秦豊助
表示
秦 豊助︵はた とよすけ、1872年9月29日︵明治5年8月27日︶ - 1933年︵昭和8年︶2月4日︶は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、拓務大臣。
経歴[編集]
回船問屋・東京府会副議長、秦源祐の長男として東京築地で生まれる。東京府立一中、日本中学校、第一高等中学校を経て、1896年︵明治29年︶7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務属となり内務省参事官室兼県治局勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1897年︵明治30年︶5月、福井県参事官に就任し、愛媛県参事官、千葉県参事官、神奈川県参事官・勧業課長を歴任。1905年︵明治38年︶4月から翌年5月まで欧州に出張。帰国後、1906年︵明治39年︶7月、長崎県事務官・第一部長兼第三部長となり、さらに同県内務部長を務めた。1912年︵明治45年︶3月、秋田県知事となり、さらに徳島県知事を務め、1915年︵大正4年︶1月に休職し、翌月、依願免本官。 1915年3月、埼玉県第一区から第12回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、1932年︵昭和7年︶2月の第18回衆議院議員総選挙まで連続7回当選した。1919年︵大正8年︶4月から1922年︵大正11年︶6月まで逓信次官を務める。加藤高明内閣では、1924年︵大正13年︶8月に海軍政務次官、1925年︵大正14年︶4月に初代商工政務次官に就任。1927年︵昭和2年︶7月から翌年5月まで立憲政友会幹事長を務める。1931年︵昭和6年︶12月、犬養内閣の拓務大臣に就任し、1932年︵昭和7年︶5月、五・一五事件後の内閣総辞職まで在任した。 国光生命保険相互会社取締役も務めた。栄典[編集]
伝記[編集]
- 秦五十子編『秦豊助』秦五十子、1935年。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 若槻禮次郎 |
拓務大臣 第5代:1931 - 1932 |
次代 永井柳太郎 |