「エーリヒ・ラインスドルフ」の版間の差分
2010年10月26日10:20(UTC)に貼られた{{訳語疑問点範囲}}、同じ訳が2箇所にあるのに貼られているのが片方だけなのでもう1箇所にも貼っておきます |
編集の要約なし |
||
(33人の利用者による、間の41版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> |
|||
{{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}} |
|||
| Name = エーリヒ・ラインスドルフ |
|||
'''エーリヒ・ラインスドルフ'''('''Erich Leinsdorf''' [[1912年]][[2月4日]] - [[1993年]][[9月11日]])は[[オーストリア]]出身で、後にアメリカに帰化した[[指揮者]]である<ref name="slonimsky">{{cite book | last=Slonimsky | first=N. | edition=8th edition | pages=559| title=The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians | location=New York | publisher=G. Schirmer | year=1994 | isbn=002872416X}}</ref>。アメリカやヨーロッパを渡り歩いて一流のオーケストラや歌劇団を指揮し、演奏に求める水準の高さとともにその辛辣な人柄で有名になった<ref name="eder">{{cite web | url=http://www.allmusic.com/artist/erich-leinsdorf-p199300 | title=Erich Leinsdorf Biography | publisher=All Music | author=Bruce Eder| date= | accessdate=2007-05-25}}</ref>。音楽に関する著書やエッセーもある。 |
|||
| Img = Erich Leinsdorf.png |
|||
| Img_capt = |
|||
| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> |
|||
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> |
|||
| Background = classic |
|||
| Born = {{生年月日|1912|2|4}} |
|||
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> |
|||
| Alias = |
|||
| Blood = <!-- 個人のみ --> |
|||
| School_background = [[ウィーン大学]]、[[ウィーン国立音楽大学]] |
|||
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1912|2|4|1993|9|1}} |
|||
| Origin = {{AUT1918}} |
|||
| Genre = [[クラシック音楽]] |
|||
| Occupation = [[指揮者]] |
|||
| Years_active = |
|||
| Label = |
|||
| Production = |
|||
| Associated_acts = |
|||
| Influences = |
|||
| URL = |
|||
| Current_members = <!-- グループのみ --> |
|||
| Past_members = <!-- グループのみ --> |
|||
}} |
|||
{{Portal クラシック音楽}} |
|||
'''エーリヒ・ラインスドルフ'''(Erich Leinsdorf, [[1912年]][[2月4日]] - [[1993年]][[9月11日]])は、[[オーストリア]]出身で、後に[[アメリカ]]に[[帰化]]した[[指揮者]]である<ref name="slonimsky">{{cite book | last=Slonimsky | first=N. | edition=8th edition | pages=559| title=The Concise Baker's Biographical Dictionary of Musicians | location=New York | publisher=G. Schirmer | year=1994 | isbn=002872416X}}</ref>。アメリカやヨーロッパを渡り歩いて一流のオーケストラや歌劇団を指揮し、演奏に求める水準の高さとともにその辛辣な人柄で有名になった<ref name="eder">{{cite web | url=http://www.allmusic.com/artist/erich-leinsdorf-p199300 | title=Erich Leinsdorf Biography | publisher=All Music | author=Bruce Eder| date= | accessdate=2007-05-25}}</ref>。音楽に関する著書やエッセーもある。 |
|||
==経歴== |
== 経歴 == |
||
