を制服にしている[32]。また当時のイートン校では、名誉や道徳に反した学生は校長から鞭打ちの刑に処されていたが、学生間の︵あるいは学生と教師の間であっても︶、名誉をかけた争いである場合は、その解決はすべて自律に任されていた。そのため決闘や喧嘩が絶えなかったが、こうした名誉をかけた人格のぶつかり合いは、未来の支配階級としての智徳体を養うものとして奨励するのがイートン校の教育方針だった[33]。
(四)^ グラッドストンによると彼が鞭打ちに処されたのは、鞭打ちに処される学生のリストから学友3人の名前を取り除いたことがばれたためという︶[35]。
(五)^ この討論会は校内でもとりわけ知的な学生が集まっており、ストラフォード伯爵の処刑の是非、クロムウェルやミルトンの性質、ルソーの﹃社会契約論﹄やフランス革命について、ギリシャ独立について、貴族院の保守党優位状態の是非など様々なお題を作って盛んな議論が行われた[40][41]。
(六)^ 当時のイギリスの選挙区には州︵カウンティ︶選挙区と都市︵バラ︶選挙区があり、第一次選挙法改正前、州選挙区では年収40シリング以上の土地保有者が選挙権を有した。一方都市選挙区は選挙権資格が一律ではなかったが、どの選挙区でも富裕層が有権者となるよう条件付けられていた。都市選挙区は産業革命以前の前時代の遺物であるため、近代の人口分布を無視して設定されており、極端に有権者数が少ない選挙区が多かった。ここから出馬する貴族は簡単に有権者を支配して全投票を独占することができた[70][71]。そのため、これを﹁腐敗選挙区﹂と呼んでいた[72]。しかし第一次選挙法改正によって﹁腐敗選挙区﹂の議席は削除されて、その分の議席は人口増加が著しい都市や州に配分された。都市選挙区の選挙権資格については年価値︵一年の賃料︶10ポンド以上の家屋の所有者ないし借家人に認められるようになった。州選挙区の選挙権資格については従来の40シリング以上の土地所有者という従来の条件に加えて年価値10ポンド以上の土地所有者にも認られることになった[73]。以上の改正によって中産階級の男性に選挙権が広がり、有権者数は43万人から65万人に上昇し、成年男子の15%が選挙権を持つようになった[74]。一方でイングランド南部の議席を北部の議席の3倍にすることによって農業利益を工業利益に優先させ、貴族の支配体制を温存させた。これを第一次選挙法改正と呼ぶ[75]。
(七)^ イギリスでは大臣であっても自分の所属する院と別の院には出席できない[102]。
(八)^ 国教会とカトリックが分離する宗教改革以前の﹁普遍的教会﹂の教義を絶対視し、カトリックと国教会を同一化しようというオックスフォード大学の聖職者が中心となって行っていた運動であった[82][107]。最終的にこの運動は主要な論者である聖職者がカトリックに改宗することで下火になるが、この運動が1830年代の宗教問題の盛り上がりに一石を投じた。グラッドストンもこのオックスフォード運動に影響を受けたが、彼は国教会の利益を保守しなければならない保守党の政治家でもあったから葛藤があった[108]。
(九)^ 貴族院は庶民院以上に地主が多かったため、更なる反発が予想されたが、ナポレオンを破った英雄ウェリントン公爵の権威に造反議員が抑え込まれた結果、法案は貴族院も通過し、穀物法は廃止された[153][154]。
(十)^ イタリア統一戦争とは、イタリア統一を目指すサルデーニャ王国が、ナポレオン3世のフランス帝国を味方に付けて、オーストリア帝国︵当時イタリア半島北部をロンバルド=ヴェネト王国として支配し、またウィーン体制で復活したイタリア半島小国家郡や教皇領に巨大な影響力を行使していた︶に挑んだ戦争である。イギリスではグラッドストン含む自由主義者の面々がナショナリズム支援の立場からフランス・サルデーニャ連合軍に共感を寄せ、一方保守主義者は反ナショナリズムの立場からオーストリアに共感を寄せる者が多かった。
(11)^ 当時地方税の納税には一括納税と直接納税があった。一括納税すると直接納税より安く済むため、多くの人がこちらの納税方式を選択していた。下層民が選挙権を得るためだけにわざわざ高い税金に切り替えるとは思えないため、この条件は下層民排除の最大の安全装置であった[252]。
(12)^ その恐れられぶりはこの時の自由党造反議員の団結の署名が、江戸時代の百姓一揆の傘連判状のごとく円形になっていたことにも表れている︵円形署名は発案者が誰か分からないようにする意図がある︶[260]。
(13)^ この際にヴィクトリア女王は﹁全てを破壊し、独裁者になるであろう半狂人の扇動者と政務を語るくらいなら、退位してしまいたいです。余人が彼の民主主義に服従しても、女王だけは従いません﹂とまで語った[395]。
(14)^ これによって二大政党制と階級政党化が一層促進され、保守党候補との違いが曖昧なホイッグ派は急速に凋落していくことになった[437]。ホイッグ派と急進派の両方を候補に立てた大選挙区時代の自由党の慣例が終わったこともそれに拍車をかけた[438]。ちなみに階級政党化の傾向は第一次世界大戦後に一層加速し、最終的には自由党そのものが没落して労働党が台頭する事態を招くことになる[439]。
