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「エンリコ・マイナルディ」の版間の差分

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{{Portal クラシック音楽}}

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''''''('''Enrico Mainardi''' , [[1897]][[519]]-[[1976]][[410]])[[]][[]][[1957]]<ref name=":1" />

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==経歴==

==経歴==

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==== マックス・レーガーとの出会い ====

==== マックス・レーガーとの出会い ====


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=== 戦争の影響とスランプ ===

=== 戦争の影響とスランプ ===

[[File:Gian Francesco Malipiero (before 1973) - Archivio storico Ricordi FOTO001318.jpg|thumb|作曲の師[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]。]]

レーガーとの演奏会が大成功を収めると、マイナルディは各地から演奏依頼を受け取ったが、第一次世界大戦が開始したため断らざるをえなかった<ref name="マライン122" />。例外的に、[[ハンブルク]]にて指揮者の[[ジークムント・フォン・ハウゼッガー]]と[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]]を共演したり、フランスから楽譜が送られてきた[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]]をミラノで演奏することはあったが<ref name="マライン122" />、4年ほどチェロから離れた<ref>キャンベル (1994)、213頁。</ref>。

レーガーとの演奏会が大成功を収めると、マイナルディは各地から演奏依頼を受け取ったが、第一次世界大戦が開始したため断らざるをえなかった<ref name="マライン122" />。例外的に、[[ハンブルク]]にて指揮者の[[ジークムント・フォン・ハウゼッガー]]と[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]]を共演したり、フランスから楽譜が送られてきた[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]]をミラノで演奏することはあったが<ref name="マライン122" />、4年ほどチェロから離れた<ref>キャンベル (1994)、213頁。</ref>。



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=== 活動再開 ===

=== 活動再開 ===


[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref name=":0" /><ref name=":1"> (1982)190</ref><ref name="123">123</ref><ref> (1977)262</ref>[[]][[]][[]]<ref name=":3" /><ref name="265">,   171994265ISBN 4-06-191637-8</ref>

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特にピアニストのアルパート・シャーンドルとオランダのハーグで行ったリサイタルはスランプ脱出の契機となった<ref name="マライン123" /><ref name="マライン124">マライン、ラインハルト、124頁。</ref>。マイナルディは「苦しかった数年のこと、スランプ、疑惑などすべては過去のものとなったのです」と語り、あがることなく演奏ができた<ref name="マライン123" /><ref name="マライン124" />。なお、少年期のマイナルディの演奏を聴いていた音楽評論家は「なんという奇跡だろう。神童が奇跡的な大人に成長したのだ」と評した<ref name="マライン124" />。

特にピアニストのアルパート・シャーンドルとオランダのハーグで行ったリサイタルはスランプ脱出の契機となった<ref name="マライン123" /><ref name="マライン124">マライン、ラインハルト、124頁。</ref>。マイナルディは「苦しかった数年のこと、スランプ、疑惑などすべては過去のものとなったのです」と語り、あがることなく演奏ができた<ref name="マライン123" /><ref name="マライン124" />。なお、少年期のマイナルディの演奏を聴いていた音楽評論家は「なんという奇跡だろう。神童が奇跡的な大人に成長したのだ」と評した<ref name="マライン124" />。

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[[1933]][[]][[1936|1969]]<ref name=":1" />[[]]<ref name=":1" /><ref> (2001)23-24</ref>

[[1933]][[]][[1936|1969]]<ref name=":1" />[[]]<ref name=":1" /><ref> (2001)23-24</ref>


[[1976年]]4月10日に[[ミュンヘン]]で死去<ref name=":2">ベッキ (1982)、191頁。</ref><ref name=":3" />。

[[1976年]]4月10日に[[ミュンヘン]]で死去<ref name=":3" /><ref name=":2">ベッキ (1982)、191頁。</ref>。



== 人物 ==

== 人物 ==

「私は音楽に奉仕するという信念に、全人生を捧げてきたのであり、自分自身に人々の注目を集めるために、音楽を手段として使ったのではない」という言葉を残している<ref name=":2" />。

「私は音楽に奉仕するという信念に、全人生を捧げてきたのであり、自分自身に人々の注目を集めるために、音楽を手段として使ったのではない」という言葉を残している<ref name=":2" />。


また、[[1957年]]以来、グランチーノのチェロを愛用した<ref name=":1" />。



== レパートリー ==

== レパートリー ==

マイナルディは豊富なレパートリーを有していた<ref name=":1" />。同時代の作曲家の紹介にも熱心で、[[イルデブランド・ピツェッティ]]と[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]の、チェロとオーケストラのための作品を全曲初演している<ref name=":1" />。また、[[クロード・ドビュッシー]] の『[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]]』のイタリア初演も行った<ref name=":1" /><ref name="マライン122" />。さらには、[[エルネスト・ブロッホ]]作曲の『シェモ』をヨーロッパ各地で演奏して紹介した<ref name=":1" />。