[[ファイル:Leinsdorf Czech Philharmonic 1988.jpg|サムネイル|[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮するエーリヒ・ラインスドルフ、ドヴォルザークホール、[[プラハ]]、[[チェコ共和国|チェコ]]、[[1988年]][[7月23日]]]] |
|||
ラインスドルフは[[ウィーン]]のユダヤ人家庭に生まれ、5歳から地元の学校で音楽を学び始めた。[[ザルツブルク]]の[[モーツァルテウム]]で指揮法を学び、その後は[[ウィーン大学]]、[[ウィーン国立音楽大学]]でも勉強を続けた。1937年11月、ラインスドルフはアメリカに向かい、ニューヨークの[[メトロポリタン歌劇場]]で副指揮者の地位を得た。オーストリアがナチス・ドイツに占領されるのは、彼が祖国を発ってわずか数ヶ月後のことであった。当時新人の上院議員であった(そして後の大統領である)リンドン・ジョンソンの支援をうけてラインスドルフはアメリカに留まることが可能になり、また1942年にはアメリカ市民権をえて帰化することができた<ref name="slonimsky"/>。
|
|||
ラインスドルフは[[ウィーン]]の[[ユダヤ人]]家庭に生まれ、5歳から地元の学校で音楽を学び始めた。父はアマチュアのピアニストだった<ref name=meien/>。[[ザルツブルク]]の[[モーツァルテウム]]で指揮法を学び、その後は[[ウィーン大学]]、[[ウィーン国立音楽大学]]でチェロとピアノを学んだ<ref name=mura/>。 |
|||
[[1934年]]から[[1937年]]まで[[ザルツブルク音楽祭]]で著名な指揮者であった[[ブルーノ・ワルター]]や[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]の助手を務める。[[ |
[[1934年]]から[[1937年]]まで[[ザルツブルク音楽祭]]で著名な指揮者であった[[ブルーノ・ワルター]]や[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]の助手を務める。[[1936年]]には[[イタリア]]の[[ボローニャ]]でオペラを指揮している。1937年に[[ニューヨーク]]の[[メトロポリタン歌劇場]]で﹃[[ワルキューレ (楽劇)|ワルキューレ]]﹄を指揮<ref name=meien/>、その後はフランス、イタリアなどで活動する<ref name=meien/>。
|
||
=== 渡米以降 === |
|||
メトロポリタン時代はとりわけ彼の指揮するワーグナーに注目が集まった。1939年に[[アルトゥル・ボダンツキー]]が突然の死を迎えると、ラインスドルフはメトロポリタン歌劇場の{{訳語疑問点範囲|ドイツ音楽主任|cand_prefix=原文|head of German repertoire|date=2010年10月}}となった<ref name="slonimsky"/><ref name="rosenberg"/>。[[1943年]]には3年契約で[[クリーヴランド管弦楽団]]音楽監督の地位を得たが、実際にはほとんど在職期間がなかった。[[第二次世界大戦]]のために[[アメリカ軍]]に徴兵されてしまい、契約も更新されなかったからだ<!-- [[軍楽隊]]のバンドリーダーなどを務めていた-->。1982年から1984年にかけてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督が[[ロリン・マゼール]]から[[クリストフ・フォン・ドホナーニ]]へと移行していた時期に、ラインスドルフは何度か同楽団でコンサートを指揮したことがある。彼の言葉を借りればラインスドルフは「政権交代の橋渡し」役だった<ref name="rosenberg">{{cite book | last=Rosenberg | first=Donald | title=The Cleveland Orchestra Story | location=Cleveland, Ohio | publisher=Gray & Co. | year=2000 | isbn=1-886228-24-8}}</ref>。 |
|||
1937年のザルツブルグ音楽祭で、ラインスドルフはアメリカ人の新聞社オーナーで投資家のチャールズ・エドワード・マーシュと出会った。ユダヤ系音楽家のアメリカへの脱出に力を貸していたマーシュの計らいにより、同年11月にラインスドルフはアメリカに向かい、メトロポリタン歌劇場で副指揮者の地位を得た。[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]が[[ナチス・ドイツ]]に[[アンシュルス|併合]]されるのは、彼が祖国を発ってわずか数か月後のことであった。さらにマーシュの知人で当時テキサス州選出の新人[[アメリカ合衆国下院|下院]]議員であった、後の大統領[[リンドン・ジョンソン]]の支援を受けて、ラインスドルフはアメリカに留まることが可能になり、また1942年にはアメリカ市民権を得て帰化することができた<ref name="slonimsky"/>。 |
|||
[[1938年]]からメトロポリタン歌劇場で常任指揮者を務め、とりわけ[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の解釈で名声を博す。メトロポリタン時代はとりわけ彼の指揮するワーグナーに注目が集まった。[[1939年]]に[[アルトゥル・ボダンツキー]]が突然の死を迎えると、ラインスドルフはメトロポリタン歌劇場のドイツ物レパートリーの責任者となった<ref name=raru/><ref name="slonimsky"/><ref name="rosenberg"/>。 |
