永井尚志
幕末の武士
永井 尚志(ながい なおゆき/ながい なおむね)は、幕末の武士(旗本)。昭和時代の作家・三島由紀夫の父方の高祖父にあたる(三島の曽祖父である子の尚忠は養子であるため血縁関係はない。なお、尚忠は幕臣の三好長済の次男である)。
永井尚志 | |
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永井尚志 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文化13年11月3日(1816年12月21日) |
死没 | 明治24年(1891年)7月1日 |
改名 | 松平岩之丞→永井岩之丞(幼名)→尚志→介堂(法号) |
戒名 | 崇文院殿介堂日彰大居士 |
墓所 | 東京都荒川区西日暮里の本行寺 |
官位 | 従五位下・玄蕃頭、主水正 |
幕府 | 江戸幕府大目付、若年寄 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
氏族 | 大給松平家→永井氏 |
父母 |
父:松平乗尹、母:側室 養父:永井尚徳 |
兄弟 |
松平某室、女子、尚志ら 養兄弟:松平乗羨 |
子 | 養子:尚忠 |
生涯 編集
文化13年︵1816年︶11月3日、三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。幼名を岩之丞、号を介堂といった。父の晩年に生まれた息子で、既に家督は養子の乗羨に譲っていたことから、25歳のころに旗本の永井尚徳の養子となった。
嘉永6年︵1853年︶、目付として幕府から登用される。安政元年︵1854年︶には長崎海軍伝習所の総監理︵所長︶として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。安政5年︵1858年︶にそれまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行なった。その功績で軍艦奉行に転進したが、直後の将軍後継者争いで一橋慶喜を支持する一橋派に組したため、南紀派の大老・井伊直弼によって罷免され、失脚した。
直弼没後の文久2年︵1862年︶、京都町奉行として復帰し、元治元年︵1864年︶には大目付となる。文久3年︵1863年︶の八月十八日の政変、元治元年︵1864年︶7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。慶応3年︵1867年︶には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ戻り、徳川家の駿府転封が決まった後は榎本武揚と行動を共にして蝦夷地へ渡り、﹁蝦夷共和国﹂の箱館奉行に就任した。しかし、旧幕府軍は半年あまりの戦いの末、明治2年5月に降伏した。新選組隊士の田村銀之助が大正9年に史談会で語ったところによれば、最初に降伏したのが弁天台場の守備に当っていた永井らで、降伏後は五稜郭の榎本らにも頻りに降伏の勧誘を行っていたという[1]。
明治5年︵1872年︶、明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年︵1875年︶に元老院権大書記官に任じられた。
明治24年︵1891年︶7月1日に死去した。享年76。
年譜 編集
※日付は明治5年︵1872年︶までは旧暦
●文化15年︵1818年︶5月13日 - 父・松平乗尹死亡のため、江戸麻布藩邸にて藩主の義兄松平乗羨のもとで養育される。
●天保11年︵1840年︶- 旗本2,000石・永井尚徳の養子となる。幼名・岩之丞はそれまで通り称す。
●弘化4年︵1847年︶4月16日 - 小姓組番士となる。
●嘉永元年︵1848年︶- 昌平坂学問所学問吟味に合格。
●嘉永4年︵1851年︶2月 - 甲府徽典館学頭となる。
●嘉永6年︵1853年︶
●7月20日 - 十番小姓組番頭・牧野筑後守忠直組進物番士より二番徒頭に異動。
●10月8日 - 目付に異動し、海防掛を兼帯し、砲台普請・大砲製鋳等を併せて担当する。
●11月7日 - 布衣に遇せられる。
●嘉永7年︵1854年︶4月5日 - 肥前国長崎駐在。
●安政2年︵1855年︶
●7月29日 - 長崎海軍伝習所総取締を兼帯。
●11月19日 - 従五位下・玄蕃頭に叙任。
●安政4年︵1857年︶
●5月 - 江戸に帰府。
●12月3日 - 勘定奉行︵勝手掛︶に異動。江戸詰にて長崎御用を兼帯す。
●安政5年︵1858年︶7月29日 - 外国奉行に異動。
●安政6年︵1859年︶
●2月24日 - 軍艦奉行に異動。
●8月27日 - 軍艦奉行を罷免され、隠居差控の処分を受ける。
●文久2年︵1862年︶
●7月5日 - 軍艦操練所御用となる。前年9月4日より田沼意尊が若年寄となっており、旗本管轄の若年寄の官職名と同一であることから内規に倣い、主水正︵実父・松平乗尹が藩主時代に任官していた︶に遷任。
●5月7日 - 京都東町奉行に異動。
●元治元年︵1864年︶
●2月9日 - 大目付に異動。
●6月23日 - 宗門改を兼帯。
●元治2年︵1865年︶1月11日 - 大目付を免じ、寄合となる。
●改元して慶応元年10月4日 - 再び大目付となる。
●10月27日 - 外国奉行と長州御用掛を兼帯。
●慶応3年︵1867年︶
●2月3日 - 若年寄格に異動。前年10月24日に若年寄・田沼意尊が御役御免となっていたため、若年寄格への異動に伴い玄蕃頭に還任。
●11月15日︵1867年12月10日︶ - 近江屋事件発生。
●12月15日 - 若年寄に異動。
●慶応4年︵1868年︶ 戊辰戦争
●1月10日 - 従五位下・玄蕃頭の官位を剥奪。
●2月9日 - 若年寄は御役御免。
●2月19日 - 逼塞処分を受ける。
●改元して明治元年12月 - 蝦夷島政府における箱館奉行となる。
●明治2年︵1869年︶5月15日 - 降伏。
●明治4年︵1871年︶1月6日 - 特赦により出獄。
●明治5年︵1872年︶
●1月12日 - 開拓使御用掛となる。
●1月19日 - 左院少議官に異動。
●4月15日 - 正六位に叙位。
●10月8日 - 左院三等議官に異動。︵官制改革による︶
●明治8年︵1875年︶
●4月14日 - 左院三等議官を免ず。
●7月12日 - 元老院権大書記官となる。
●12月7日 - 元老院権大書記官を免本官、位記返上[2]。
●明治24年︵1891年︶7月1日 - 従五位に昇叙。同日、死亡。享年76。死後、正五位に叙せられる。法号‥崇文院殿介堂月影大居士。墓所‥東京都荒川区西日暮里の長久山本行寺