マイナルディは豊富なレパートリーを有していた<ref name=":1" />。同時代の作曲家の紹介にも熱心で、[[イルデブランド・ピツェッティ]]と[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]の、チェロとオーケストラのための作品を全曲初演している<ref name=":1" />。また、[[クロード・ドビュッシー]] の『[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]]』のイタリア初演も行った<ref name="マライン122" /><ref name=":1" />。さらには、[[エルネスト・ブロッホ]]作曲の『シェモ』をヨーロッパ各地で演奏して紹介した<ref name=":1" />。



作曲家自身の指揮で演奏することもあり、[[ヒンデミット]]の『チェロ協奏曲』や、[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』でソリストを務めた<ref name=":1" /><ref name="ニューグローヴ265" />。『ドン・キホーテ』については、作曲家自身の指揮で録音も遺している<ref name="ニューグローヴ265" />。

作曲家自身の指揮で演奏することもあり、[[ヒンデミット]]の『チェロ協奏曲』や、[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』でソリストを務めた<ref name=":1" /><ref name="ニューグローヴ265" />。『ドン・キホーテ』については、作曲家自身の指揮で録音も遺している<ref name="ニューグローヴ265" />。

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== 教育活動 ==

== 教育活動 ==

[[File:Perenyi Miklos 2018-04-19.jpg|thumb|弟子の一人[[ミクローシュ・ペレーニ]] (2018年)]]

ベルリン音楽院、サンタ・チェチーリア国立アカデミアで教職についたほか、[[ザルツブルク]]、[[ルツェルン]]、[[エディンバラ]]、[[ハンブルク]]、[[ストックホルム]]、[[ヘルシンキ]]の音楽学校で、チェロと室内楽のマスタークラスを開設した<ref name=":1" />。また、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ショパン、ピツェッティらのチェロおよび室内楽作品を専門とする国際的なマスタークラスやセミナーを開催した<ref name="ニューグローヴ265" />。

ベルリン音楽院、サンタ・チェチーリア国立アカデミアで教職についたほか、[[ザルツブルク]]、[[ルツェルン]]、[[エディンバラ]]、[[ハンブルク]]、[[ストックホルム]]、[[ヘルシンキ]]の音楽学校で、チェロと室内楽のマスタークラスを開設した<ref name=":1" />。また、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ショパン、ピツェッティらのチェロおよび室内楽作品を専門とする国際的なマスタークラスやセミナーを開催した<ref name="ニューグローヴ265" />。




使<ref name="214">214</ref>使使<ref name="214" /><ref name="215">215</ref><ref name="215" /><ref name="215" />

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1957101[[]][[]][[]][[|]][[]]<ref name=""> (2009)197</ref>[[]]退<ref name="" />

1957年10月には、パリで開催された第1回パブロ・カザルス国際コンクールにて、[[ピエール・フルニエ]]、[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]、モーリス・アイゼンバーグ、[[ガスパール・カサド]]、[[ミロシュ・サードロ|ミロシュ・サドロ]]、[[ジョン・バルビローリ]]らとともに審査員を務めた<ref name="ウィルオン">ウィルソン (2009)、197頁。</ref>。なお、審査委員長はポール・パゼレールであり、[[パブロ・カザルス]]は審査員を辞退したものの、コンクールにおける演奏を全て聴いていた<ref name="ウィルオン" />。



マイナルディの弟子には[[ジークフリート・パルム]]、[[ミクローシュ・ペレーニ]]、エッセン音楽学校で教鞭をとった[[ミルコ・ドルナー]]、ハノーヴァー音楽学校の[[クラウス・シュトルク]]、ロンドン・ロイヤル・カレッジの[[ジャン・ディックソン]]、ヘルシンキ ・シベリウス・アカデミーの[[エルッキ・ラウティオ]]、ストックホルム・王立アカデミーの[[グスタフ・グロアンダール]]、トリエステ三重奏団の[[アマデオ・バルドヴィーノ]]、イタリア弦楽三重奏団の[[ジャチント・カラミア]]らがいる<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref>{{Cite web|title=ミクローシュ・ペレーニ - TOWER RECORDS ONLINE|url=https://tower.jp/artist/762703|website=tower.jp|accessdate=2021-01-20}}</ref>。また、弟子の[[イルムガルト・ポッペン]]の配偶者である[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]の才能を見抜き、友人の[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]に紹介した<ref>ノインツィヒ (1997)、91-92頁。</ref>。


[[]][[]][[]][[]][[]] [[]][[]][[]][[]]<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref>{{Cite web||title= - TOWER RECORDS ONLINE|url=https://tower.jp/artist/762703|website=tower.jp|accessdate=2021-01-20}}</ref>[[]][[]][[]]<ref> (1997)91-92</ref>


== 作曲家として ==

== 作曲家として ==

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*リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン 上』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4-560-03846-5。

*リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン 上』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4-560-03846-5。

*リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン 下』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4-560-03847-3。

*リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン 下』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4-560-03847-3。