(15)^ ゴードンはアロー戦争で活躍し、アロー戦争後に清政府の依頼で清軍の司令官となり、太平天国の乱を平定したためこのあだ名が付いた[476][477]。
(16)^ 植民地大臣は﹁Secretary of State for the Colonies﹂、自治大臣は﹁President of the Local Government Board﹂。Secretaryの称号の閣僚はPresidentの称号の閣僚よりも格が高かった[535]。
出典[編集]
(一)^ abcd秦 p.509
(二)^ abcde秦 p.510
(三)^ 神川 p.110/114
(四)^ abUK Parliament. “Mr W.E. Gladstone” (英語). HANSARD 1803-2005. 2014年5月15日閲覧。
(五)^ ab平賀 p.160
(六)^ 円地 p.8
(七)^ ab永井 p.3
(八)^ abc円地 p.14
(九)^ abc尾鍋 p.12
(十)^ 神川 p.3
(11)^ 伝記 p.454
(12)^ 円地 p.12
(13)^ 円地 p.13
(14)^ ab永井 p.4
(15)^ ab永井 p.5
(16)^ 円地 p.15
(17)^ 円地 p.17
(18)^ 神川 p.21
(19)^ 尾鍋 p.12-13
(20)^ 神川 p.26
(21)^ 永井 p.7-8
(22)^ 円地 p.17-18
(23)^ 徳富 p.4-5
(24)^ 神川 p.22-23
(25)^ ab尾鍋 p.14
(26)^ 永井 p.9-10
(27)^ ab神川 p.27
(28)^ 円地 p.18-19
(29)^ 永井 p.6
(30)^ 円地 p.20
(31)^ ab神川 p.28
(32)^ 尾鍋 p.18
(33)^ 神川 p.28-29
(34)^ ab神川 p.30
(35)^ 円地 p.25
(36)^ 神川 p.30-31
(37)^ 円地 p.65-67
(38)^ ab永井 p.21
(39)^ ab円地 p.29
(40)^ 徳富 p.9
(41)^ 永井 p.17
(42)^ ab尾鍋 p.17
(43)^ ab神川 p.32
(44)^ 神川 p.31
(45)^ ab永井 p.16
(46)^ 徳富 p.9/11
(47)^ abc尾鍋 p.19
(48)^ 円地 p.32
(49)^ ab神川 p.33
(50)^ 徳富 p.12
(51)^ 永井 p.23
(52)^ 円地 p.68
(53)^ 神川 p.34-35
(54)^ 徳富 p.14
(55)^ 永井 p.25
(56)^ 永井 p.24
(57)^ 円地 p.35-37
(58)^ 尾鍋 p.20
(59)^ 尾鍋 p.20-21
(60)^ 神川 p.36
(61)^ 永井 p.30
(62)^ 神川 p.35-36
(63)^ 円地 p.33
(64)^ 神川 p.37-38
(65)^ 円地 p.37-38
(66)^ 尾鍋 p.23
(67)^ 尾鍋 p.23-25
(68)^ 尾鍋 p.25
(69)^ ab神川 p.41
(70)^ 村岡、木畑(1991) p.76-77
(71)^ モロワ p.57
(72)^ モロワ p.56
(73)^ 村岡、木畑(1991) p.77
(74)^ ab尾鍋 p.26
(75)^ 村岡、木畑(1991) p.80
(76)^ 円地 p.34
(77)^ ab神川 p.42
(78)^ 永井 p.28
(79)^ 円地 p.48
(80)^ abc永井 p.33
(81)^ ab神川 p.44-45
(82)^ ab神川 p.80
(83)^ ab神川 p.46
(84)^ 永井 p.36
(85)^ 永井 p.39
(86)^ 神川 p.47
(87)^ 永井 p.40
(88)^ 神川 p.48
(89)^ 永井 p.42
(90)^ 神川 p.55
(91)^ 尾鍋 p.50
(92)^ ab神川 p.57
(93)^ 円地 p.192
(94)^ 永井 p.49
(95)^ 永井 p.50-51
(96)^ 尾鍋 p.51
(97)^ 永井 p.50
(98)^ 神川 p.70-71
(99)^ 永井 p.53-54
(100)^ ab神川 p.72
(101)^ abc永井 p.54
(102)^ abc神川 p.74
(103)^ 尾鍋 p.52-53
(104)^ abcd尾鍋 p.53
(105)^ ab永井 p.54-55
(106)^ 神川 p.75
(107)^ 永井 p.59-60
(108)^ ab神川 p.81
(109)^ 神川 p.81-82
(110)^ 永井 p.59-61
(111)^ abc尾鍋 p.60
(112)^ 永井 p.61
(113)^ 円地 p.198
(114)^ 永井 p.62
(115)^ 円地 p.199
(116)^ 永井 p.63
(117)^ 尾鍋 p.63
