武市瑞山
武市 瑞山 | |
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『獄中自画像』高知県立歴史民俗資料館蔵 元治元年(1864年)夏ごろ[注釈 1] | |
時代 | 江戸時代末期 |
生誕 | 文政12年9月27日(1829年10月24日) |
死没 | 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日) |
別名 |
幼名:鹿衛 通称:半平太 諱:小盾 号:瑞山、茗澗 変名:柳川左門、柳川吹山 |
墓所 | 瑞山神社 |
官位 | 贈正四位 |
主君 | 山内容堂、豊範 |
藩 | 土佐藩 |
父母 | 父:武市正恒、母:大井氏 |
兄弟 | 瑞山、田内衛吉 |
妻 | 富子(島村氏) |
子 | 養子:半太(大甥) |
概略[編集]
幼名は鹿衛。諱は小楯︵こたて︶。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。 土佐藩郷士・武市正恒︵白札格[1]、51石︶の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女富子。板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる[2]。 優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。生涯[編集]
剣術家[編集]
土佐勤王党結成[編集]
吉田東洋暗殺[編集]
半平太は吉田東洋の専横を憎む守旧派で連枝の山内大学・山内兵之助・山内民部、家老の柴田備後・五藤内蔵助らと気脈を通じるようになる[28]。半平太は穏当な手段での東洋排斥を彼ら連枝家老に説くが、山内民部の﹁一人東洋さえ無ければ、他の輩は一事に打ち潰すこともできよう﹂との言葉を暗殺の示唆と受け取り、半平太はついに東洋暗殺を決断した[29]。これには来る4月12日に藩主・山内豊範が参勤交代のため出立することが決まり、東洋ら佐幕派に囲まれた藩主・豊範が江戸へ行ってしまえば、久坂らとの三藩藩主勤王上洛の密約は水泡に帰すとの情勢の切迫もあった。 4月8日夜、豊範に﹁本能寺凶変﹂の進講をして帰宅途上にあった吉田東洋を、半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助が襲撃して殺害し、その首を郊外の雁切橋に獄門にかけ斬姦状を掲げた上で、刺客達は逃亡脱藩した。東洋派の藩庁は激怒し、容疑者の半平太以下、土佐勤王党の一網打尽を図るが、土佐勤王党はこれに反発して討ち死にも辞さぬ構えを示し、一触即発の事態になった。この事態を打開すべく半平太は山内民部に書簡を送り、これを受けた山内民部が土佐勤王党に自重を促すとともに、土佐勤王党を庇護していた山内大学・山内下総︵酒井勝作︶と謀って政権を掌握し、半平太率いる土佐勤王党は彼らを通して実質的に藩政の主導権を握った。12日に東洋派は藩庁から一掃され、暗殺された東洋の吉田家は知行召し上げとなっている[30]。 これより前の文久2年︵1862年︶3月に薩摩藩国父・島津久光が入洛したが、攘夷派の期待と異なり久光の真意は公武合体にあり、4月23日には寺田屋騒動が起きて有馬新七ら薩摩藩攘夷派は粛清され、彼らと行動を伴にしていた吉村虎太郎ら土佐脱藩浪士も送還させられた。過激攘夷派を弾圧して暴発を防いだ久光は朝廷を押し立てて将軍上洛、五大老の設置そして一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の大老就任による幕政改革を要求する。4月27日には長州藩世子・毛利定広が入洛して国事周旋の勅命を受けた[31]。この後、長州藩では攘夷派が優勢になり、7月に開国派の長井雅楽が罷免されて破約攘夷が藩論となる。 半平太は長州と同様の勅命を土佐にも下させるべく同志を京に派遣して朝廷に働きかけ、これを受けた朝廷は薩長両藩に続き土佐藩を入洛させるべく山内家と姻戚関係にある三条実美を介して入洛催促の書簡を送った。しかし、守旧派が多数を占める藩庁は婉曲にこれを拒否する返書を送った[32]。吉田東洋暗殺のために延期になっていた山内豊範の参勤交代出立は6月28日となり、人数は通常600人程を2,000人に増員した大部隊になったと伝えられ[33]、半平太をはじめ島村衛吉・平井収二郎ら土佐勤王党の同志数十人も供奉した。参勤交代の一行は播磨国姫路で麻疹の集団感染が発生して、豊範も罹患したため大坂での約一ヵ月の逗留を余儀なくされた。この大坂逗留中の8月2日に吉田東洋暗殺の下手人探索をしていた元下横目の井上佐市郎が岡田以蔵ら土佐勤王党に殺害されている。国事周旋と天誅[編集]
勤王党弾圧[編集]
勅使護衛の任に当たっていた半平太の留守中に京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎は間崎哲馬、弘瀬健太とともに青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯に国元にいる先々代藩主・山内豊資︵藩主・豊範の実父︶に働きかけて藩政改革を断行しようと動いていた。このころ、容堂は土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示し始めており、半平太を除く勤王党志士に対し、他藩士との政事交際を禁じる通達を出した[42]。文久3年︵1863年︶1月25日に入京した容堂は、青蓮院宮から平井・間崎らの動きを知らされ﹁僭越の沙汰である﹂と激怒して両名を罵倒して罷免した上で土佐へ送還させた。 容堂は3月に土佐へ帰国すると直ちに吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じ、土佐勤王党に同情的な大監察・小南五郎右衛門、国老・深尾鼎を解任し、大監察・平井善之丞は辞職を余儀なくされた。