岡田希雄
人物情報 | |
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別名 |
半宵寫成樓主人 寂寞居 樛園 雀羅草堂 靑虹 大籔訓世 |
生誕 |
服部市治郎 1898年3月15日 日本・京都府葛野郡七条村(現・京都市下京区) |
死没 |
1943年1月31日(44歳没) 日本・京都府乙訓郡久世村(現・京都市南区) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 京都帝国大学 |
両親 |
父:浅吉 母:ヤヱ |
学問 | |
時代 | 大正・昭和 |
活動地域 | 京都府 |
研究分野 |
国語学 国文学 辞書学 |
研究機関 |
立命館大学 龍谷大学 |
指導教員 | 吉澤義則 |
主な業績 |
日本古典文学の文献学的考証 辞書史の書誌学的考証 |
主要な作品 | 『類聚名義抄の研究』 |
来歴
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京都府葛野郡七条村︵現在の京都市下京区︶に農家の服部家の次男として生まれる[2][3]。名は市治郎。3歳で父の浅吉を亡くし、5歳で母のヤヱを亡くした後、乙訓郡久世村︵現在の京都市南区︶にある曹洞宗の鷲尾寺の住職である岡田希僊に引き取られる[注3]。1904年︵明治37年︶に養子として入籍し、1910年︵明治43年︶に得度を受けて﹁希雄﹂と名前を改め、翌1911年︵明治44年︶3月に僧籍に登録された[3]。
1915年︵大正4年︶に京都府立京都第二中学校を卒業後、第三高等学校に入学する[3]。1918年︵大正7年︶に同校を卒業後、京都帝国大学文学部に在籍して国文学を専攻する。1921年︵大正10年︶に卒業後[注4]、同大学の大学院に進学する[注5]。
1928年︵昭和3年︶に立命館大学予科講師[注6]、1941年︵昭和16年︶に同大学教授になったが、翌1942年︵昭和17年︶に病気を理由に休職する。1943年︵昭和18年︶に鷲尾寺の自宅で死去。法名は東岳希雄大和尚[4][8]。
業績
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岡田は地味ながら謹厳かつ実直な学者として知られていた[9][10]。学問に対する態度は徹底的な実証主義であり、その学風は﹁自己の好む所に偏して世俗の好尚如何に関せず、縷析條分、精細緻密、あまりに専門的であり徹底的である[11]﹂とも、﹁洵に微に入り細を穿ちて、周到精査を極め、国語学界において殆ど他の追従をゆるさない[12]﹂とも評されるほど考証学的であった。論文として発表するにあたっては、論証における一切の思考過程を省略せず、﹁何に迷い、何に気づいたか﹂を丁寧に記している[13][14][15]。これには先行研究に対する腹蔵ない直言も相まって﹁枝葉にわたって長く書き過ぎ﹂との非難もあったが、自明の理には冗漫を避けようとする姿勢も一貫していた[13][15]。
その研究対象は広範囲にわたり、和歌・説話などの書誌・作者に関する考証のほか[16][17]、日本語の音韻や語彙などの考証にまで及んでいる[18]。中でも﹃和名類聚抄﹄や﹃類聚名義抄﹄などの古辞書を対象に書誌学的考証を重ね[19]、その成果は﹁辞書史研究に前人未到の新境地を開いた﹂と評価されている[注7]。
逸話
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●自他ともに認める大の酒好きで、よく晩酌をしていた[22][23]。花見などに出かけても必ず二合瓶を携え、花を眺めながら杯を傾けて帰ったという[24]。また﹁猫﹂と渾名されるほどの猫好きでもあった[25]。旅行も好きで、たびたび遠出していたという[24][26][27]。
●岡田は﹁営々として西に東に資料探訪の足を休めず、寸時も研究の筆を措くことは無かつた[28]﹂と評されるほどの蔵書家であった。古書即売会には欠かさず出向き[29]、購入した書籍は本堂の方に保管して、雑誌類は本堂の裏手にある納戸のようなところに入れていたという[30]。大学院在学中に自身が作成した蔵書目録﹃樛園文庫書目志﹄には、およそ1200余点が登載されており、愛書というよりは書淫に近い[4]。その構成は﹁総記﹂﹁文学﹂﹁宗教﹂﹁史学﹂﹁地理﹂﹁美術遊戯﹂﹁貴重書﹂からなっており、明治・大正のほかは概ね江戸時代のものである[10]。これら生前に蒐集していた蔵書は、陸軍士官学校を経て帝国図書館に収集された後、国立国会図書館に﹁岡田文庫﹂として整理されている[4][10][31]。蔵書印は10種類ほど存在する[31]。
著書
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岡田が発表した論文は150近くに及ぶが[32][33]、生前に著書は1冊も出していない。これは喜田貞吉の﹁一度著書に出してしまうと正誤はできないが、雑誌論文ならば以前の考え違いを訂正できる﹂という姿勢に倣ったという[9]。以下に挙げるものは、いずれも全て没後のものである。