(118)^ ab神川 p.88
(119)^ 尾鍋 p.63-64
(120)^ ab尾鍋 p.67
(121)^ abc神川 p.89
(122)^ 円地 p.158
(123)^ 永井 p.65
(124)^ 円地 p.163
(125)^ 神川 p.100
(126)^ 永井 p.67-68
(127)^ 神川 p.100-101
(128)^ 尾鍋 p.73-74
(129)^ 神川 p.101
(130)^ 尾鍋 p.74
(131)^ 神川 p.104-105
(132)^ 円地 p.201
(133)^ 神川 p.105
(134)^ 神川 p.108
(135)^ 尾鍋 p.74-75
(136)^ 神川 p.106
(137)^ 永井 p.70
(138)^ 神川 p.110
(139)^ ab永井 p.71
(140)^ 神川 p.112
(141)^ ab神川 p.113
(142)^ 神川 p.113-114
(143)^ 尾鍋 p.75-76
(144)^ ブレイク p.259
(145)^ 永井 p.77
(146)^ ブレイク p.259-261
(147)^ モロワ p.165-167
(148)^ 円地 p.210
(149)^ 尾鍋 p.78
(150)^ 永井 p.77-78
(151)^ ブレイク p.263-279
(152)^ 神川 p.124
(153)^ abc尾鍋 p.79
(154)^ ブレイク p.279-280
(155)^ ブレイク p.280-282
(156)^ 円地 p.211
(157)^ 永井 p.79
(158)^ 神川 p.125
(159)^ 神川 p.129
(160)^ 永井 p.80-81
(161)^ ブレイク p.297
(162)^ 神川 p.129-130
(163)^ 神川 p.136
(164)^ 神川 p.140
(165)^ 永井 p.82
(166)^ 神川 p.141
(167)^ 尾鍋 p.82
(168)^ 神川 p.138-139
(169)^ 永井 p.83-91
(170)^ 神川 p.137
(171)^ 神川 p.142
(172)^ ab尾鍋 p.83
(173)^ 神川 p.143
(174)^ 永井 p.91-92
(175)^ 円地 p.234-236
(176)^ 神川 p.144
(177)^ 永井 p.93
(178)^ 尾鍋 p.84
(179)^ 永井 p.94
(180)^ 円地 p.236
(181)^ 伝記 p.455
(182)^ 神川 p.145-146
(183)^ 永井 p.96
(184)^ 神川 p.146
(185)^ 神川 p.147
(186)^ ab神川 p.150
(187)^ ブレイク p.383-389
(188)^ 永井 p.97-98/105-106
(189)^ ブレイク p.403
(190)^ モロワ p.199-201
(191)^ 神川 p.151
(192)^ 円地 p.239
(193)^ 尾鍋 p.90
(194)^ 永井 p.106
(195)^ ブレイク p.404/408
(196)^ 尾鍋 p.90-91
(197)^ 神川 p.155-156
(198)^ 尾鍋 p.91-92
(199)^ 神川 p.156
(200)^ 尾鍋 p.92
(201)^ 神川 p.158-159
(202)^ 円地 p.243
(203)^ 永井 p.108-109
(204)^ 神川 p.159
(205)^ 神川 p.162-163
(206)^ 永井 p.111
(207)^ ブレイク p.420
(208)^ 神川 p.166-167
(209)^ 永井 p.112
(210)^ ブレイク p.421-422
(211)^ 尾鍋 p.95-97
(212)^ 神川 p.168-169
(213)^ ブレイク p.435-436
(214)^ 尾鍋 p.97-98
(215)^ 尾鍋 p.99
(216)^ 神川 p.169
(217)^ 永井 p.113-114
(218)^ 神川 p.170
(219)^ ab永井 p.123
(220)^ 尾鍋 p.100
(221)^ 神川 p.170-171
(222)^ 神川 p.171
(223)^ ブレイク p.472-473
(224)^ 神川 p.176-177
(225)^ ab尾鍋 p.103-104
(226)^ 神川 p.177-179
(227)^ 尾鍋 p.105-106
(228)^ ab神川 p.180
(229)^ 永井 p.129-130
(230)^ ab神川 p.185
(231)^ 尾鍋 p.107
(232)^ 神川 p.182
(233)^ 永井 p.133-134
(234)^ 永井 p.134
(235)^ 神川 p.182/185
(236)^ 神川 p.206
(237)^ 永井 p.145-146
(238)^ ab永井 p.148
(239)^ 神川 p.207-208
(240)^ ab神川 p.210
