「エンリコ・マイナルディ」の版間の差分
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'''エンリコ・マイナルディ'''('''Enrico Mainardi''' , [[1897年]][[5月19日]]-[[1976年]][[4月10日]])は[[イタリア]]の[[チェロ]]奏者、作曲家、指揮者。[[ |
'''エンリコ・マイナルディ'''('''Enrico Mainardi''' , [[1897年]][[5月19日]]-[[1976年]][[4月10日]])は[[イタリア]]の[[チェロ]]奏者、作曲家、指揮者である。幼少期よりソリストとして活躍しつつ、[[ベルリン国立歌劇場]]の首席チェロ奏者を務めたり、[[サンタ・チェチーリア国立アカデミア]]で教鞭を取ったりした。また、同時代の作曲家の紹介にも尽力した。
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==経歴== |
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==== マックス・レーガーとの出会い ==== |
==== マックス・レーガーとの出会い ==== |
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ベッカーとの縁で、マイナルディは作曲家[[マックス・レーガー]]との交流の機会を得た<ref name="マライン120" />。ベッカーは1913年、[[ハイデルベルク]]のバッハ祭にて、レーガーの﹃チェロ・ソナタ 作品116﹄を初演するよう依頼されたが、ベッカーはそれを丁重に断り、弟子のマイナルディが代理を務めても良いか確認した<ref name=" |
ベッカーとの縁で、マイナルディは作曲家[[マックス・レーガー]]との交流の機会を得た<ref name="マライン120" />。ベッカーは1913年、[[ハイデルベルク]]のバッハ祭にて、レーガーの﹃チェロ・ソナタ 作品116﹄を初演するよう依頼されたが、ベッカーはそれを丁重に断り、弟子のマイナルディが代理を務めても良いか確認した<ref name=":0" /><ref name="マライン120" />。この申し出は受理されマイナルディに楽譜が送られたが、この時マイネルディはイタリアにいたため、ミラノ音楽院の作曲の教員とともに作品を研究した<ref name="マライン120" />。
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その後ハイデルベルクに赴き、あるピアノ商のホールにて、ピアノを弾くレーガーとリハーサルを行ったが、初日にほとんど声をかけられなかったため、マイナルディはレーガーからイタリアに帰るよう言われると思っていた<ref name="マライン120" /><ref name="マライン121">マライン (1965)、121頁。</ref>。しかしレーガーはマイナルディの演奏を気に入っており、リハーサル、本番を経てベッカーに﹁マイナルディを紹介してくれたことを感謝する﹂という旨の葉書を送った<ref name="マライン121" />。また、この演奏会によりマイナルディは音楽界から注目を集めるようになった<ref name=":0" />。
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その後ハイデルベルクに赴き、あるピアノ商のホールにて、ピアノを弾くレーガーとリハーサルを行ったが、初日にほとんど声をかけられなかったため、マイナルディはレーガーからイタリアに帰るよう言われると思っていた<ref name="マライン120" /><ref name="マライン121">マライン (1965)、121頁。</ref>。しかしレーガーはマイナルディの演奏を気に入っており、リハーサル、本番を経てベッカーに﹁マイナルディを紹介してくれたことを感謝する﹂という旨の葉書を送った<ref name="マライン121" />。また、この演奏会によりマイナルディは音楽界から注目を集めるようになった<ref name=":0" />。
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=== 戦争の影響とスランプ === |
=== 戦争の影響とスランプ === |
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[[File:Gian Francesco Malipiero (before 1973) - Archivio storico Ricordi FOTO001318.jpg|thumb|作曲の師[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]。]] |
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レーガーとの演奏会が大成功を収めると、マイナルディは各地から演奏依頼を受け取ったが、第一次世界大戦が開始したため断らざるをえなかった<ref name="マライン122" />。例外的に、[[ハンブルク]]にて指揮者の[[ジークムント・フォン・ハウゼッガー]]と[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]]を共演したり、フランスから楽譜が送られてきた[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]]をミラノで演奏することはあったが<ref name="マライン122" />、4年ほどチェロから離れた<ref>キャンベル (1994)、213頁。</ref>。 |