|||
[[1947年]]から[[1955年]]の間、ニューヨーク州[[ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者を務めた。しかしそこで出会ったものはロチェスター市民の偏狭な音楽理解であり、それは彼を絶望させることになる。ラインスドルフの「ロチェスターは世界一小奇麗な行き止まりだ!(Rochester is the best disguised dead end in the world!)」という言葉は有名である。短い期間ではあるがニューヨーク・シティ・オペラ{{enlink|New York City Opera}}の音楽監督を務めたのち、再びメトロポリタン歌劇団と提携を結んでいる<ref name="slonimsky"/>。[[1962年]]には高名な[[ボストン交響楽団]]の音楽監督に就任した。ボストンではもっぱら[[RCAレコード]]と組んでレコーティングすることが多かったが、演奏家や管理者と揉めることもしょっちゅうであった<ref name="eder "/>。 |
|||
[[1943年]]には3年契約で[[クリーヴランド管弦楽団]]の音楽監督の地位を得たが、実際にはほとんど在職期間がなかった。[[第二次世界大戦]]のため[[アメリカ軍]]に徴兵されてしまい、契約も更新されなかったからである。1982年から1984年にかけてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督が[[ロリン・マゼール]]から[[クリストフ・フォン・ドホナーニ]]へと移行していた時期に、ラインスドルフは何度か同楽団でコンサートを指揮したことがある。彼の言葉を借りればラインスドルフは「政権交代の橋渡し」役だった<ref name="rosenberg">{{cite book | last=Rosenberg | first=Donald | title=The Cleveland Orchestra Story | location=Cleveland, Ohio | publisher=Gray & Co. | year=2000 | isbn=1-886228-24-8}}</ref>。 |
|||
一度ならずラインスドルフの指揮は歴史的事件の影響を受けている。[[1963年]][[11月22日]]、[[ボストン交響楽団]]の公演中にラインスドルフは演奏を中断して、ダラスでの[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ大統領]][[ケネディ大統領暗殺事件|暗殺]]というショッキングなニュースを聴衆に知らせるとともに、テロリストへの憤りと大統領への哀悼の意を述べ、ベートーヴェンの交響曲第3番から葬送行進曲を披露した<ref name="bennett">{{cite book | last=Bennett | first=Susan | coauthors= | title=President Kennedy Has Been Shot: Experience the Moment-To-Moment Account of the Four Days That Changed America | location=Naperville, IL | publisher=Sourcebooks Mediafusion | year=2003 | isbn=1402201583}}</ref>。 |
|||
[[ファイル:1973 Leinsdorf.jpg|サムネイル|[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団]]を指揮するエーリヒ・ラインスドルフ、[[1973年]][[冬]]]] |
|||
[[1947年]]から[[1955年]]の間、[[ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団]]の音楽監督<ref name=raru/>を務めた。しかしそこで出会ったものは[[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]市民の偏狭な音楽理解であり、それは彼を絶望させることになる。ラインスドルフの「ロチェスターは世界一小奇麗な行き止まりだ! (Rochester is the best disguised dead end in the world!)」という言葉は広く知られるようになった。短い期間ではあるが[[ニューヨーク・シティ・オペラ]]の音楽監督を務めたのち、再びメトロポリタン歌劇団と提携を結んでいる<ref name="slonimsky"/>。[[1962年]]には[[ボストン交響楽団]]の音楽監督に就任した。ボストンではもっぱら[[RCAレコード]]と組んでレコーティングすることが多かったが、演奏家や管理者と揉めることもしょっちゅうであった<ref name="eder "/>。 |
|||