(241)^ 永井 p.150-151
(242)^ ブレイク p.511-512
(243)^ abc村岡、木畑(1991) p.154
(244)^ 神川 p.213
(245)^ ab神川 p.215-216
(246)^ 永井 p.155-156
(247)^ ブレイク p.516
(248)^ ab尾鍋 p.111
(249)^ ab永井 p.156
(250)^ 神川 p.219
(251)^ ab永井 p.157-158
(252)^ 神川 p.231
(253)^ 村岡、木畑(1991) p.154-155
(254)^ 神川 p.221
(255)^ ブレイク p.542-543
(256)^ 神川 p.229
(257)^ 永井 p.159
(258)^ abブレイク p.543
(259)^ abcd神川 p.230
(260)^ ab尾鍋 p.113
(261)^ 神川 p.231-232
(262)^ ブレイク p.550-551/554
(263)^ 神川 p.235
(264)^ ab神川 p.232
(265)^ ブレイク p.552
(266)^ 永井 p.160-161
(267)^ 村岡、木畑(1991) p.155
(268)^ abc神川 p.238
(269)^ abブレイク p.578
(270)^ ab永井 p.161
(271)^ 円地 p.289
(272)^ ab円地 p.287
(273)^ 神川 p.237
(274)^ 永井 p.162-163
(275)^ ブレイク p.580
(276)^ 永井 p.164
(277)^ ブレイク p.583
(278)^ 尾鍋 p.117-118
(279)^ ブレイク p.583-584
(280)^ 尾鍋 p.118
(281)^ ab永井 p.166
(282)^ ブレイク p.584
(283)^ ブレイク p.584-592
(284)^ ab永井 p.167
(285)^ ab神川 p.242
(286)^ 永井 p.168
(287)^ 永井 p.170-171
(288)^ 尾鍋 p.120-121
(289)^ abc永井 p.173
(290)^ 神川 p.246
(291)^ 神川 p.247
(292)^ ab永井 p.174
(293)^ 神川 p.247-248
(294)^ ab尾鍋 p.122
(295)^ 尾鍋 p.122-123
(296)^ 神川 p.248-249
(297)^ ab永井 p.176
(298)^ 神川 p.250
(299)^ 永井 p.175
(300)^ ab永井 p.177
(301)^ ブレイク p.602
(302)^ ab神川 p.251
(303)^ abc尾鍋 p.125
(304)^ 永井 p.178
(305)^ abcd尾鍋 p.124
(306)^ 神川 p.252
(307)^ ab永井 p.179
(308)^ 永井 p.180
(309)^ ab神川 p.254
(310)^ 永井 p.181
(311)^ 神川 p.255
(312)^ abc尾鍋 p.127
(313)^ ab神川 p.257
(314)^ ab永井 p.187
(315)^ ab尾鍋 p.128
(316)^ ab神川 p.260
(317)^ 永井 p.186
(318)^ 神川 p.261
(319)^ 尾鍋 p.129
(320)^ 神川 p.258-259
(321)^ 尾鍋 p.129-130
(322)^ 神川 p.259
(323)^ 坂井 p.83
(324)^ 永井 p.182
(325)^ 神川 p.270
(326)^ 神川 p.269-270
(327)^ 坂井 p.86-87
(328)^ ab坂井 p.87
(329)^ ab永井 p.191
(330)^ 永井 p.192
(331)^ ab永井 p.193
(332)^ 神川 p.262-263
(333)^ 永井 p.194
(334)^ 神川 p.263
(335)^ ab神川 p.264
(336)^ 永井 p.195
(337)^ 永井 p.195-196
(338)^ abブレイク p.616
(339)^ 尾鍋 p.130
(340)^ 神川 p.265
(341)^ ab永井 p.200
(342)^ 神川 p.272-273
(343)^ 坂井 p.27
(344)^ abブレイク p.626
(345)^ 永井 p.201
(346)^ 永井 p.202
(347)^ 神川 p.275
(348)^ ブレイク p.628
(349)^ 永井 p.203
(350)^ 永井 p.203-204
(351)^ 神川 p.277
(352)^ 永井 p.205
(353)^ 尾鍋 p.133
(354)^ 神川 p.90
(355)^ 神川 p.286-288
(356)^ 永井 p.217-218
(357)^ モロワ p.269
(358)^ ブレイク p.688
(359)^ 坂井 p.38-39
(360)^ ab神川 p.288
