シュテファン・ツヴァイク
シュテファン・ツヴァイク(ツワイク[注 1]とも。独: Stefan Zweig, [tsvaɪk], 発音例, 1881年11月28日 - 1942年2月22日)は、オーストリアのユダヤ系作家・評論家である。
シュテファン・ツヴァイク Stefan Zweig | |
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誕生 |
1881年11月28日 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン |
死没 |
1942年2月22日(60歳没) ブラジル ペトロポリス |
職業 | 小説家、評論家 |
国籍 | オーストリア |
ジャンル | 歴史小説、評伝 |
文学活動 | 青年ウィーン |
代表作 |
『マリー・アントワネット』(1933年) 『メアリー・スチュアート』(1935年) |
署名 | |
ウィキポータル 文学 |
1930年代から40年代にかけて大変高名で、多くの伝記文学と短編、戯曲を著した。特に伝記文学の評価が高く、﹃マリー・アントワネット﹄や﹃メアリー・スチュアート﹄﹃ジョゼフ・フーシェ﹄などの著書がある。
第一次世界大戦直後のアメリカで、ツヴァイクの小説の無許可の翻訳が出版された際には、対独感情の悪化を理由に、"Stephen Branch"︵ツヴァイクの本名の英訳︶﹂という仮名で刊行された。
生涯 編集
ツヴァイクは、ウィーンできわめて富裕なユダヤ系織物工場主であるモーリッツ・ツヴァイクと、妻︵イタリア人の銀行家の一族出身︶のイダとの間に生まれた。ウィーン大学で哲学と文学史を学び、1904年に博士論文﹁イッポリート・テーヌの哲学﹂で哲学博士号を取得した︵この博士号は1941年、ナチス支配下のオーストリアで﹁人種的理由から﹂剥奪され、2003年4月になって回復された︶。
ツヴァイクは世紀末ウィーンの優れた文化的環境のもとで、ギムナジウム時代から文学、芸術に親しんでいた。ホーフマンスタールの流れを汲む新ロマン主義︵派︶風の叙情詩人として出発する。詩集﹃銀の弦﹄︵原題 Silberne Saiten、1901年︶で文壇にデビュー。当時の前衛運動である青年ウィーン運動に関与した。
第一次世界大戦開戦後、兵役を免れたツヴァイクはオーストリアの戦時文書課の軍務につき、混迷する世間から引っ込んで暮らそうとした。だが、ガリツィアの戦禍に触れたこと、ロマン・ロランとの交際などから反戦への著述活動を活発化させる。反戦劇﹃エレミヤ﹄︵原題 Jeremias︶の初演を機に中立国であったスイスのチューリッヒに渡る。その後﹃ウィーン新自由新聞﹄︵原題 Neue Freie Presse︶の特派員として記事を送ることを条件にスイスに留まり、ロランらともに反戦平和と戦後の和解に向けた活動に従事する。
第一次大戦後はオーストリアに戻り、1919年から1934年までザルツブルクに滞在する。ザルツブルクでの住居はカプチーナベルクのパッシンガー城であった。1920年にフリデリケ・フォン・ヴィンターニッツ︵Friderike von Winternitz︶と結婚する。以降広く知識人と交わり始め、ヨーロッパの精神的独立のために尽力した。この期間には多くの代表作が書かれ、中でも1927年の﹃人類の星の時間﹄[1]はドイツ語圏では、彼の代表作とされている。1928年にはソヴィエト連邦を旅行して、マクシム・ゴーリキーと交際する。1930年にはアメリカに旅行し、亡命中のアルベルト・アインシュタインに面会して ﹃精神による治療﹄︵原題‥Heilung durch den Geist︶を献呈する。1933年ヒトラーのドイツ帝国首相就任の前後からオーストリアでも反ユダヤ主義的雰囲気が強まり、1934年に武器所有の疑いでザルツブルクの自宅が捜索を受けたことを機に、ユダヤ人で平和主義者だったツヴァイクはイギリスへ亡命する。