一度ならず、ラインスドルフの指揮は歴史的事件の影響を受けている。[[1963年]][[11月22日]]、ボストン交響楽団の公演中にラインスドルフは演奏を中断して、ダラスでの[[ケネディ大統領暗殺事件|ケネディ大統領暗殺]]というショッキングなニュースを聴衆に知らせるとともに、テロリストへの憤りと大統領への哀悼の意を述べ、ベートーヴェンの[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番]]から葬送行進曲を披露した<ref name="bennett">{{cite book | last=Bennett | first=Susan | coauthors= | title=President Kennedy Has Been Shot: Experience the Moment-To-Moment Account of the Four Days That Changed America | location=Naperville, IL | publisher=Sourcebooks Mediafusion | year=2003 | isbn=1402201583}}</ref>。なお、ケネディ追悼ミサで[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の『[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム]]』を演奏し、現在もCD化され発売されている。 |
|||
[[1967年]]、[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]]を客演指揮することになっていたが、[[第三次中東戦争]]勃発のため急遽帰国している。タキシードを脱ぐのも忘れるほど慌てての帰国であった。演奏会自体は戦争中であったが[[ズービン・メータ]]が代振りをして開催されている<ref name="cohen">{{cite web | url=http://www.jewishsf.com/content/2-0-/module/displaystory/story_id/8894/edition_id/168/format/html/displaystory.html | title=Adversity brings out the best in the Israel Philharmonic | publisher=Jewish news weekly of Northern California | author=Steve Cohen| date=1998-06-05 | accessdate=2007-05-25}}</ref>。1969年にボストン交響楽団を辞めた後は[[メトロポリタン歌劇場]]や[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]など、数々のオーケストラに客演した。[[1978年]]から[[1980年]]の間はベルリン放送交響楽団(現:[[ベルリン・ドイツ交響楽団]])の首席指揮者を務めている<ref name="eder"/>。 |
|||
[[1967年]]、[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]]を客演指揮することになっていたが、[[第三次中東戦争]]勃発のため急遽帰国している。[[タキシード]]を脱ぐのも忘れるほど慌てての帰国であった。演奏会自体は、戦争中であったが[[ズービン・メータ]]が代振りをして開催されている<ref name="cohen">{{cite web | url=http://www.jewishsf.com/content/2-0-/module/displaystory/story_id/8894/edition_id/168/format/html/displaystory.html | title=Adversity brings out the best in the Israel Philharmonic | publisher=Jewish news weekly of Northern California | author=Steve Cohen| date=1998-06-05 | accessdate=2007-05-25}}</ref>。 |
|||
回想録(''Cadenza: A Musical Career'' )は[[1976年]]に上梓された。[[1993年]]、ガンのため、スイスの[[チューリッヒ]]で81歳で亡くなった。 |
|||
[[1969年]]にボストン交響楽団を辞め、全ての常任指揮者から外れた後は、メトロポリタン歌劇場や[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]など、数々のオーケストラに客演した。 |
|||
カラヤンやバーンスタインの陰に隠れた存在であったが、プロコフィエフの管弦楽作品全曲のレコーデイングを初めて実現したり、マーラーの演奏に名演を残すなど堅実な活躍を続けた。また、オーケストラのトレーナーとしても超一流で著名なオーケストラからリハーサルの要請が絶えなかった。クラシック界を陰で支え続けた功績は大きい。 |
|||
[[1974年]]にラインスドルフはメトロポリタン歌劇場で『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』を客演指揮することになるが、経営悪化の関係で歌手のキャンセルなどが相次ぎ、それに対して当時音楽監督の[[ラファエル・クーベリック]]や首席指揮者の[[ジェームズ・レヴァイン]]が無力だったとして『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙に苦言を呈している。これがクーベリックの音楽監督辞任に影響を与えたという説もある<ref name=tei/>{{rp|138}}。その後もラインスドルフはメトロポリタン歌劇場で客演指揮を務めるが、彼の要求は厳しく、たびたびトラブルとなっている<ref name=tei/>{{rp|194}}。 |