(361)^ 坂井 p.39
(362)^ 永井 p.217
(363)^ ブレイク p.689-690
(364)^ 神川 p.287-288
(365)^ abワイントラウブ 下巻 p.192
(366)^ abモロワ p.271
(367)^ モロワ p.272
(368)^ 坂井 p.41
(369)^ ab尾鍋 p.147
(370)^ 神川 p.292
(371)^ 坂井 p.44
(372)^ モロワ p.280
(373)^ 神川 p.293
(374)^ ab尾鍋 p.149
(375)^ 神川 p.292-293
(376)^ 尾鍋 p.156
(377)^ 神川 p.295-296
(378)^ 尾鍋 p.157
(379)^ 神川 p.296-297
(380)^ ブレイク p.809-811
(381)^ 永井 p.223
(382)^ abc村岡、木畑(1991) p.178
(383)^ ab尾鍋 p.159
(384)^ 神川 p.301
(385)^ 神川 p.302
(386)^ 神川 p.301-302
(387)^ 神川 p.303
(388)^ 尾鍋 p.160
(389)^ abブレイク p.812
(390)^ ブレイク p.815-816
(391)^ 永井 p.227
(392)^ ab神川 p.306
(393)^ abc永井 p.228
(394)^ ブレイク p.825
(395)^ abブレイク p.831
(396)^ 神川 p.307
(397)^ ブレイク p.830-831
(398)^ 神川 p.308
(399)^ 尾鍋 p.162
(400)^ 神川 p.313-315
(401)^ 神川 p.331
(402)^ 永井 p.236
(403)^ ブレイク p.844-845
(404)^ 尾鍋 p.165
(405)^ 永井 p.236-237
(406)^ ab神川 p.332
(407)^ モリス 下巻 p.315
(408)^ 神川 p.333
(409)^ 永井 p.237-238
(410)^ モリス 下巻 p.317-318
(411)^ ab永井 p.239
(412)^ ab神川 p.334
(413)^ 君塚 p.170
(414)^ ab村岡、木畑(1991) p.186
(415)^ 君塚 p.172
(416)^ 神川 p.334-335
(417)^ 神川 p.335
(418)^ モリス 下巻 p.318
(419)^ 神川 p.337
(420)^ ab神川 p.338
(421)^ 永井 p.240
(422)^ 君塚 p.174-175
(423)^ 永井 p.240-241
(424)^ モリス 下巻 p.322
(425)^ 永井 p.241
(426)^ モリス 下巻 p.322-423
(427)^ ab尾鍋 p.169
(428)^ abcd村岡、木畑(1991) p.182
(429)^ abc君塚 p.179
(430)^ ab神川 p.357
(431)^ 永井 p.245-246
(432)^ ab永井 p.247
(433)^ 永井 p.248
(434)^ 神川 p.359-360
(435)^ 君塚 p.183
(436)^ 永井 p.249
(437)^ ab尾鍋 p.170-171
(438)^ ab神川 p.361
(439)^ 尾鍋 p.172
(440)^ 尾鍋 p.170
(441)^ ユアンズ p.126
(442)^ ユアンズ p.127
(443)^ ユアンズ p.131
(444)^ ユアンズ p.129-136
(445)^ モリス 下巻 p.254-255
(446)^ 永井 p.233-234
(447)^ モリス 下巻 p.255-256
(448)^ モリス 下巻 p.257
(449)^ モリス 下巻 p.256-264
(450)^ モリス 下巻 p.264-265
(451)^ 山口 p.151-160
(452)^ 山口 p.185
(453)^ 山口 p.186-187
(454)^ 山口 p.187-189
(455)^ abワイントラウブ 下巻 p.235
(456)^ ab坂井 p.97
(457)^ 山口 p.190
(458)^ 山口 p.190-191
(459)^ 山口 p.191
(460)^ 坂井 p.97,100
(461)^ abc飯田 p.121
(462)^ 山口 p.191-192
(463)^ 坂井 p.101
(464)^ 山口 p.193
(465)^ 坂井 p.101-102
(466)^ 坂井 p.102
(467)^ ab山口 p.194
(468)^ abcde村岡、木畑(1991) p.181
(469)^ abモリス(2008) 下巻 p.301
(470)^ モリス(2008) 下巻 p.302
(471)^ 山口 p.200
(472)^ 山口 p.201
(473)^ 坂井 p.107
(474)^ 永井 p.251
(475)^ 山口 p.202-203
(476)^ 中西 p.106-108
