三留理男
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みとめ ただお 三留 理男 | |
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生誕 |
1938年12月1日 朝鮮北部・沙里院(現・北朝鮮・黄海北道沙里院市) |
死没 |
2022年3月22日(83歳没) 日本・東京都渋谷区 |
国籍 | 日本 |
職業 | 報道写真家 |
三留 理男︵みとめ ただお、1938年12月1日[1] - 2022年3月22日︶は、日本の報道写真家。国連から恒久IDカードを発行された世界でも数少ないジャーナリストの一人。
人物[編集]
1938年、日本統治下の朝鮮北部・沙里院︵現在は北朝鮮・黄海北道沙里院市︶に生まれる[2]。1948年に長崎県佐世保市に引き揚げる。山口県立萩高等学校在学中に、元朝日新聞のカメラマンであった角川政治に師事、写真を学ぶ。 1958年に日本大学藝術学部写真学科に入学。在学中の1961年には写真集﹁Document 小児マヒの記録﹂(法政大学出版局)を出版した。同年には初の個展﹁どんづまり―筑豊の女たち﹂を開催し、各方面より高い評価を得る[2]。 その後、日本大学藝術学部写真学科を中退。1960年代半ばより報道写真家としてアフリカ・ギニアの部族を取材する。また、パレスチナ、インドシナ三国の国際紛争を取材する。 三里塚闘争︵成田空港問題︶の活動にも参加しており、1968年3月31日に成田市街地で機動隊とデモ隊が激しく衝突した第3次成田デモ事件などを取材している[3]。三里塚芝山連合空港反対同盟︵反対同盟︶も制作に参加した映画﹃襤褸の旗﹄では制作にも携わった[4]。現在でも反対同盟の北原派[5]主催の映画上映会で話をすることがある。アジア・アフリカを中心に70カ国以上を取材しているが[2]、成田空港の使用は避けている[6]。 1981年に﹃アコロ﹁食うものをくれ!!﹂﹄(集英社)を出版。ケニアの西北部、トルカナ地方で飢餓に苦しむ人々の姿をルポルタージュした写真は人々に大きな衝撃を与えた。同年、毎日新聞で発表した﹁ケニア飢餓前線﹂は東アフリカ救済キャンペーンの契機となった。 ﹃国境を越えた子供たち﹄︵集英社︶をはじめとする一連の作品で、世界の様々な国境線上の状況を、強い問題意識と共感を持って取材した作品は反響を呼んだ。この功績が認められ、1982年に第一回土門拳賞を受賞した[6][7]。 1988年、長年のアジア・アフリカでの取材活動に対し、第4回アジア・アフリカ賞受賞を受賞[6][7]。 1997年、﹃辺境の民—アジアの近代化と少数民族﹄で第9回アジア・太平洋賞特別賞受賞[6]。略歴[編集]
●1938年、朝鮮・黄海道沙里院︵現‥朝鮮民主主義人民共和国黄海北道沙里院市︶で生まれる。 ●1948年、佐世保に引き揚げる。 ●1958年、日本大学藝術学部写真学科に入学 ●1960年代中頃よりフリーランスとして活動 ●1988年、毎日新聞特別嘱託[6]。 ●2022年3月22日、前立腺がんのため東京都渋谷区の介護施設で死去[7][8]。83歳没。受賞歴[編集]
●1982年、第1回土門拳賞受賞 ●1988年、第4回アジア・アフリカ賞受賞 ●1997年、第9回アジア・太平洋賞特別賞受賞作品リスト[編集]
●﹃Document 小児マヒの記録﹄(法政大学出版局) ●﹃アコロ﹁食うものをくれ!!﹂﹄(集英社) ●﹃辺境の民—アジアの近代化と少数民族﹄(弘文堂) ●﹃飢餓﹄(光文社) ●﹃サラーム﹄(毎日新聞社) ●﹃チュイポン﹄(小学館) ●﹃望郷﹄(東京書籍) ●﹃満州棄民﹄(東京書籍) ●﹃カンボジア0からの出発 サバイ! サバイ!﹄(集英社) ●﹃地雷﹄︵草の根出版会︶ ●﹃国境を越えた子供たち﹄(集英社) ●﹃悲しきアンコール・ワット﹄(集英社) ●﹃望郷-皇軍兵士いまだ帰還せず﹄(ミリオン出版) ●﹃辺境の民—アジアの近代化と少数民族﹄(弘文堂) ●﹃シャッター切ってアジアを食す﹄(講談社) ●﹃地雷:1億1000万個の悪魔 アジアを歩く﹄ ●﹃ジミーとジョージ—海を越えた国際児たち﹄ ●﹃チュイ・ポン—助けて!﹄ ●﹃記録抗日戦—生きている証人 三留理男・中国からの報告﹄ ●﹃サラーム—平和を!﹄ ●﹃見る。書く。写す。—天下縦横無尽﹄ ●﹃華僑—海水の至る所に華僑あり﹄ ●﹃麻薬(ヘロイン)﹄ ●﹃カンボジア 希望の川 子供たちの詩﹄ ●﹃国語事件殺人辞典﹄ ●﹃大木よね—三里塚の婆の記憶﹄ ●﹃三里塚-成田闘争の記憶﹄ ●﹃Document中国—三留理男・写真報告﹄ ●﹃カメラはなにを見たか—国をおわれた子どもたち﹄ ●﹃パレスチナ﹄ ●﹃愛は地球を救う—Africa 24時間テレビ・チャリティ写真集﹄ 他出典・脚注[編集]
(一)^ ﹃読売年鑑 2016年版﹄︵読売新聞東京本社、2016年︶p.492
(二)^ abc“三留理男(みとめ ただお)とは”. コトバンク. 2019年2月11日閲覧。
(三)^ “三留理男さんに聞く50年前の激突を撮る”. 週刊﹃三里塚﹄. 革命的共産主義者同盟全国委員会 (2018年4月9日). 2019年2月13日閲覧。
(四)^ “レンズが見た鉱毒事件の地”. 読売オンライン (2013年12月27日). 2017年10月15日閲覧。
(五)^ 反対同盟は﹁北原派﹂﹁旧熱田派﹂﹁小川派﹂などに分裂している。
(六)^ abcde三留理男 (2008). 三里塚-成田闘争の記憶. 新泉社. p. 127
(七)^ abc“写真家・三留理男さん死去 83歳 第1回土門拳賞受賞”. 毎日新聞社. (2022年3月28日) 2022年2月28日閲覧。
(八)^ ﹁﹇訃報﹈三留理男さん 報道写真家﹂﹃沖縄タイムス﹄、2022年3月30日。2022年4月3日閲覧。