ツヴァイクはその後、英国︵バースとロンドン︶に滞在し、1940年に米国へ移った。1941年にはブラジルへ移住。1942年2月22日、ヨーロッパとその文化の未来に絶望して、ブラジルのペトロポリスで、1939年に再婚した2番目の妻であるロッテ︵Charlotte Altmann︶とともに、バルビツール製剤の過量摂取によって自殺した。死の1週間前には、旧日本軍によるシンガポール陥落の報に接し︵シンガポールの戦い︶、同時期にリオデジャネイロのカーニバルを見ており、自分達のいる所とヨーロッパとアジアで行なわれている現実のギャップに耐え切れず、ますます悲観したようである。
遺著となった﹃昨日の世界﹄は、自身の回想録で、著者が失われたものと考えたヨーロッパ文明への賛歌でもあり、今日でも20世紀の証言としても読まれている。
作曲家のリヒャルト・シュトラウスが、ナチ政権下で自身の作品歌劇﹃無口な女﹄︵原題 Die schweigsame Frau︶における、台本作家としてのツヴァイクの名前のクレジットを守るために戦ったことは良く知られている。このため、アドルフ・ヒトラーは予定されていたこの歌劇の初演への出席を取りやめ、結局この歌劇は、3回の公演後に上演禁止とされた。
2009年3月になってツヴァイクの死に1つの説が出てきた。それはアメリカ海軍が新型駆逐艦に﹁シュテファン・ツヴァイク﹂の名前を付けようとして、その事を知ったツヴァイクがますます絶望したという説である[要出典]。その抗議の手紙︵手紙の主は、ツヴァイクと親交があった作家トーマス・マンであったと思われる︶により、アメリカ海軍作戦部長アーネスト・キングは、新型駆逐艦にツヴァイクの名前を付ける事を取りやめる命令をしたという。
情報理工学の研究者にして歌人の坂井修一は﹁ツヴァイクにマンに亡命の地はありき世界ひといろわれらには無し﹂という歌を詠んでいる[2]。
主要作品 編集
●1901年 Silberne Saiten︵﹃銀の弦﹄、詩集︶ ●1907年 Tersites︵﹃テルジテス﹄、戯曲︶ ●1917年 Jeremias︵﹃エレミヤ﹄、戯曲︶ ●1920年 Drei Meister︵﹃三人の巨匠﹄、評伝︶ ●1922年 Amok︵﹃アモク﹄、短編集︶ ●1925年 Der Kampf mit dem Dämon︵﹃デーモンとの闘争﹄、評伝︶ ●1927年 Verwirrung der Gefühle︵﹃感情の混乱﹄、短編集︶ ●1927年 Sternstunden der Menschheit︵﹃人類の星の時間﹄[1]、歴史的短編集:全5作︶ ●1943年 Sternstunden der Menschheit︵﹃人類の星の時間﹄、歴史的短編集‥全12作、上記を増補︶ ●1928年 Drei Dichter ihres Lebens︵﹃三人の自伝作家﹄、評論︶ ●1929年 Joseph Fouché︵﹃ジョゼフ・フーシェ﹄、評伝︶ ●1932年 Marie Antoinette︵﹃マリー・アントワネット﹄、評伝︶[注2] ●1934年 Triumph und Tragik des Erasmus von Rotterdam︵﹃エラスムスの勝利と悲劇﹄、評伝︶ ●1935年 Maria Stuart︵﹃メアリー・スチュアート﹄、評伝︶ ●1936年 Castellio gegen Calvin. Ein Gewissen gegen die Gewalt ︵﹃権力とたたかう良心﹄、評伝‥ジャン・カルヴァンの宗教独裁に反対したセバスチャン・カステリョを扱う︶。 ●1939年 Ungeduld des Herzens︵﹃心の焦燥﹄、小説︶ ●1942年 Die Welt von Gestern︵﹃昨日の世界﹄、回想︶ ●1942年 Schachnovelle︵﹃チェスの話﹄、中編︶ ●没後 Honore de Balzac︵﹃バルザック﹄、評伝。未完の大作︶オペラ 編集
ツヴァイクが台本またはその原案を作ったオペラ。いずれもリヒャルト・シュトラウスの作曲。
●無口な女︵1935年初演︶
●平和の日︵1936年初演、台本はヨーゼフ・グレゴール︶