(477)^ 永井 p.252
(478)^ 君塚 p.186
(479)^ モリス 下巻 p.341-342
(480)^ 坂井 p.108
(481)^ 坂井 p.108-109
(482)^ モリス(2008) 下巻 p.353-354
(483)^ ab中西 p.119
(484)^ 坂井 p.109
(485)^ モリス(2008) 下巻 p.355
(486)^ abcd山口 p.204
(487)^ 坂井 p.109-110
(488)^ ab坂井 p.110
(489)^ モリス(2008) 下巻 p.363
(490)^ 坂井 p.110-111
(491)^ モリス(2008) 下巻 p.363-364
(492)^ ab神川 p.366
(493)^ 尾鍋 p.174
(494)^ abc坂井 p.111
(495)^ ワイントラウブ 下巻 p.258
(496)^ 君塚 p.189-190
(497)^ ストレイチイ p.266
(498)^ 永井 p.255
(499)^ 君塚 p.190
(500)^ ab坂井 p.118
(501)^ 坂井 p.117-118
(502)^ 飯田 p.124
(503)^ 飯田 p.125
(504)^ ab永井 p.257
(505)^ ab神川 p.373
(506)^ ab神川 p.374
(507)^ ab永井 p.258
(508)^ 永井 p.258-259
(509)^ 君塚 p.193
(510)^ 永井 p.262
(511)^ ワイントラウブ 下巻 p.266
(512)^ 君塚 p.177
(513)^ 村岡、木畑(1991) p.186-187
(514)^ 尾鍋 p.176
(515)^ abcd村岡、木畑(1991) p.187
(516)^ 神川 p.372
(517)^ abc永井 p.265
(518)^ 神川 p.376
(519)^ 神川 p.376-377
(520)^ 神川 p.378-379
(521)^ 神川 p.380
(522)^ ab永井 p.263
(523)^ 君塚 p.193-194
(524)^ 尾鍋 p.179-180
(525)^ ab神川 p.381
(526)^ abcd永井 p.264
(527)^ 神川 p.383
(528)^ ab永井 p.267
(529)^ 君塚 p.196
(530)^ ab永井 p.270
(531)^ 神川 p.386
(532)^ ab永井 p.269
(533)^ 尾鍋 p.180
(534)^ 神川 p.388-390
(535)^ 神川 p.388
(536)^ 神川 p.390-391
(537)^ 神川 p.392
(538)^ 尾鍋 p.181
(539)^ 神川 p.392-393
(540)^ 永井 p.271-272
(541)^ abc尾鍋 p.182
(542)^ abc神川 p.393
(543)^ ab永井 p.272
(544)^ 君塚 p.198
(545)^ ab永井 p.275
(546)^ 永井 p.274-275
(547)^ 永井 p.278
(548)^ 神川 p.395
(549)^ abc永井 p.281
(550)^ abc君塚 p.200
(551)^ ab神川 p.399
(552)^ 神川 p.402-403
(553)^ 神川 p.402
(554)^ 永井 p.282
(555)^ 神川 p.403
(556)^ 神川 p.410-411
(557)^ 尾鍋 p.185
(558)^ 永井 p.284-285
(559)^ 神川 p.413
(560)^ 永井 p.285-286
(561)^ ab神川 p.414
(562)^ 神川 p.413-414
(563)^ 神川 p.415
(564)^ 神川 p.417
(565)^ 永井 p.293
(566)^ 神川 p.418
(567)^ 永井 p.294
(568)^ 尾鍋 p.186
(569)^ 永井 p.294-295
(570)^ 永井 p.296
(571)^ 尾鍋 p.184
(572)^ 村岡、木畑(1991) p.188-189
(573)^ ab尾鍋 p.187
(574)^ 神川 p.421-422
(575)^ abc尾鍋 p.188
(576)^ 神川 p.422-423
(577)^ 永井 p.299
(578)^ 神川 p.423
(579)^ 君塚 p.203
(580)^ ab永井 p.301
(581)^ 神川 p.424
(582)^ 永井 p.303
(583)^ 君塚 p.204
(584)^ ab神川 p.426
(585)^ ab神川 p.426-427
(586)^ 永井 p.307
(587)^ 永井 p.308
(588)^ 永井 p.308-309
(589)^ 川本 p.209-210
(590)^ abcd君塚 p.205
(591)^ abワイントラウブ 下巻 p.373
(592)^ 神川 p.428
(593)^ 尾鍋 p.188-189