レーガーとの演奏会が大成功を収めると、マイナルディは各地から演奏依頼を受け取ったが、第一次世界大戦が開始したため断らざるをえなかった<ref name="マライン122" />。例外的に、[[ハンブルク]]にて指揮者の[[ジークムント・フォン・ハウゼッガー]]と[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]]を共演したり、フランスから楽譜が送られてきた[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]の[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]]をミラノで演奏することはあったが<ref name="マライン122" />、4年ほどチェロから離れた<ref>キャンベル (1994)、213頁。</ref>。 |
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=== 活動再開 === |
=== 活動再開 === |
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その後、[[ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団]]のチェロ奏者や、[[ベルリン国立歌劇場]]の首席チェロ奏者を務め、[[レオ・ブレッヒ]]や[[エーリヒ・クライバー]]の指揮のもとで演奏したが、その傍らで[[エドヴィン・フィッシャー]]や[[ゲオルク・クーレンカンプ]]︵クーレンカンプ亡き後は[[ヴォルフガング・シュナイダーハン]]︶とトリオを結成した<ref name=":0" / |
その後、[[ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団]]のチェロ奏者や、[[ベルリン国立歌劇場]]の首席チェロ奏者を務め、[[レオ・ブレッヒ]]や[[エーリヒ・クライバー]]の指揮のもとで演奏したが、その傍らで[[エドヴィン・フィッシャー]]や[[ゲオルク・クーレンカンプ]]︵クーレンカンプ亡き後は[[ヴォルフガング・シュナイダーハン]]︶とトリオを結成した<ref name=":0" /><ref name="マライン123">マライン、ラインハルト、123頁。</ref><ref name=":1">ベッキ (1982)、190頁。</ref><ref>シュトラッサー (1977)、262頁。</ref>。また、[[エルンスト・フォン・ドホナーニ]]、[[カルロ・ゼッキ]]、[[ヴィルヘルム・バックハウス]]とデュオ活動を行った<ref name=":3" />。さらに、バロックや古典派の協奏曲では独奏部分を弾きながら指揮をすることもあった<ref name="ニューグローヴ265">長谷川勝英﹁マイナルディ, エンリーコ﹂柴田南雄、遠山一行総監修﹃ニューグローヴ 世界音楽大事典 第17巻﹄講談社、1994年、265頁。ISBN 4-06-191637-8。</ref>。
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特にピアニストのアルパート・シャーンドルとオランダのハーグで行ったリサイタルはスランプ脱出の契機となった<ref name="マライン123" /><ref name="マライン124">マライン、ラインハルト、124頁。</ref>。マイナルディは「苦しかった数年のこと、スランプ、疑惑などすべては過去のものとなったのです」と語り、あがることなく演奏ができた<ref name="マライン123" /><ref name="マライン124" />。なお、少年期のマイナルディの演奏を聴いていた音楽評論家は「なんという奇跡だろう。神童が奇跡的な大人に成長したのだ」と評した<ref name="マライン124" />。 |
特にピアニストのアルパート・シャーンドルとオランダのハーグで行ったリサイタルはスランプ脱出の契機となった<ref name="マライン123" /><ref name="マライン124">マライン、ラインハルト、124頁。</ref>。マイナルディは「苦しかった数年のこと、スランプ、疑惑などすべては過去のものとなったのです」と語り、あがることなく演奏ができた<ref name="マライン123" /><ref name="マライン124" />。なお、少年期のマイナルディの演奏を聴いていた音楽評論家は「なんという奇跡だろう。神童が奇跡的な大人に成長したのだ」と評した<ref name="マライン124" />。 |
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[[1933年]]からベッカーの後を継いでベルリン音楽院のチェロ科教授になったが、翌年には[[サンタ・チェチーリア国立アカデミア]]の教授に転出し、[[1936年|1969年]]まで務めた<ref name=":1" />。また、ザルツブルクでマスタークラスを開きつつ、[[ザルツブルク音楽祭]]にも参加した<ref name=":1" /><ref>オズボーン (2001)、下巻、23-24頁。</ref>。
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[[1933年]]からベッカーの後を継いでベルリン音楽院のチェロ科教授になったが、翌年には[[サンタ・チェチーリア国立アカデミア]]の教授に転出し、[[1936年|1969年]]まで務めた<ref name=":1" />。また、ザルツブルクでマスタークラスを開きつつ、[[ザルツブルク音楽祭]]にも参加した<ref name=":1" /><ref>オズボーン (2001)、下巻、23-24頁。</ref>。
