「エンリコ・マイナルディ」の版間の差分
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==== ベッカーとの出会い ==== |
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その後イタリアに戻ったマイナルディは、夏休みをトレメッツォで過ごしたが、そこでドイツのチェリストの[[フーゴー・ベッカー]]と出会った<ref name="マライン120" />。ベッカーはマイナルディを弟子にし、冬にはベルリン音楽院でのマスタークラスで指導するとともに、夏にはトレメッツォのコモ湖畔、 |
その後イタリアに戻ったマイナルディは、夏休みを[[トレメッツォ]]で過ごしたが、そこでドイツのチェリストの[[フーゴー・ベッカー]]と出会った<ref name="マライン120" />。ベッカーはマイナルディを弟子にし、冬には[[ベルリン音楽大学|ベルリン音楽院]]でのマスタークラスで指導するとともに、夏にはトレメッツォのコモ湖畔や、オーバーボーツェンの別荘で指導した<ref name=":0" /><ref name="マライン120" />。マイナルディはベッカーについて、厳しくも情愛ある人物だったと回想している<ref name="マライン120" />。
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==== マックス・レーガーとの出会い ==== |
==== マックス・レーガーとの出会い ==== |
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=== オーケストラ活動と室内楽活動 === |
=== オーケストラ活動と室内楽活動 === |
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その後、[[ベルリン国立歌劇場]]のチェロ奏者になる傍ら、[[エドヴィン・フィッシャー]]や[[ゲオルク・クーレンカンプ]](クーレンカンプ亡き後はヴォルフガング・シュナイダーハン)とトリオを結成した<ref name=":0" /><ref name=":1">ベッキ (1982)、190頁。</ref>。また、[[エルンスト・フォン・ドホナーニ]]、[[カルロ・ゼッキ]]、[[ヴィルヘルム・バックハウス]]とデュオ活動を行った<ref name=":3" />。 |
その後、[[ベルリン国立歌劇場]]のチェロ奏者になる傍ら、[[エドヴィン・フィッシャー]]や[[ゲオルク・クーレンカンプ]](クーレンカンプ亡き後は[[ヴォルフガング・シュナイダーハン]])とトリオを結成した<ref name=":0" /><ref name=":1">ベッキ (1982)、190頁。</ref>。また、[[エルンスト・フォン・ドホナーニ]]、[[カルロ・ゼッキ]]、[[ヴィルヘルム・バックハウス]]とデュオ活動を行った<ref name=":3" />。 |
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=== 長年の教育活動と晩年 === |
=== 長年の教育活動と晩年 === |
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ベルリン音楽院、サンタ・チェチーリア国立アカデミアで教職についたほか、[[ザルツブルク]]、[[ルツェルン]]、[[エディンバラ]]、[[ハンブルク]]、[[ストックホルム]]、[[ヘルシンキ]]の音楽学校で、チェロと室内楽のマスタークラスを開設した<ref name=":1" />。また、1957年10月には、パリで開催された第1回パブロ・カザルス国際コンクールにて、[[ピエール・フルニエ]]、[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]、[[モーリス・アイゼンバーグ]]、[[ガスパール・カサド]]、[[ミロシュ・サードロ|ミロシュ・サドロ]]、[[ジョン・バルビローリ]]らとともに審査員を務めた<ref name=":4">ウィルソン (2009)、197頁。</ref>。なお、審査委員長は[[ポール・パゼレール]]であり、[[パブロ・カザルス]]は審査員を辞退したものの、コンクールにおける演奏を全て聴いていた<ref name=":4" />。 |
ベルリン音楽院、サンタ・チェチーリア国立アカデミアで教職についたほか、[[ザルツブルク]]、[[ルツェルン]]、[[エディンバラ]]、[[ハンブルク]]、[[ストックホルム]]、[[ヘルシンキ]]の音楽学校で、チェロと室内楽のマスタークラスを開設した<ref name=":1" />。また、1957年10月には、パリで開催された第1回パブロ・カザルス国際コンクールにて、[[ピエール・フルニエ]]、[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]、[[モーリス・アイゼンバーグ]]、[[ガスパール・カサド]]、[[ミロシュ・サードロ|ミロシュ・サドロ]]、[[ジョン・バルビローリ]]らとともに審査員を務めた<ref name=":4">ウィルソン (2009)、197頁。</ref>。なお、審査委員長は[[ポール・パゼレール]]であり、[[パブロ・カザルス]]は審査員を辞退したものの、コンクールにおける演奏を全て聴いていた<ref name=":4" />。 |
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マイナルディの弟子には[[ジークフリート・パルム]]、[[クラウス・シュトルク]]、[[ジャン・ディックソン]]、[[エルッキ・ラウティオ]]、[[グスタフ・グロアンダール]]、[[アマデオ・バルドヴィーノ]]、[[ジャチント・カラミア]]らがいる<ref name=":1" /><ref name=":2" /> |
マイナルディの弟子には[[ジークフリート・パルム]]、[[ミクローシュ・ペレーニ]]、[[クラウス・シュトルク]]、[[ジャン・ディックソン]]、[[エルッキ・ラウティオ]]、[[グスタフ・グロアンダール]]、[[アマデオ・バルドヴィーノ]]、[[ジャチント・カラミア]]らがいる<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref>{{Cite web|title=ミクローシュ・ペレーニ - TOWER RECORDS ONLINE|url=https://tower.jp/artist/762703|website=tower.jp|accessdate=2021-01-20}}</ref>。
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== 作曲家として == |
== 作曲家として == |
2021年1月20日 (水) 02:24時点における版
エンリコ・マイナルディ | |
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生誕 | 1897年5月19日 |
出身地 | イタリアミラノ |
死没 | 1976年4月10日(78歳没) |
学歴 | ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | チェリスト |
担当楽器 | チェロ |