(594)^ 永井 p.310
(595)^ 神川 p.429
(596)^ 神川 p.429-430
(597)^ 尾鍋 p.189
(598)^ 神川 p.430
(599)^ 永井 p.312-313
(600)^ ab神川 p.431
(601)^ ab永井 p.314
(602)^ ワイントラウブ 下巻 p.374-375
(603)^ 君塚 p.206
(604)^ 神川 p.432
(605)^ 永井 p.315
(606)^ 尾鍋 p.190
(607)^ ab永井 p.318
(608)^ ab神川 p.433
(609)^ abcd尾鍋 p.192
(610)^ ab永井 p.320
(611)^ ab神川 p.434
(612)^ abc神川 p.435
(613)^ 尾鍋 p.193
(614)^ ab尾鍋 p.193-194
(615)^ ab永井 p.319
(616)^ 円地 p.49
(617)^ 神川 p.83
(618)^ モロワ p.196-197
(619)^ 飯田 p.30
(620)^ 神川 p.35
(621)^ 神川 p.37
(622)^ abc永井 p.335
(623)^ 神川 p.38
(624)^ 円地 p.96
(625)^ 円地 p.95
(626)^ 円地 p.107
(627)^ 円地 p.108-109
(628)^ abc永井 p.337
(629)^ 円地 p.108
(630)^ 円地 p.112
(631)^ 飯田 p.120
(632)^ 神川 p.458-459
(633)^ ab円地 p.240
(634)^ 神川 p.315
(635)^ 坂井 p.81
(636)^ 坂井 p.15-16/81
(637)^ abc坂井 p.82
(638)^ 坂井 p.83-87
(639)^ abc川本 p.208
(640)^ ワイントラウブ 下巻 p.103
(641)^ abワイントラウブ 下巻 p.224
(642)^ 川本 p.210
(643)^ 松永 p.200-201
(644)^ 松永 p.202
(645)^ 松永 p.202-203
(646)^ 松永 p.203
(647)^ 松永 p.204
(648)^ 永井 p.291
(649)^ 永井 p.289
(650)^ 神川 p.461
(651)^ 神川 p.85-86
(652)^ 円地 p.165
(653)^ 円地 p.166
(654)^ 円地 p.166-167
(655)^ Lundy, Darryl. “Rt. Hon. William Ewart Gladstone” (英語). thepeerage.com. 2014年5月19日閲覧。
(656)^ 神川 p.462-463
(657)^ 神川 p.473
(658)^ 神川 p.472
(659)^ 杉原 p.236
(660)^ 杉原 p.237-239
(661)^ ab杉原 p.237
(662)^ 杉原 p.240-242
(663)^ 杉原 p.254-255
(664)^ 円地 p.146
(665)^ 杉原 p.255
(666)^ 神川 p.454-456
参考文献[編集]
●飯田洋介﹃ビスマルクと大英帝国 伝統的外交手法の可能性と限界﹄勁草書房、2010年︵平成22年︶。ISBN 978-4326200504。 ●円地与四松﹃グラッドストン傳﹄改造社︿偉人傳全集3﹀、1934年︵昭和9年︶。ASIN B000JB8PK2。 ●尾鍋輝彦﹃最高の議会人 グラッドストン﹄清水書院︿清水新書016﹀、1984年︵昭和59年︶。ISBN 978-4389440169。 ●新版﹃最高の議会人 グラッドストン﹄清水書院︿人と歴史29﹀、2018年(平成30年)。ISBN 978-4389441296。 ●神川信彦、解説・君塚直隆﹃グラッドストン 政治における使命感﹄吉田書店、2011年(平成13年)。ISBN 978-4905497028。 ●川本静子、松村昌家 編﹃ヴィクトリア女王 ジェンダー・王権・表象﹄ミネルヴァ書房︿MINERVA歴史・文化ライブラリー9﹀、2006年(平成18年)。ISBN 978-4623046607。 ●君塚直隆﹃ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”﹄中央公論新社︿中公新書﹀、2007年(平成19年)。ISBN 978-4121019165。 ●坂井秀夫﹃近代イギリス政治外交史1―近代イギリスを中心として﹄創文社、1974年(昭和49年)。ASIN B000J9IXRY。 ●杉原四郎 編﹃近代日本とイギリス思想﹄日本経済評論社、1995年(平成7年)。ISBN 978-4818808201。 ●リットン・ストレイチイ 著、小川和夫 訳﹃ヴィクトリア女王﹄角川書店︿角川文庫﹀、1953年(昭和28年)。ASIN B000JB9WHM。新版・冨山房百科文庫、1981年(昭和56年) ●田中, 陽児、倉持, 俊一、和田, 春樹 編﹃ロシア史︿2﹀18〜19世紀﹄山川出版社︿世界歴史大系﹀、1994年(平成6年)。