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[[1976年]]4月10日に[[ミュンヘン]]で死去<ref name=":2">ベッキ (1982)、191頁。</ref |
[[1976年]]4月10日に[[ミュンヘン]]で死去<ref name=":3" /><ref name=":2">ベッキ (1982)、191頁。</ref>。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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「私は音楽に奉仕するという信念に、全人生を捧げてきたのであり、自分自身に人々の注目を集めるために、音楽を手段として使ったのではない」という言葉を残している<ref name=":2" />。 |
「私は音楽に奉仕するという信念に、全人生を捧げてきたのであり、自分自身に人々の注目を集めるために、音楽を手段として使ったのではない」という言葉を残している<ref name=":2" />。 |
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また、[[1957年]]以来、グランチーノのチェロを愛用した<ref name=":1" />。 |
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== レパートリー == |
== レパートリー == |
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マイナルディは豊富なレパートリーを有していた<ref name=":1" />。同時代の作曲家の紹介にも熱心で、[[イルデブランド・ピツェッティ]]と[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]の、チェロとオーケストラのための作品を全曲初演している<ref name=":1" />。また、[[クロード・ドビュッシー]] の『[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]]』のイタリア初演も行った<ref name=" |
マイナルディは豊富なレパートリーを有していた<ref name=":1" />。同時代の作曲家の紹介にも熱心で、[[イルデブランド・ピツェッティ]]と[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]の、チェロとオーケストラのための作品を全曲初演している<ref name=":1" />。また、[[クロード・ドビュッシー]] の『[[チェロソナタ (ドビュッシー)|チェロ・ソナタ]]』のイタリア初演も行った<ref name="マライン122" /><ref name=":1" />。さらには、[[エルネスト・ブロッホ]]作曲の『シェロモ』をヨーロッパ各地で演奏して紹介した<ref name=":1" />。 |
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作曲家自身の指揮で演奏することもあり、[[ヒンデミット]]の『チェロ協奏曲』や、[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』でソリストを務めた<ref name=":1" /><ref name="ニューグローヴ265" />。『ドン・キホーテ』については、作曲家自身の指揮で録音も遺している<ref name="ニューグローヴ265" />。 |
作曲家自身の指揮で演奏することもあり、[[ヒンデミット]]の『チェロ協奏曲』や、[[リヒャルト・シュトラウス]]の『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』でソリストを務めた<ref name=":1" /><ref name="ニューグローヴ265" />。『ドン・キホーテ』については、作曲家自身の指揮で録音も遺している<ref name="ニューグローヴ265" />。 |
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== 教育活動 == |
== 教育活動 == |
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[[File:Perenyi Miklos 2018-04-19.jpg|thumb|弟子の一人[[ミクローシュ・ペレーニ]] (2018年)]] |
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ベルリン音楽院、サンタ・チェチーリア国立アカデミアで教職についたほか、[[ザルツブルク]]、[[ルツェルン]]、[[エディンバラ]]、[[ハンブルク]]、[[ストックホルム]]、[[ヘルシンキ]]の音楽学校で、チェロと室内楽のマスタークラスを開設した<ref name=":1" />。また、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ショパン、ピツェッティらのチェロおよび室内楽作品を専門とする国際的なマスタークラスやセミナーを開催した<ref name="ニューグローヴ265" />。 |
ベルリン音楽院、サンタ・チェチーリア国立アカデミアで教職についたほか、[[ザルツブルク]]、[[ルツェルン]]、[[エディンバラ]]、[[ハンブルク]]、[[ストックホルム]]、[[ヘルシンキ]]の音楽学校で、チェロと室内楽のマスタークラスを開設した<ref name=":1" />。また、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ショパン、ピツェッティらのチェロおよび室内楽作品を専門とする国際的なマスタークラスやセミナーを開催した<ref name="ニューグローヴ265" />。 |