*音楽之友社編『名演奏家事典(下)』音楽之友社、1982年、ISBN 4-276-00133-1。

*音楽之友社編『名演奏家事典(下)』音楽之友社、1982年、ISBN 4-276-00133-1。

*エリザベス・カウリング『チェロの本ーー歴史、名曲、名演奏家』三木敬之訳、シンフォニア、1989年。

*エリザベス・カウリング『チェロの本』三木敬之訳、シンフォニア、1989年。

*マーガレット・キャンベル『名チェリストたち』山田玲子訳、東京創元社、1994年、ISBN 4-488-00224-2 。

*マーガレット・キャンベル『名チェリストたち』山田玲子訳、東京創元社、1994年、ISBN 4-488-00224-2 。

*柴田南雄、遠山一行総監修『ニューグローヴ 世界音楽大事典 第17巻』講談社、1994年、ISBN 4-06-191637-8。

*柴田南雄、遠山一行総監修『ニューグローヴ 世界音楽大事典 第17巻』講談社、1994年、ISBN 4-06-191637-8。

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== 脚注 ==

== 脚注 ==

{{Reflist|2}}

<references />



== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

127行目: 130行目:

*[https://www.allmusic.com/artist/enrico-mainardi-mn0002162314 Enrico Mainardi] - [[オールミュージック|ALL MUSIC]]

*[https://www.allmusic.com/artist/enrico-mainardi-mn0002162314 Enrico Mainardi] - [[オールミュージック|ALL MUSIC]]

*[https://www.discogs.com/ja/artist/944561-Enrico-Mainardi Enrico Mainardi] - [[Discogs]]

*[https://www.discogs.com/ja/artist/944561-Enrico-Mainardi Enrico Mainardi] - [[Discogs]]


{{Normdaten}}

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{{DEFAULTSORT:まいなるてい えんりこ}}

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[[Category:イタリアのチェリスト]]

[[Category:イタリアのチェリスト]]

[[Category:イタリアの作曲家]]

[[Category:イタリアの作曲家]]


2023年10月11日 (水) 11:30時点における最新版

エンリコ・マイナルディ
生誕 (1897-05-19) 1897年5月19日
出身地 イタリアの旗 イタリアミラノ
死没 (1976-04-10) 1976年4月10日(78歳没)
学歴 ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 チェリスト
担当楽器 チェロ

(Enrico Mainardi , 1897519-1976410)

経歴

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幼少期

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指揮者ヴィクトル・デ・サーバタ (1955年)

1897519[1]26[2][2][1]

5[1][2]1[2][3]

[1]5[3][3]

[3]79112[3]21[3]

191012[1][3]23[3][4][1]

新たな師との出会い

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作曲家マックス・レーガー(1913年)

フーゴー・ベッカーとの出会い

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[4][1][4][5][4]

マックス・レーガーとの出会い

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[4]1913 116[1][4][4]

[4][6][6][1]

[6][7]

戦争の影響とスランプ

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作曲の師ジャン・フランチェスコ・マリピエロ

[7][7]4[8]

1917[1][9][9]

19231925[7][7][10]

活動再開

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[1][10][11][12][9][13]

[10][14][10][14][14]

[15][15]

[16][16]

長年の教育活動と晩年

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19331969[11][11][17]

1976410[9][18]

人物

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使[18]

1957[11]

レパートリー

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[11][11] [7][11][11]

[11][13][13]

[4]

教育活動

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弟子の一人ミクローシュ・ペレーニ (2018年)

[11][13]

使[19]使使[19][20][20][20]

1957101[21]退[21]

 [11][18][22][23]

作曲家として

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[18]32[18]

2[18][24]1941[25][13][26]

[18]

参考文献

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 2009ISBN 978-4-276-21724-9

2011ISBN 978-4-86410-090-8

 2001ISBN 4-560-03846-5

 2001ISBN 4-560-03847-3

1982ISBN 4-276-00133-1

1989

1994ISBN 4-488-00224-2 

  171994ISBN 4-06-191637-8

 1977

H20   2004ISBN 4-87198-532-6

A 1997ISBN 4-276-21776-8

1982

J.=H. : 1965

脚注

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(一)^ abcdefghijk (1982)189

(二)^ abcd (1965)118

(三)^ abcdefgh (1965)119

(四)^ abcdefghi (1965)120

(五)^  (2011)258-259

(六)^ abc (1965)121

(七)^ abcdef (1965)122

(八)^  (1994)213

(九)^ abcd1982968-969

(十)^ abcd123

(11)^ abcdefghijk (1982)190

(12)^  (1977)262

(13)^ abcde,   171994265ISBN 4-06-191637-8

(14)^ abc124

(15)^ ab (2001)211

(16)^ ab (2004)157

(17)^  (2001)23-24

(18)^ abcdefg (1982)191

(19)^ ab214

(20)^ abc215

(21)^ ab (2009)197

(22)^  - TOWER RECORDS ONLINE. tower.jp. 2021120

(23)^  (1997)91-92

(24)^  (1989)114

(25)^  (1989)99-100

(26)^  (1989)202

外部リンク

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