●﹃類聚名義抄の研究﹄︵一条書房、1944年。NCID BN0129473X︶
岡田が没した翌年に京都帝国大学時代の恩師や学友らが、生前に発表した﹃類聚名義抄﹄に関する雑誌論文をまとめて刊行したもの。編集責任者は澤瀉久孝。岡田が雑誌本体から自分の論文を切り取って保存していたものを基としており、﹁辞書史研究の画期的な労作﹂とされる[34]。原撰本と位置づけられる﹁図書寮本﹂が発見されたことにより、ほとんどの説が改訂されることになったが[注8]、例えば﹃和名類聚抄﹄の語彙と﹃類聚名義抄﹄の語彙を比較して﹁﹃名義抄﹄の方が﹃和名抄﹄よりも後出の形である﹂と断じるなど[35]、具体的論拠を明確にした精細かつ広博な文献学的考証が残した功績は大きい[36]。
●﹃新譯華厳経音義私記倭訓攷﹄︵京都大學國文學會、1962年。NCID BN14045476︶
岡田が﹃國語國文﹄第11巻3号︵京都帝國大學國文學會、昭和16年3月︶に発表した論文を、一篇のモノグラフとしてそのままオフセット印刷して再版したもの。﹃新譯華厳経音義私記﹄に記載されている全ての語彙を抽出して考証し、和訓や音仮名の索引を加えた労作で[37]、夥しい数の古辞書類が引用されている[38]。
●﹃類聚名義抄の研究﹄手沢訂正本︵勉誠出版、2004年。ISBN 4585031227︶
上記の著作の基盤となっている手沢訂正論文を影印復刻したもの。編集責任者は神鷹徳治。丹念な誤植の訂正、新たな知見による補訂など、原案を留めないほどの添削のあとがある[注9]。本文の訂正は行間に書き込まれており、欄外には本文との関連事項や追加例と思しき用例などが見られる[40]。
●﹃岡田希雄集﹄︵黒田彰・湯谷祐三編﹁説話文学研究叢書﹂第7巻、クレス出版、2004年。NCID BA69412097︶
岡田が執筆した説話文学関係の緒論文を複製したもの[41]。説話文学研究の方面からも注目されている古辞書に関する論文も収録されている[41]。
脚注
編集注釈
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(一)^ 改名時の音読み[1]。遺著である﹃類聚名義抄の研究﹄の奥付には﹁まれお﹂の仮名が振られているが、阪倉篤義 1980、柿谷雄三 1999、高山倫明 2014などは﹁よしお﹂としている。
(二)^ ﹁岡田希雄氏略歴[2]﹂では﹁昭和十七年﹂と記されている。
(三)^ 希僊の妻が母方の縁者にあたるため[3][4]。
(四)^ 卒業論文は﹁源俊頼の歌学﹂[5]。卒業論文に歌学を選んだのは、少時の頃より和歌を好んでいたことによるとされる[4]。
(五)^ 成績優秀のため、研究費は免除されたという[5]。研究題目は﹃万葉集﹄に関するものであった[6]。なお在学中に教員免許状を受領している[7]。
(六)^ この他にも龍谷大学や西山専門学校で教鞭を取っていた[2][7]。
(七)^ 山田忠雄は﹁古辞書に関する個別的記述もしくは一部門ごとの記述において最も高く評価されるべき﹂と述べているほか[20]、﹁この分野における最も多彩なる活動を行った﹂として﹃類聚名義抄の研究﹄のほかに9種の論文を取り上げて評価している[21]。
(八)^ 例えば観智院本などの改篇形のみを研究した点など[35]。
(九)^ 書き込み箇所は長短合わせて900程度あり、多くは黒や青のインクによるものであるが、赤のインクも少なからずあるほか、毛筆や鉛筆で書かれたものも見られる[39]。
出典
編集- ^ 阿久澤忠 2004, p. 558.
- ^ a b c 追悼記事 1943, p. 81.
- ^ a b c d 追悼録 1943, p. 138.
- ^ a b c d e 国立国会図書館 1983, pp. 52–53.
- ^ a b 追悼録 1943, p. 140.
- ^ 追悼記事 1943, p. 71.
- ^ a b 追悼録 1943, p. 139.
- ^ 追悼録 1943, p. 141.
- ^ a b 追悼記事 1943, p. 68.
- ^ a b c 池本幸雄 1988, p. 1.
- ^ 藤井乙男 1944, pp. 1–2.
- ^ 新村出 1944, p. 4.
- ^ a b 追悼記事 1943, pp. 61–63.
- ^ 追悼録 1943, p. 178.
- ^ a b 小林恭治 2007, p. 54.
- ^ 追悼記事 1943, pp. 63–67.
- ^ 追悼録 1943, p. 171.
- ^ 追悼記事 1943, p. 73.
- ^ 追悼記事 1943, pp. 70–75.
- ^ 山田忠雄 1959, p. 8.
- ^ 山田忠雄 1981, pp. 1766–1767.
- ^ 追悼記事 1943, p. 76.
- ^ 追悼録 1943, p. 185.
- ^ a b 追悼記事 1943, p. 79.
- ^ 追悼録 1943, p. 180.
- ^ 追悼録 1943, pp. 168–169.
- ^ 追悼録 1943, pp. 184–185.