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マイナルディは自分の型を弟子たちに押し付けることは控え、自分の指使いやボーイングを弟子に見せることにはあまり積極的ではなかった<ref name="キャンベル214">キャンベル、214頁。</ref>。その代わり、解釈との関連で指使いについて議論することを好み、弟子たちが自分にあった指使いを習得することを望んだ<ref name="キャンベル214" /><ref name="キャンベル215">キャンベル、215頁。</ref>。また、チェロ・パートだけでなく全ての楽器の楽譜を把握していることを要求しており、度々自身でオーケストラパートをピアノで演奏した<ref name="キャンベル215" />。さらに弟子たちには、演奏者は作曲家に仕える存在であり、個人的な成功よりも音楽の意味を伝えることに努めるべきだと説いた<ref name="キャンベル215" />。
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マイナルディは自分の型を弟子たちに押し付けることは控え、自分の指使いやボーイングを弟子に見せることにはあまり積極的ではなかった<ref name="キャンベル214">キャンベル、214頁。</ref>。その代わり、解釈との関連で指使いについて議論することを好み、弟子たちが自分にあった指使いを習得することを望んだ<ref name="キャンベル214" /><ref name="キャンベル215">キャンベル、215頁。</ref>。また、チェロ・パートだけでなく全ての楽器の楽譜を把握していることを要求しており、度々自身でオーケストラパートをピアノで演奏した<ref name="キャンベル215" />。さらに弟子たちには、演奏者は作曲家に仕える存在であり、個人的な成功よりも音楽の意味を伝えることに努めるべきだと説いた<ref name="キャンベル215" />。
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1957年10月には、パリで開催された第1回パブロ・カザルス国際コンクールにて、[[ピエール・フルニエ]]、[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]、モーリス・アイゼンバーグ、[[ガスパール・カサド]]、[[ミロシュ・サードロ|ミロシュ・サドロ]]、[[ジョン・バルビローリ]]らとともに審査員を務めた<ref name="ウィルオン">ウィルソン (2009)、197頁。</ref> |
1957年10月には、パリで開催された第1回パブロ・カザルス国際コンクールにて、[[ピエール・フルニエ]]、[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]、モーリス・アイゼンバーグ、[[ガスパール・カサド]]、[[ミロシュ・サードロ|ミロシュ・サドロ]]、[[ジョン・バルビローリ]]らとともに審査員を務めた<ref name="ウィルオン">ウィルソン (2009)、197頁。</ref>。なお、審査委員長はポール・パゼレールであり、[[パブロ・カザルス]]は審査員を辞退したものの、コンクールにおける演奏を全て聴いていた<ref name="ウィルオン" />。 |
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マイナルディの弟子には[[ジークフリート・パルム]]、[[ミクローシュ・ペレーニ]]、エッセン音楽学校で教鞭をとった[[ミルコ・ドルナー]]、ハノーヴァー音楽学校の[[クラウス・シュトルク]]、ロンドン・ロイヤル・カレッジの[[ジャン・ディックソン]]、ヘルシンキ ・シベリウス・アカデミーの[[エルッキ・ラウティオ]]、ストックホルム・王立アカデミーの[[グスタフ・グロアンダール]]、トリエステ三重奏団の[[アマデオ・バルドヴィーノ]]、イタリア弦楽三重奏団の[[ジャチント・カラミア]]らがいる<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref>{{Cite web|title=ミクローシュ・ペレーニ - TOWER RECORDS ONLINE|url=https://tower.jp/artist/762703|website=tower.jp|accessdate=2021-01-20}}</ref>。また、弟子の[[イルムガルト・ポッペン]]の配偶者である[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]の才能を見抜き、友人の[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]に紹介した<ref>ノインツィヒ (1997)、91-92頁。</ref>。 |
マイナルディの弟子には[[ジークフリート・パルム]]、[[ミクローシュ・ペレーニ]]、エッセン音楽学校で教鞭をとった[[ミルコ・ドルナー]]、ハノーヴァー音楽学校の[[クラウス・シュトルク]]、ロンドン・ロイヤル・カレッジの[[ジャン・ディックソン]]、ヘルシンキ ・シベリウス・アカデミーの[[エルッキ・ラウティオ]]、ストックホルム・王立アカデミーの[[グスタフ・グロアンダール]]、トリエステ三重奏団の[[アマデオ・バルドヴィーノ]]、イタリア弦楽三重奏団の[[ジャチント・カラミア]]らがいる<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref>{{Cite web|和書|title=ミクローシュ・ペレーニ - TOWER RECORDS ONLINE|url=https://tower.jp/artist/762703|website=tower.jp|accessdate=2021-01-20}}</ref>。また、弟子の[[イルムガルト・ポッペン]]の配偶者である[[ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ]]の才能を見抜き、友人の[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]に紹介した<ref>ノインツィヒ (1997)、91-92頁。</ref>。