このころの半平太はかねてより不和が生じていた薩摩と長州の融和に腐心していたが、土佐勤王党をとりまく情勢が険悪化する中、4月に半平太は薩長和解調停案の決裁を容堂に仰ぐために帰国する事となった。久坂玄瑞は危険であるとこれを止め、帰国せずに脱藩して長州へ亡命するよう勧めるが、半平太は亡命を拒否し、同志たちに諌死の決心を以て一藩勤王の素志を貫徹すべきであると告げて帰国した[43]。 平井収二郎・間崎哲馬・弘瀬健太は入牢させられ、厳しく尋問された。帰国した半平太は三名の助命を容堂に嘆願するが、6月7日に死罪が決定し、翌8日に三人は切腹した。半平太は尚も望みを捨てずに容堂に謁見して藩政改革の意見書を提出するとともに国事を論じた。容堂は半平太を罰しないが意見を容れることもなかった。 8月18日に会津藩と薩摩藩による政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。同時期に大和国で吉村虎太郎・那須信吾ら土佐脱藩浪士らを中心とする天誅組が挙兵するが、翌月には壊滅して吉村らは討ち死にしている︵天誅組の変︶。 尊攘派の情勢が急激に悪化する中、9月21日に﹁京師の沙汰により﹂の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に対する逮捕命令が出され、半平太は城下帯屋町の南会所︵藩の政庁︶に投獄された。獄吏が半平太の人物に傾倒したために彼らに便宜を図ってもらえたとされ、獄吏らを通じて家族や在獄中の同志と秘密文書をのやり取りも可能となった。これにより、長期にわたる獄中闘争の中で同志の団結を維持し続けると共に、軽挙妄動を戒めた。取調べの際、上士である半平太は結審に至るまで拷問される事はなかったものの、軽格の同志たちは厳しく拷問された。半平太らはまだ捕らえられていない獄外同志やその他の協力者への連累を食い止めるべく吉田東洋暗殺事件を初めとした被疑事実を否認し続け、長い獄中闘争を耐えた。だが、京都に残留していた岡田以蔵が元治元年︵1864年︶4月に捕縛されて土佐に送還され、監察府の拷問に耐えかねて、京や大坂での天誅事件への関与やその実行者の名を次々と自白したことで事態は悪化し、新たな逮捕者が相次ぐこととなる。捕縛後[編集]
以蔵の自白により窮地に[編集]
以蔵の自白によって新たな逮捕者が相次ぎ、半平太らに対する取調べも厳しさを増していった。半平太の実弟・田内衛吉は監察府による厳しい拷問に耐えかねてついに自供を始めてしまい、更なる自白を恐れて服毒自殺。島村衛吉も拷問死した。また、上士である自身に対しても拷問が行われることを覚悟した半平太は、これが現実になれば、獄中生活による衰弱も相まって拷問に耐えきれず自白してしまう可能性を憂慮し、自殺用の毒を自身にも調達するよう外部に依頼している。獄内外の同志は、なおも自白を続ける以蔵の存在が事態をさらに悪化させる事を恐れ、彼らの間で以蔵を毒殺する︵あるいは、半平太の実弟と同様の服毒自殺を促す︶計画が浮上した。 この以蔵毒殺計画に関しては、後年の小説やドラマ等の創作の影響から、保身に走った半平太が以蔵の自白を恐れ、獄外の同志に指令を発して以蔵毒殺計画を実行したため、以蔵がこれに憤怒し、半平太に対する憤りから自白を重ねたとする風説が流布されている。しかし、﹁武市瑞山獄中書簡﹂の編註者である横田達雄の研究によれば、前述の通り、以蔵は早々と拷問に屈して自白を重ねた事、半平太は同志間で持ち上がった強引な以蔵毒殺計画には反対し、以蔵の実家からの承諾を優先させた事、以蔵の実家から承諾を得られないまま獄が結審を迎えたため、最終的に毒殺計画は実行に移されていない事が判明している。さらに以蔵本人は、自身の自白によって同志らが一層厳しい境遇に追いやられた事を後悔し、以後の取調べにおいては、自身の自白内容について曖昧にボカすなどしていた事も判明している[注釈 2]。 以蔵ら4名の自白はあったものの、半平太らが一連の容疑を否認し続けたため、監察府は半平太や他の勤王党志士の罪状を明確に立証するまでには至らなかった。そして慶応元年閏5月11日︵1865年7月3日︶、業を煮やした容堂の御見付︵証拠によらない一方的罪状認定︶により﹁主君に対する不敬行為﹂という罪目で、半平太は切腹を命じられる。岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎の自白組4名は斬首、その他は9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まった。半平太ら勤王党志士が一連の容疑を頑なに否認したことで、死刑は盟主である半平太の切腹と以蔵ら自白組4名の斬首のみとなり、獄外同志やその他協力者への連累は食い止められた。 即日刑が執行され、以蔵ら4名は獄舎で斬首。切腹を命じられた半平太は体を清めて正装し、同日20時ごろ、南会所大広庭にて、未だ誰もなしえなかったとさえ言われてきた三文字割腹の法を用いて、法式通り腹を三度かっさばいた後、前のめりになったところを両脇から二名の介錯人に心臓を突かせて絶命した。享年37︵満35歳没︶。 辞世の句は、 ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり[45] であった。没後[編集]
名誉回復と顕彰[編集]