|||
==参考文献== |
|||
[[ファイル:Stolperstein für Erich Leinsdorf (Salzburg-Altstadt).jpg|サムネイル|記念プレート]] |
|||
{{Reflist|2}} |
|||
[[1978年]]から[[1980年]]の間はベルリン放送交響楽団(現:[[ベルリン・ドイツ交響楽団]])の首席指揮者を務めている<ref name="eder"/>。 |
|||
<!--==外部リンク== |
|||
*{{allmusic|41:8265}}--> |
|||
{{先代次代|<small>[[メトロポリタン歌劇場]]<br>指揮者</small>|1938 - 1942|[[アルトゥル・ボダンツキー]]|[[ジョージ・セル]]}} |
|||
{{先代次代|<small>[[クリーヴランド管弦楽団]]<br>音楽監督</small>|1943 - 1944|[[アルトゥール・ロジンスキー]]|[[ジョージ・セル]]}} |
|||
{{先代次代|<small>[[ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団]]<br>音楽監督</small>|1947 - 1955|[[ホセ・イトュルビ]]|[[セオドア・ブルームフィールド]]}} |
|||
{{先代次代|<small>[[ニューヨーク・シティ・オペラ]]<br>音楽監督</small>|1956 - 1957|[[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]|[[ユリウス・ルーデル]]}} |
|||
{{先代次代|<small>[[メトロポリタン歌劇場]]<br>指揮者</small>|1957 - 1962|[[ディミトリ・ミトロプーロス]]|[[ラファエル・クーベリック]]}} |
|||
{{先代次代|<small>[[ボストン交響楽団]]<br>音楽監督</small>|1962 - 1969|[[シャルル・ミュンシュ]]|[[ウィリアム・スタインバーグ]]}} |
|||
回想録(''Cadenza: A Musical Career'' )は[[1976年]]に上梓された。1981年にも ''The Composer's Advocate. A Radical Orthodoxy for Musicians'' を書いている<ref name=mura/>。 |
|||
{{DEFAULTSORT:らいんすとるふえりひ}} |
|||
[[1993年]]、癌のため、スイスの[[チューリッヒ]]にて81歳で亡くなった。[[ニューヨーク州]][[:w:Hawthorne, New York|ホーソーン]]のマウント・プレザント墓地に埋葬された。 |
|||
== 参考文献 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Reflist |
|||
|refs=<ref name=mura>{{Cite book |
|||
| 和書 |
|||
| title = 演奏家大事典 第I巻 |
|||
| pages = p.915 |
|||
| year=1982 |
|||
| publisher = 音楽鑑賞教育振興会 |
|||
| asin=B000J7BR7E |
|||
}}</ref> |
|||
<ref name=meien>{{Cite book |
|||
| 和書 |
|||
| title = 名演奏家事典(下) |
|||
| year=1982 |
|||
| publisher = [[音楽之友社]] |
|||
| pages = p.1077 |
|||
| isbn=4-276-00133-1 |
|||
}}</ref> |
|||
<ref name=raru>{{Cite book |
|||
| 和書 |
|||
| editor = [[遠山一行]]、[[海老沢敏]] |
|||
| title = ラールス世界音楽人名事典 |
|||
| year=1989 |
|||
| publisher = [[福武書店]] |
|||
| pages = p.1371 |
|||
| isbn=4-8288-1602-X |
|||
}}</ref> |
|||
<ref name=tei>{{Cite book |
|||
| 和書 |
|||
| author = ジョアンナ・フィードラー |
|||
| title = 帝国・メトロポリタン歌劇場(上巻) |
|||
| year=2003 |
|||
| publisher = [[河合楽器製作所]]・出版部 |
|||
| isbn=4-7609-5013-3 |
|||
}}</ref> |
|||
}} |
|||
==外部リンク== |
|||
*{{Find a Grave|107490090}} |
|||
{{先代次代|<small>[[ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団]]<br>音楽監督</small>|1947年 - 1955年|[[ホセ・イトゥルビ]]|[[セオドア・ブルームフィールド]]}} |
|||
{{先代次代|<small>[[ニューヨーク・シティ・オペラ]]<br>音楽監督</small>|1956年 - 1957年|[[ヨーゼフ・ローゼンシュトック]]|[[ユリウス・ルーデル]]}} |
|||