- ^ 吉澤義則 1944, p. 6.
- ^ 追悼録 1943, pp. 174–175.
- ^ 追悼記事 1943, p. 78.
- ^ a b 柿谷雄三 1999, p. 81.
- ^ 追悼記事 1943, pp. 82–86.
- ^ 追悼録 1943, pp. 142–156.
- ^ 吉田金彦 1980, p. 913.
- ^ a b 青木孝 1961, p. 278.
- ^ 山本秀人 2014, p. 2115.
- ^ 佐竹昭広 1962, p. 96.
- ^ 馬渕和夫 1962, p. 98.
- ^ 阿久澤忠 2004, p. 546.
- ^ 阿久澤忠 2004, pp. 546–547.
- ^ a b 湯谷祐三 2004, p. 1.
参考文献
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著書
●山田忠雄﹃近代国語辞書の歩み‥その摸倣と創意と︵上下巻︶﹄三省堂、1981年。 NCID BN00439848。
●国立国会図書館 編﹃国立国会図書館所蔵個人文庫展︵その2︶古典籍探求の軌跡‥展示会目録﹄国立国会図書館、1983年。ISBN 4875820550。
論文(編著)
●青木孝﹁辞書・索引作成の歴史﹂﹃国語国文学研究史大成15‥国語学﹄三省堂、1961年、226-279頁。︵増補版、1978年︶
論文(雑誌類)
●﹁岡田希雄氏追悼記事・岡田希雄氏発表論文目録﹂﹃国語国文﹄第13巻第4号、京都帝国大学国文学会、1943年、60-86頁。
●﹁故岡田希雄教授追悼録﹂﹃立命館大学論叢︵国語漢文篇・第3号︶﹄第12巻、立命館出版部、1943年、135-186頁。
●山田忠雄﹁漢和辞典の成立﹂﹃国語学﹄第39号、国語学会、1959年、8-30頁。
●馬渕和夫﹁岡田希雄著﹁新訳華厳経音義私記倭訓攷﹂﹂﹃国語学﹄第51号、国語学会、1962年、98-104頁。
●池本幸雄﹁国立国会図書館所蔵本 蔵書印︵その158︶岡田希雄﹂﹃国立国会図書館月報﹄第326号、国立国会図書館、1988年、1頁。
●小林恭治﹁岡田希雄﹃類聚名義抄の研究﹄﹂﹃日本語学﹄第26巻第5号、明治書院、2007年、54-56頁、NAID 40015440403。
辞書類
●阪倉篤義 著﹁岡田希雄﹂、国語学会 編﹃国語学大辞典﹄東京堂出版、1980年。ISBN 4490101333。
●吉田金彦 著﹁類聚名義抄の研究﹂、国語学会 編﹃国語学大辞典﹄東京堂出版、1980年。ISBN 4490101333。
●柿谷雄三 著﹁岡田希雄﹂、井上宗雄ほか 編﹃日本古典籍書誌学辞典﹄岩波書店、1999年。ISBN 4000800922。
●高山倫明 著﹁岡田希雄﹂、佐藤武義・前田富祺 編﹃日本語大事典︵上下巻︶﹄朝倉書店、2014年。ISBN 9784254510348。
●山本秀人 著﹁類聚名義抄の研究﹂、佐藤武義・前田富祺 編﹃日本語大事典︵上下巻︶﹄朝倉書店、2014年。ISBN 9784254510348。
その他
●藤井乙男﹁序﹂﹃類聚名義抄の研究﹄一条書房、1944年。
●新村出﹁序﹂﹃類聚名義抄の研究﹄一条書房、1944年。
●吉澤義則﹁序﹂﹃類聚名義抄の研究﹄一条書房、1944年。
●佐竹昭広﹁再刊のことば﹂﹃新譯華厳経音義私記倭訓攷﹄京都大學國文學會、1962年。
●阿久澤忠﹁解説﹂﹃類聚名義抄の研究︵手沢訂正本︶﹄勉誠出版、2004年。ISBN 4585031227。
●湯谷祐三﹁解題﹂﹃岡田希雄集﹄クレス出版︿﹁説話文学研究叢書﹂7﹀、2004年。
関連文献
編集- 単著
- 望月郁子『類聚名義抄の文献学的研究』笠間書院、1992年
- 林忠鵬『和名類聚抄の文献学的研究』勉誠出版、2002年。ISBN 4585030883
- 吉田金彦『古辞書と国語』臨川書店、2013年。ISBN 9784653040590
- 大槻信『平安時代辞書論考:辞書と材料』吉川弘文館、2019年。ISBN 9784642085281
- 編著
- 渡辺守邦・島原泰雄編『蔵書印提要』青裳堂書店〈日本書誌学大系44〉、1985年
- 沖森卓也・倉島節尚・加藤知己・牧野武則編『日本辞書辞典』おうふう、1996年。ISBN 4273028905
- 木村晟・片山晴賢編『国立国会図書館蔵岡田希雄旧蔵本節用集』港の人〈北大寺学術研究書2〉、2011年。ISBN 9784896292350
- 日本語学会編『日本語学大辞典』東京堂出版、2018年。ISBN 9784490109009