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== 作曲家として == |
== 作曲家として == |
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*リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン 上』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4-560-03846-5。 |
*リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン 上』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4-560-03846-5。 |
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*リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン 下』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4-560-03847-3。 |
*リチャード・オズボーン『ヘルベルト・フォン・カラヤン 下』木村博江訳、白水社、2001年、ISBN 4-560-03847-3。 |
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*音楽之友社編『名演奏家事典(下)』音楽之友社、1982年、ISBN 4-276-00133-1。 |
*音楽之友社編『名演奏家事典(下)』音楽之友社、1982年、ISBN 4-276-00133-1。 |
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*エリザベス・カウリング『チェロの本 |
*エリザベス・カウリング『チェロの本』三木敬之訳、シンフォニア、1989年。 |
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*マーガレット・キャンベル『名チェリストたち』山田玲子訳、東京創元社、1994年、ISBN 4-488-00224-2 。 |
*マーガレット・キャンベル『名チェリストたち』山田玲子訳、東京創元社、1994年、ISBN 4-488-00224-2 。 |
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*柴田南雄、遠山一行総監修『ニューグローヴ 世界音楽大事典 第17巻』講談社、1994年、ISBN 4-06-191637-8。 |
*柴田南雄、遠山一行総監修『ニューグローヴ 世界音楽大事典 第17巻』講談社、1994年、ISBN 4-06-191637-8。 |
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== 脚注 == |
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== 外部リンク == |
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*[https://www.allmusic.com/artist/enrico-mainardi-mn0002162314 Enrico Mainardi] - [[オールミュージック|ALL MUSIC]] |
*[https://www.allmusic.com/artist/enrico-mainardi-mn0002162314 Enrico Mainardi] - [[オールミュージック|ALL MUSIC]] |
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*[https://www.discogs.com/ja/artist/944561-Enrico-Mainardi Enrico Mainardi] - [[Discogs]] |
*[https://www.discogs.com/ja/artist/944561-Enrico-Mainardi Enrico Mainardi] - [[Discogs]] |
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[[Category:イタリアの作曲家]] |
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2023年10月11日 (水) 11:30時点における最新版
エンリコ・マイナルディ | |
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生誕 | 1897年5月19日 |
出身地 | イタリアミラノ |
死没 | 1976年4月10日(78歳没) |
学歴 | ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | チェリスト |
担当楽器 | チェロ |