ISBN 978-4634460706。 ●徳富蘆花﹃グラッドストン伝﹄民友社、1892年︵明治25年︶。 ●永井柳太郎﹃グラッドストン﹄実業之日本社、1929年︵昭和4年︶。 ●中西輝政﹃大英帝国衰亡史﹄PHP研究所、1997年(平成9年)。ISBN 978-4569554761。新装版、2015年(平成27年) ●平賀三郎﹃ホームズの不思議な世界﹄青弓社、2012年(平成24年)。ISBN 978-4787292094。 ●ロバート・ブレイク男爵 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編﹃ディズレイリ﹄大蔵省印刷局、1993年(平成5年)。ISBN 978-4172820000。 ●松永俊男﹃ダーウィンをめぐる人々﹄朝日新聞社︿朝日選書﹀、1987年(昭和62年)。ISBN 978-4022594433。 ●村岡健次 著、木畑洋一 編﹃イギリス史︿3﹀ 近現代﹄山川出版社︿世界歴史大系﹀、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300。 ●山口直彦﹃新版 エジプト近現代史 ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで﹄明石書店︿世界歴史叢書﹀、2011年(平成23年)。ISBN 978-4750334707。 ●ジャン・モリス 著、椋田直子 訳﹃ヘブンズ・コマンド 大英帝国の興隆 ︿下﹀﹄講談社、2008年(平成20年)。ISBN 978-4062138918。 ●アンドレ・モロワ 著、安東次男 訳﹃ディズレーリ伝﹄東京創元社、1960年(昭和35年)。ASIN B000JAOYH6。 ●マーティン・ユアンズ 著、柳沢圭子、海輪由香子、長尾絵衣子、家本清美 訳、金子民雄 編﹃アフガニスタンの歴史 旧石器時代から現在まで﹄明石書店、2002年(平成14年)。ISBN 978-4750316109。 ●スタンリー・ワイントラウブ 著、平岡緑 訳﹃ヴィクトリア女王 ︿下﹀﹄中央公論社、1993年(平成5年)。ISBN 978-4120022432。新版・中公文庫︵全3巻︶、2006年(平成18年) ●﹃世界伝記大事典︿世界編3﹀カークリ﹄ほるぷ出版、1980年(昭和55年)。ASIN B000J7XCOK。 ●秦郁彦 編﹃世界諸国の組織・制度・人事 1840-2000﹄東京大学出版会、2001年︵平成13年︶。ISBN 978-4130301220。関連図書[編集]
●Matthew, H. C. G. "Gladstone, William Ewart". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/10787。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。) ●Pearse, Hugh Wodehouse (1901). . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (1st supplement) (英語). London: Smith, Elder &Co. pp. 280–329. ●Russell, George William Erskine (1911). . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 12 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 66–72.関連項目[編集]
●グラッドストン自由主義 ●アイルランド土地法 ●ベンジャミン・ディズレーリ ●永井柳太郎 ●中田重治 ●﹃アサシン クリード シンジケート﹄ - 2015年のゲームソフト。グラッドストンが登場する ●グラッドストン・バッグ - ウィリアム・グラッドストンの名前にちなむ頑丈なカバン。貴重品運びや、医者が往診に使用した。外部リンク[編集]
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by William Gladstone(英語)
- William Ewart Gladstoneに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- ウィリアム・グラッドストンの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- "ウィリアム・グラッドストンの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
- ウィリアム・グラッドストンの著作 - LibriVox(パブリックドメインオーディオブック)
カテゴリ:
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- 1898年没