{{クリーヴランド管弦楽団指揮者}} |
|||
{{メトロポリタン歌劇場指揮者}} |
|||
{{ボストン交響楽団音楽監督}} |
|||
{{ウィーン交響楽団 首席指揮者}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:らいんすとるふ ええりひ}} |
|||
[[Category:アメリカ合衆国の指揮者]] |
[[Category:アメリカ合衆国の指揮者]] |
||
[[Category:オーストリアの指揮者]] |
[[Category:オーストリアの指揮者]] |
||
[[Category:ユダヤ人の指揮者]] |
|||
[[Category:ボストン交響楽団]] |
|||
[[Category:ウィーン国立音楽大学出身の人物]] |
|||
[[Category:アメリカ合衆国帰化市民]] |
|||
[[Category:ナチス・ドイツから逃れたユダヤ人移民]] |
|||
[[Category:ドイツユダヤ系アメリカ人]] |
[[Category:ドイツユダヤ系アメリカ人]] |
||
[[Category:ユダヤ系オーストリア人]] |
[[Category:ユダヤ系オーストリア人]] |
||
[[Category:オーストリア=ハンガリー帝国のユダヤ人]] |
|||
[[Category:ウィーン出身の人物]] |
|||
[[Category:1912年生]] |
[[Category:1912年生]] |
||
[[Category:1993年没]] |
[[Category:1993年没]] |
||
[[ca:Erich Leinsdorf]] |
|||
[[de:Erich Leinsdorf]] |
|||
[[en:Erich Leinsdorf]] |
|||
[[es:Erich Leinsdorf]] |
|||
[[fr:Erich Leinsdorf]] |
|||
[[he:אריך ליינסדורף]] |
|||
[[it:Erich Leinsdorf]] |
|||
[[nl:Erich Leinsdorf]] |
|||
[[pl:Erich Leinsdorf]] |
|||
[[ru:Ляйнсдорф, Эрих]] |
|||
[[zh:埃里希·萊因斯多夫]] |
2024年6月14日 (金) 11:09時点における最新版
エーリヒ・ラインスドルフ | |
---|---|
![]() | |
基本情報 | |
生誕 | 1912年2月4日 |
出身地 |
![]() |
死没 | 1993年9月1日(81歳没) |
学歴 | ウィーン大学、ウィーン国立音楽大学 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
経歴[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/Leinsdorf_Czech_Philharmonic_1988.jpg/220px-Leinsdorf_Czech_Philharmonic_1988.jpg)
渡米以降[編集]
1937年のザルツブルグ音楽祭で、ラインスドルフはアメリカ人の新聞社オーナーで投資家のチャールズ・エドワード・マーシュと出会った。ユダヤ系音楽家のアメリカへの脱出に力を貸していたマーシュの計らいにより、同年11月にラインスドルフはアメリカに向かい、メトロポリタン歌劇場で副指揮者の地位を得た。オーストリアがナチス・ドイツに併合されるのは、彼が祖国を発ってわずか数か月後のことであった。さらにマーシュの知人で当時テキサス州選出の新人下院議員であった、後の大統領リンドン・ジョンソンの支援を受けて、ラインスドルフはアメリカに留まることが可能になり、また1942年にはアメリカ市民権を得て帰化することができた[1]。 1938年からメトロポリタン歌劇場で常任指揮者を務め、とりわけワーグナーの解釈で名声を博す。メトロポリタン時代はとりわけ彼の指揮するワーグナーに注目が集まった。1939年にアルトゥル・ボダンツキーが突然の死を迎えると、ラインスドルフはメトロポリタン歌劇場のドイツ物レパートリーの責任者となった[5][1][6]。 1943年には3年契約でクリーヴランド管弦楽団の音楽監督の地位を得たが、実際にはほとんど在職期間がなかった。第二次世界大戦のためアメリカ軍に徴兵されてしまい、契約も更新されなかったからである。1982年から1984年にかけてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督がロリン・マゼールからクリストフ・フォン・ドホナーニへと移行していた時期に、ラインスドルフは何度か同楽団でコンサートを指揮したことがある。彼の言葉を借りればラインスドルフは﹁政権交代の橋渡し﹂役だった[6]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/24/1973_Leinsdorf.jpg/220px-1973_Leinsdorf.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Stolperstein_f%C3%BCr_Erich_Leinsdorf_%28Salzburg-Altstadt%29.jpg/220px-Stolperstein_f%C3%BCr_Erich_Leinsdorf_%28Salzburg-Altstadt%29.jpg)
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
|
|
|