武市に関しては、土佐藩内で罪人として処罰された経緯があったが、維新後、有志の盡力により、明治10年︵1877年︶に名誉回復される。 明治17年︵1884年︶に元土佐藩士の土方久元・田中光顕・佐々木高行らが中心となって瑞山会が結成されて土佐勤王党殉難者の記念碑建立と武市半平太の伝記編纂が決められた。翌年、高知縣護國神社に﹁南海忠烈碑﹂が建立される。 さらに、明治24年︵1891年︶4月8日に坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。5月8日、東京・九段坂上︵靖國神社︶において、武市の追贈︵贈正四位︶奉告式が挙行された。この式典に際し、富子夫人は、実弟の島村笑児を伴って上京し参列。清華家からの代表者として右大臣岩倉具視、旧土佐藩主山内豊範、 旧土佐藩大監察後藤象二郎、板垣退助、佐々木高行、土方久元、田中光顕らを初め土佐勤王党の同志ら朝野の済々多士が参列。山内、板垣、後藤らが神前に深々と頭を垂れ、懇ろに拝したのを見て、富子は感極まって涙したという。 勤皇烈士武市瑞山以下贈位祭典 祭文 故武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎君の霊みたまに告ぐ。 嗚あ呼あ、君きみ等たちが二十餘年前、鞠きく躬きゅう、國くにに盡つくし、斃たほれて而の後ち已やみし者は、眞まさに大ます丈ら夫を、忠ちゅ烈うれつの志こころざしに負まかずと云ふべし。 聖すめ天らみ子こと、其功いさ勳をを嘉ほめて、爰ここに特旨正四位を贈おくらる。君きみ等たち死して餘よえ榮いありと謂いふべし。抑そも々そも幕末紛ふん々うんの間かんに處しょして、猶なほ能よく國が爲めに薩長の協一を圖はかる坂本、中岡二君の如きあり。維新の大業、實に此これを基もとゐとす。夫それ富ふが嶽くの高きを望のぞみて皆な之これを仰あふくを知る。而しかして之これを仰あふぐ所ゆえ以んを知る者尠すくなし。今や外交多難、民みん力りょく日に疲つかれ、國家百年の長計未いまだ立たず、吾等果して先せん君くんに恥はじるなき乎や。嗚あ呼あ、丈ます夫らをの魂みたまは宜よろしく丈ます夫らをの御みや社しろを以もって祭らむと、故こい友う 位くらゐを設まうけ、旨うま酒ざけ庭にはに芳かぐはす。英えい霊れい髣ほう髴ふつ來きたりて餐うけよ[47]。 明治二十四年五月八日 靖國神社に於て 伯爵 板垣退助[47] 式典の後、九段坂上の富士見軒で開かれた直会の席において、武市の親族[2]でもある板垣は﹁当時の経緯は種々あったとはいえ、土佐藩が瑞山先生を殺した処断は、日本における損失であり洵に誤りで有ったと断言できる﹂と両者の間に立って心痛の思いを吐露し、後藤も同意した。この一言は、土佐勤王党の同志らの思いを代弁するもので、当時の藩庁側、勤王側、身内側の立場を知る板垣にしか発せられない言葉であったため、一同は永年の溜飲が一時に下がり心から晴々としたと言う[48]。瑞山への取調べが激化した時、板垣は武市を救おうとしたが、藩庁側と意見が合わず﹁不念の儀あり﹂と讒言を受けて職を解かれ、左遷されるかのように遠避けられ、江戸で軍学修行を仰せ付けられていた[49]。伝記の編纂とその後[編集]
伝記は坂崎紫瀾が主筆となり20年余の史料収集・編纂作業を経て大正元年︵1912年︶に﹃維新土佐勤王史﹄が刊行されている。 半平太の切腹後に武市家の家禄は召し上げとなり、未亡人となった富子の生活も困窮した。明治39年︵1906年︶、宮内大臣に出世していた田中光顕が富子に援助の手を差し伸べ、田中をはじめとする瑞山会の庇護によって晩年の富子は手厚く遇され、武市家の養子の半太も医学の道に進むことができ、梼原村︵現高知県高岡郡梼原町︶で開業している[50]。 高知市にある半平太の旧宅と墓所は国の史跡に指定されており、旧宅近くに半平太を祀る瑞山神社がある。また、彼の生涯や業績を紹介する瑞山記念館が地元の住人らによって運営されており、絵師の弘瀬金蔵︵絵金︶の門人でもあった瑞山の手による美人画や﹁童女遊戯図﹂なども展示されている[51][52]。土佐藩士姻族関連系図[編集]
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| 板垣退助 |
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| 宮地茂春 |
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| 柳村惟政 |
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| 菊子 |
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| 島村正壽 |
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| 島村雅風 |
| 武市富子 |
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| 佐尾子 |
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| 沢辺琢磨 |
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| 山本信敬 |
| 山本信固 |
| 山本信年 |
| 山本信道 |
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| 桑津重時 |
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| 坂本直足 |
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| 坂本直方 |
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| 坂本龍馬 |
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| 坂本直澄 |
| 坂本幸 |
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| 福岡孝弟 |
| 福岡秀猪 |
| 宮地呉子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 宮地信貞 |
| 宮地茂好 |
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| 乾直建 |
| 乾正聰 |
| 乾信武 |
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| 宮地茂秋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 乾正成 |
| 板垣退助 |
| 宮地軍子 |
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| 女子 |
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| 寺村道成 |
| 寺村成潔 |
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| 平井政実 |
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| 板垣勝子 |
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| 女子 |
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| 谷村自貞 |
| 谷村自熈 |
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| 谷村自雄 |
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| 日野成文 |
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| 寺村成雄 |
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| 山田信子 |
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| 谷村自高 |
| 谷村自輝 |
| 谷村自庸 |
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| 女子 |
| 山田清廉 |
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| 橋本寅直 |
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| 橋本孝直 |
| 橋本直道 |
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| 武藤好直 |
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| 後藤正晴 |
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| 後藤猛太郎 |
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| 後藤象二郎 |
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| 岩崎早苗 |
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| 岩崎小弥太 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 大塚勝従 |
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| 岩崎俊弥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 後藤正刻 |
| 後藤吉長 |
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| 岩崎弥次郎 |
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| 岩崎弥之助 |
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| 岩崎輝弥 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 岩崎弥太郎 |
| 岩崎久弥 |
| 福沢綾子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 本山茂直 |
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| 福沢諭吉 |
| 福沢捨次郎 |
| 福沢堅次 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 清岡公張 |
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| 清岡春勝 |
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| 清岡成章 |
| 清岡邦之助 |
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| 後藤吉正 |
| 後藤正澄 |
| 琴子 |
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| 吉田正春 |
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| 吉田正幸 |
| 吉田正清 |
| 吉田東洋 |
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